それでも「いや、それは違う。やっぱり小説を勉強するんだよ」という意見もあるかもしれません。
もう少し、「小説を学ぶとは、気持ちや場面の表現の仕方を勉強すること。小説は、そのための手段、題材にすぎない」と考えた方がすっきりする根拠や補足をします。
補足①: 推理小説は問題に出ない
推理小説が代表的なのですが、ストーリーの面白さが主であるような小説は、たとえ社会問題をテーマにしたような内容であっても、取り上げられることはありません。
また、試験に、あらすじの要約とか、続きを想像させるとかいった問題はほとんど出ません。たまに小説の主題に関する問いはでるようですが、たまにでしょう。
メインは、「登場人物はどうして〇〇したのでしょう?」というたぐいが多いと思います。
考えてみればおかしな話ではないですか?
どんな小説でも、おはなし=ストーリーがあるから小説なのです。
にもかかわらず、どんなあらすじなのかはほとんど問われない。
あるいは、「小説全体の中でこの場面はどういう意味をもつか」という視点でもよいと思うのですが。
そうではなく、焦点があたるのは、圧倒的にその瞬間の登場人物の気持ちの動きなのです。
だから、推理小説は(少なくとも純粋な推理小説は)出題されません。
また、児童小説なら、たとえば「ズッコケ三人組」シリーズなどのようなものも、出題されません。
実はズッコケシリーズは、回によっては社会問題などシリアスな題材が選ばれていたりもするのでけっこう勉強になったりもして、単純な娯楽とはいえないのですが。
三人組がハワイにいく回があります。ハワイと日本の関係の歴史がきちんと調べられていて、ちょっと意外なことを知れたりもします。
けれど、ズッコケシリーズの面白さはやはりストーリーの面白さなのでしょう。
三人組のキャラクターは個性的だけど、個性的だけに、三人組の心の微妙な変化というものを味わうものではない。ハチベエはハチベエらしく単純であり、モーちゃんはモーちゃんらしくのんびりとしたまま。
そこがある意味、水戸黄門的というか、ドラえもん的というか、一種のワンパターンであり同時に様式美といってもよいような魅力であるようにも思いますが。
気持ちの表現を勉強する素材としては、適当ではない。
あるいは、ストーリーに興味がいきすぎるのは、邪魔になるのかもしれません。
補足②: 作者の意図と出題者の意図が違う
昔からよく言われる論争です。作者の意図と出題者の意図が違うのではないか、ということ。
要するに、「出題の答えはこうなっているが、作者の意図は違うのではないか」というもの。
昔、作者自身が自分の物語の試験問題を取り上げて、
「主人公の心情の問題があって、正解は(イ)となっているけど、それは違う。しいていえば全部だ」
とか書いてくださったりしたのを読んだことがあります
(でもさすがにそれを学校の先生にもっていって「どうなってるの?」と聞くようなことはしませんでした)。
この疑問は私が現役の頃は、あいまいなままでした。
これについては今はかなりはっきりしているようです。
どうはっきりしたかというと、「出題者の意図と作者の意図は違う」ということ。
しかもさらに踏み込んで、それは違っていてもいい、ということが常識となりつつあるようです。
まあ、違うと認めたうえで、違うのは問題だ、ということにはできないし。
かといって意図を同じにすることはどう考えても不可能ですから、当たり前の結論ではあるのと、ある意味正直に宣言がなされている、とは思います。
しかしそこから踏み込むと、では出題者の意図とは何か、ということが疑問になってきます。
違うのはわかったけど、何が聞きたいの? と。
それについてははっきりとは書いてないことが多い。
また、作者の意図と違うのなら、普通に考えれば、それって「小説を勉強」していることにはなりませんよね?
何かの小説の研究をするとして、「私がこれから主張することは作者の言いたいこととは違います」では、肝心の小説は置いてけぼりで、自分の言いたいことを言っているだけになってしまいます。
小説を勉強しているが、作者の意図など大事ではなく(極端にいえば作者の意図など無視)出題者の意図がすべてー。
この矛盾を解決するとすればやはり、「勉強しているのは本当は小説じゃないんだよ」と考えるのはスマートではないでしょうか。
つまり、「状況とか、人物の気持ちを言葉を使ってどう表現するかを勉強することは大事」「それには、この小説のこの箇所がちょうど適当だから、題材として拝借した」という理屈が一番すっきりすると思うのですが。
それなら、その小説全体の作者のいいたいことが別でも、筋は通ると思うのです。
補足③: 形式が小説に似ているものは、どう扱う?
「小説を学ぶ重要性」を主張する理屈の一つに、
「自分だけの人生だと経験が狭くなる。フィクションを通していろいろな世界を疑似体験することが人間的な成長にとって大事」
というようなものがあります。
理科や数学の理系科目はもちろん、社会や英語といった文系科目ですら、学ぶ人の「人間的な成長」そのものを目的としてはいないと思うのに、なぜ小説のときだけ「成長」がでてくるのか不自然な気もしますが、そこのつっこみはやめておいて<笑>。
ここで書きたいのは、「なんでフィクション?」ということです。ノンフィクションじゃだめなの?
