(3)の直接の続きに行く前に、教科書以外の参考書はどうなのか、書いてみます。

 

このために、いちおう本屋に何度かいって見てみたのですが。

・・・玉石混合というか。

 

思い出しました。 半年ほど前、

「物語文って、結局何を勉強するんだ?」

「他の教科のように、『基本問題』『応用問題』とか、ないのか?」

と素朴な疑問をもって本屋にいったことを。

 

がっかりしたものです。

とにかく問題集が多い。

しかも、上記のような「基本問題」「応用問題」という分け方もない。

しかも、説明文の方は、解説とかも多少はあるのに、物語文はひたすら問題、問題・・・

(そんな中で、唯一みつけたのがふくしま式だったわけですが)。

 

その再確認にいったようなものです。

 

それでも前回とは違い今回は私も見方が多少は進歩(?)したので、目次をみてみました。

物語文のとこになにか副題がないか、どんなことを学ぶのか、と。

 

一つか二つの参考書には目次に、

「登場人物の気持ちを読む」

「場面のうつり変わりをとらえる」

という項目がありました。

そして、本文の中には、

「物語文では登場人物の心情とかが問われる」

とか、説明してあった。

うんうん。 見る人が見れば、この部分は大変役に立つ。

 

また、中には非常にかわった参考書もあって、

広告やマンガ、映画といった画像表現の読解までしているのもある。

これは私も半分は賛成です。

斎藤孝さんも同じようなことを書いてらっしゃいますが。

「読解とは文章を読み解くこと」と思われがちですが、

広い解釈をすれば、文章以外でも読解の対象になると思います

(ただ、その参考書のスタンスは、「映像表現を言葉の力で読解する」というもののようでした。私自身はそうは思いません。

それだと、言葉が映像表現の上にくるような感じになってしまう。

言語化することで、映像表現の意図をわかりやすく説明することはできますが、

それにはそれほど意味がないと思っています。

その理由は「読解力は役にたつか」に書きました

そうではなく、表現の形式として言葉もあれば映像もあると気付くことが大事なのだと思います。どちらが上、ということではない。

特に、最近はビデオも簡単にとれる。百聞は一見にしかず、ということわざもある。災害の様子だって、いくら文で書いてもらっても、画像の方が圧倒的に理解度が違う。

写真すらもろくになかった19世紀までと比べたら、文章による表現の重要度(占める割合)が相対的に下がった、ということは明らかであり、画像表現の価値はキチンと認識しておくべきだと思います。そういうことを国語の授業で伝えることは大事でしょう。純粋な言葉としての国語の価値を相対的に下げることにはなりますが。)。

 

しかし、その他多くの参考書はほぼ問題集でした。

 

中学生向けになると、もっとひどい感じです。

論説文については「論説文とは」とか詳しく解説してあるのに、小説にはそういう解説がなかったりもする。

 

とにかく学ぶ単元として「小説」という項目があるというくくりになっている。

教科書は違った。

教科書は、「登場人物の変化を読もう」とあり、その次に「ごんぎつね」とあった。

実は、教科書には「物語文」とか「物語文を読もう」という書き方がしてないのですね。

 

この違いは、地味ながら大きい。

教科書は、気持ちの表現を学ぶ、というスタンス。

参考書は小説を学ぶ、というスタンス。

 

まあ、参考書・問題集の類は、どうしても試験対策という視点から編集されるので、そのほうがわかりやすいということはあるのかもしれませんが。

 

しかし一番ひどいと思ったのは、

小学生向けだと「物語文」、高校生向けだと「小説」

中学生向けの呼び名はばらばらなのだけど、結構見たのが

「文学的文章」というもの。

 

なんだ? 文学的文章って?

 

ここから先に話を深めると、そもそも文学とは何か、という文学の定義に関する話になって迷宮入りしてしまうので入り口でやめておきますが。

 

小説だけが文学ではないのは明らかです。

 

加藤周一さんによると、大雑把に、

英・米では文学といえば小説中心。

仏・中国などだと小説以外も十分に文学としてみられている。小説は一分野にすぎない。

ということのようです。

 

中国が典型的でわかりやすいのですが、漢文で習うのは詩がおおかったですね。

あるいは論語、そして史記。

論語も史記も、小説ではありません。しかし、中国では中心的文学のようです。

逆に、三国志や西遊記という小説もあるが、文学としての質はおちる、とみなされているようです。

 

そして、世界的に見て、どこの国でも「文学」とみとめられる形式は、おそらく「詩」だけなのです。

歴史的に、優れた小説のない国はあるかもしれないが、詩のない国はない。

 

日本はどちらかというと文学の中心は小説だった。

あまり史記のような評伝とか、評論を文学とはみなさない風潮にあった。

 

だからといって、「文学的文章=小説」というのは、あまりにひどいなあ、と思ったのです。

第一、国語の小説にのるような評論は、内容(主張)もさることながら、文章の質がやはりいい。これだって立派な文学だとおもうのです。

 

とにかく、参考書になると、試験対策のため、「小説では何を学ぶのか」ということはかすんでしまい、「小説問題をどう解くのか」というところに主眼が置かれている感じでした。

 

それは仕方ないのかもしれませんが・・・

でも、「どうして小説問題ではこういう質問が出るのか」「小説問題では何を聞こうとしているのか」ということを何も書かずに、「こういう質問が出たらこうやって解け」というのは、数学の公式丸暗記に近いものがあるなあ、と思うのです。

数学はまだ公式があるからいいけど、国語はそういった公式さえ教えてくれないから、きつい気がします。