前回から、そのまま続きです。

 

なぜ歴史の教科書では諸葛孔明よりも晋以後の中国王朝名の方が大事なのか。

子どもらしい不満といえば子どもらしいですが。

根本的な疑問は残ったまま大人になりました。

 

年表にのる出来事は、何かの基準で選んでいるに違いない。

ところが、その基準がなにか、はっきりした形で書いてあるものをみたことがない。

 

「これこれこういう基準で、応仁の乱は重要だと判断しました」ということがない。

角川の「日本の歴史」を読むと、けっこう応仁の乱のページが長いから、

応仁の乱は重要らしいという感覚にはなる。

しかし、それは錯覚を起こしているのであって、応仁の乱にページを割いているからそう思えるに過ぎない。

 

有名な源平合戦、義経の活躍は、さすがに有名だけあるのでけっこうページはある。けど、「満足!」というよりは、少し少な目です。

それよりは、その前後、平家や平清盛がのし上がっていくところや、

頼朝亡き後北条家が台頭してくる過程の方が丁寧に経過を説明してある感じです。

 

つまり、

武蔵坊弁慶よりも頼朝や御成敗式目のほうが価値がある、とする基準を教えてほしい

わけです。

 

そう、価値。

何が歴史的に価値あることか?

 

単純に考えると、価値があること=立派なこと、ということになります。

しかし、歴史では、単純に「立派なこと=価値がある」とは考えないようなのです。

 

頼朝は鎌倉幕府をつくったから偉大だ、立派だ、とは言い切れない。

なぜなら、鎌倉幕府(武家政権)が立派かどうかなどということは言えないからです。

 

言い方をかえれば、

歴史の価値基準は、道徳の価値基準とは違うよう

です。

 

(この辺は、国語との違いが際立っていておもしろいですね。

 前に、国語と道徳がどう違うか、について書きました。

 国語の教材の中身自体は、道徳的な範疇です。

 それとは対照的に、歴史の記載内容自体はある意味道徳的とは限りません。

 ただ、反道徳的ではない。非道徳的といえるでしょう。)

 

どこにも基準が書いてないので、自分なりに考えてみると、

何か社会や人により大きな影響を与えた、あるいは与えたと考えられることを、歴史的に価値あること、としているのか、と単純に考えてみます。

 

なんとなく、いいような気がする。

しかし、本当にそうでしょうか?

「大きな影響を与えた」という、「大きな」を、どうやって測るのか?

一番簡単なのは、人口の比率、人数でしょう。

しかし人数でいえば、武士の人口よりは、農民の人口の方がいつでも多かったはずです。

では、平安時代から鎌倉時代になったことで、農民にどんな影響があったのでしょうか?

というよりも、人数の多い人たちの間にとって影響があることが価値ある、とするなら、平安時代でも鎌倉時代でも、農民の方が貴族や武士より人数が多かったに違いないから、歴史の年表としては、少数派で会った貴族や武士の間で起きた出来事ばかりを取り上げるのは明らかにおかしくなります。

 

 

ここまでは理屈ですが、私が年表説に対して一番すっきりしないものを感じるのは、実は先に書いた道徳的なことなのです。

なぜ歴史の重要度は道徳的な価値基準ではないのでしょう?

 

というか、極端に考えてみた、簡単な例をあげます。

 

私は平凡な一般人ですが、裏をかえせば悪人ではありません。

「偉大な」ことはしてませんが、特に悪いこともしてはいない。

一方、歴史上の極悪人としておそらく異論のないのは、ヒットラーでしょう。

平々凡々で何も偉大なことをしていない私と、ヒットラーを比較してみましょう。

どっちがましな人間かと言われれば、さすがに私はヒットラーより人間的に劣っている気はしない。

みなさんだってそうでしょう?

 

そこらでボランティアの掃除をしている人とヒットラーなら、

明らかに、もう比べようもないくらい、ボランティアの人のほうが、人間的に立派です。比べるのが失礼なくらいです。

 

ところが、一般のボランティアの人が歴史の教科書に載ることはありません。

一方で、ヒットラーとナチスドイツは、必ず世界史に載る。

こう考えると、「おかしくない?」と思うわけです。

 

ボランティアの立派な行為よりも、非人道的極まりないヒットラーの方が、歴史的に「価値がある」ことになっている!

 

そう考えると、今の正邪ごちゃまぜの歴史年表を、素直に認めたくないわけです。

 

確かに、太古の昔から行われてきた道徳的にすばらしいことをいちいち年表にするなど、不可能です。

しかし、もしそういう歴史年表があったら、そのほうが読んでいて気分いいのではないでしょうか。

「ああ、この日に〇〇さんという小学生が、自分の少ない小遣いから思い切って100円を寄付したのか、立派だ!」と。

 

ナチスがどれだけの人の命を奪ったのか、というよりも、小さくても明らかな善行の方が、称えられるべきであり、後世に残すべき、記憶されるべき出来事、にはならないのでしょうか?

 

「それではナチスに命を奪われた人は記憶されなくていいのか」という反論が出そうですが、それならば、ヒットラーの名前を覚えるのではなく、命を奪われた人の名前の方を優先して覚えるべき、ということになります。

 

年表説は、これらの疑問にうまく答えられていないのではないか、と思うわけです。

どうして道徳的には悪いことでも、歴史に残す価値があると判断されるのか?

 

逆に言えば、その判断基準に思いをはせることなく年表を覚えても、

何が大事なのかわからないまま終わってしまうのではないでしょうか。

 

「年表に大事な出来事だとのっているから大事なのだろう」というのは、ちょっと悲しいと思うのです。

 

<続く>