ノンフィクションに有名なものは少ないかもしれませんが、たとえば日記はどうでしょう。
日記で筆者の言いたいことは、決して評論的なことではないはずです。
日々に思ったことや感じたことをみずみずしく書けば、それは何かの学びになるはずです。
しかも、事実であるということは、「本当にこんな人がいたんだ」「こんなことがあったんだ」という迫真性があります。
事実は小説より奇なり。それこそ疑似体験としては、フィクションよりも説得力が違います。
さらにいえば、伝記小説がある。これだと形式はさらに(フィクションとしての)小説に近い。
しかも何事かを成し遂げた人の伝記であれば、読みごたえも十分でしょう。
「疑似体験が大事」というのなら、小説を学ぶのもいいけど、バランスをとってこうした日記や伝記も勉強すべき、という主張は成り立つと思うのです。
日記についていえば、自分が日記を書く際の参考にもなると思います。
小説を学んで小説を書く人は少ないでしょうが、日記を書く人はたくさんいるでしょうから、そういう意味でも実際的です。役に立ちそうです。
「いや、想像力が大事なんだよ」という主張もあるかもしれない。
であれば、ファンタジー小説が国語に出てこないのはなぜか。
いや、ファンタジーっぽい話もあるにはある(「おにたのぼうし」とか)が、指輪物語といったような壮大なファンタジー小説はでてこないですね。なぜか。
そのすべての理由は、補足①に同じく、だと思います。
日記や伝記、ファンタジー小説よりも「普通の」小説のほうが、あることを勉強することに一番適当だからです。
つまり、私たちの普段の生活の情景描写とか、心情表現に。
補足④: 小説を学ぶとは?
それでも学ぶのがやはり小説であるとして、いったい小説を学ぶとはどういうことなのでしょう?
本当に「小説を勉強するのだ」というのなら、①や③であげたような小説も取り上げて、「こういう小説もあるんだよ」とバラエティ豊かに紹介するのが筋だと思いますが、そういう意味ではとりあげられる小説のジャンルは狭いのですね。
まるで、「こういう感じの小説以外は小説とはいわない」といわんばかり。いや、いわないというより、無視に近い。
この感じ、何かに似てるな、と思ったら、そうそう、NHKに似てます。NHKを見ていると、NHK以外の放送局なんかないかのような感じなのですね
(いや、私はNHKは好きなんですけどね。あれだけは不自然に感じますね。
一昔前はもっとそういう感じが強かったけど)。
一種の心情描写がメインの小説ばかりなのです。
だから、歴史小説も少ないし、直木賞作家の小説も少ない。
実際に今の小説の授業でおこなわれているのは人の気持ちの動きを追うことが中心だと思います。だったら結局、「小説を学ぶ=人の気持ちの表現の仕方を学んでいる」ということになってしまいます。
少なくとも、試験問題を解く勉強をするときは、「小説を勉強している」という観点ではなく、私のような観点から勉強するほうがすっきりすると思います。だって、そういう問題ばかりがでるのですから。
補足⑤: 気持ちの表現は、それほど学ぶ内容が多いのか?
逆に、人の気持ちの動きの表現を学ぶとは、そんなに時間がかかるものなのか?という疑問もあるかもしれません。
種明かしをいえば、試験問題に対する答えの形式は、非常に浅いもののようです。
からくりがわかれば、「あれ? 小説問題って、浅いんだ」と感じると思います。
ただそれは、「〇〇とあるが、なぜか」という質問に対して、「△△だから」と、形式としての答え方のきまりという意味で、です
(脱線ですが、(3)の木竜うるしで書いたような書き方が正しい答え方の形式のようです。
くわしくはふくしま式を。
この、答え方の形式をきちんと教えてくれてない、というのが小説問題に関するなぞであり、不思議なところです。 これは大きな問題だと思うのですが)。
「△△だから」の「△△」をどう書くか、というところは、やはり難しく、学年があがるにつれ、レベルも上がっていくようです。
私も今回調べてみて驚いたのですが、言葉による感情表現というのは実に多彩にあるのですね。
普段だと、喜怒や悲しいくらいしか思いつかないのですが、調べればあるわあるわ。
例えば
「懐かしい ・ 癒される ・ 落ち着く ・ 興奮する ・ あこがれる ・ 感心する ・ 尊敬する ・ 高ぶる ・ 満足する ・ ためらう ・ 戸惑う ・ 切ない ・ あきれる ・ 不安になる ・ 心配する ・ 躊躇する ・ あきる ・ はずかしい ・ 落胆する ・ 失望する ・ 後悔する ・ 見下す」
などなど。
似たような表現もありますが、この場面にはこの言葉こそが適当、ということはあるものです。
また、これらの感情を小学校で感覚的につかむのは複雑すぎて無理ですし、使い分けとなると微妙過ぎて大人でもなかなか難しい。
逆に言えば、こうした表現を学ぶだけでも、一つの立派な分野になりえると思います。
補足は以上です。
で、次は、「小説を学ぶとは、気持ちや場面の表現の仕方を勉強すること。小説は、そのための手段、題材にすぎない」を前提に、別の角度からの思いつきを書いてみたいと思います。
<続く>