前回は、年表説の疑問について書きました。

今回は、続いて、「歴史とは何か」のよくある説明Bにいきます。

 

B:現代に活かすための教訓としての歴史

「歴史を知ると、過去の失敗や成功から学ぶことができる」というものです。

 

「歴史って勉強して何かいいことあるの?」という中学生~高校生が発しがちな疑問への回答として、この説明が多い気がします。

 

これを、「教訓説」と呼ぶことにします。

 

私自身は実は、まず感覚的には、教訓説よりも、年表説の方が好きです。

というのは、教訓説は、100%、実利的な説の感じがするからです。

 

そういう「役に立つから」というのは、失礼ながら、なんとなく、こじつけっぽい。

どの科目もそうですが、「役に立つから」やるという実用的な側面だけではないという思いがあります。

もちろん、役に立つということは大事だし、歴史の勉強が何かの形で役に立つことがあるのは否定しません。

 

しかし、歴史は役に立つからやるのでしょうか?

それだと、逆に役に立たないことが証明されたら、やらなくていいということにならないでしょうか?

歴史が丸々役に立たないことを証明するのは難しいでしょう。

でも、歴史となんの関係もない仕事に就く人がいることや、

あるいは歴史でも、一部の分野は絶対に役に立たないということは、証明できそうです。

その場合、教訓説の主張は意味がなくなってしまいます。

 

また、歴史って、役に立つ立たないとは関係なく、ただ純粋におもしろいと思うことはないですか?

 

ここまで読んでくださった方は、私が歴史嫌いなんだろうと誤解されていたかもしれません。

実は、私はどちらかというと、世界史が好きです。

現役生の頃は、世界史大好きでした。

確かに諸葛孔明が出てこないのはがっかりしましたが、だからといって歴史嫌いにはならなかった。

その代わり、日本史は何の興味もありませんでしたが

(最近になって、これはこれで面白い、と興味を持てるようになりましたが)。

 

「好きなのならそれでいいじゃないか」と思われるかもしれません。

逆に、だからこそ、教訓説をあまり強調されると、反発したくなるのです。

 

教訓説は裏をかえせば、「歴史は役にたつこと以外になんの魅力もない」と言っていることになりかねないのです。

歴史が好きな者としては、ちょっとそれは違うでしょう、と。

あるアイドルの応援を頼まれたとき、そのアイドルには何の魅力も感じないが、応援に参加すると毎回飯をおごってもらえるから喜んで引き受ける、というのに似ています。そんな理由で応援されても、あまりうれしくないですよね。

 

だいたい、他の教科でこれほど勉強するのに「役に立つから」というのを強調される科目は少ないと思います。

理科や英語は「役に立つかどうか」なんて議論になりません。

役に立つに決まっているから。

(英語については「日本の英語教育はおかしい。高校も含めて6年も勉強して実用的なレベルにいかない」という議論が昔からあります。

しかしこれは教え方の問題であって、英語自体は役に立つに決まっています。)

 

「数学なんてなんの役に立つの?」という質問はあります。

しかし、数学をおもしろい、と思う数学者はいるわけです。

自分には意味がないけど、他の人には意味がある、ということはあるわけです。

自分は苦手だが、数学の存在意義は認める、というわけです。

 

「歴史は役に立つから勉強する意味がある」とわざわざ言うのは、

どこかうさんくささを感じるのです。「本当に役に立つの?」と。

 

これに似たような分野に、以前取り上げた小説(物語文)があります。

これも、小説を勉強する目的に、

「小説を学ぶことで自分では体験できない世界を疑似体験し、人間的な成長をえる」

とか書いてあったりすることがあって、どこかうさんくさい。

このことは以前書いたののくどくどくり返しませんが、

人間的成長ということなら小説でなくて、映画でもなんでもいいわけです。

結果として私は、別の意味を小説学習に見出して「スッキリ」したわけですが。

 

話がそれました。

だから、本来は、本当に役に立つならわざわざ言う必要は少ないか、

あるいは勉強すればおもしろいから役に立つかどうかはどうでもいい、

というのがよいと思うのです。

 

とはいえ、「歴史って面白いだろ?」と言っているだけでは、

「ではどう面白いのか」「そもそも歴史とは何か」ということになります。

また、世界史は好きだが日本史が嫌いだった私が典型的なように、

「自分の好きな歴史」ということになると、勉強する科目としての普遍性がない。

 

算数だと、小数が嫌いでも、それは主観的な感想だということがその人にもわかっている感じがします。

 

歴史だと、「生類憐みの令なんてその時の将軍が勝手にやったことじゃん、つまんない」という場合、それが主観が入っているかどうか、微妙です。

 

現に、歴史って、習う内容が変わっていきます。

 

鎌倉幕府の成立年が1192年じゃなくなったというのは有名です。

少なくとも、1192年という年号を覚える重要性は昔より低くなりました。

 

もっと激しいのは、江戸時代の外国との交易の説明です。

アイヌとの「シャクシャインの戦い」なんていうのは、私の頃は、絶対に習いませんでした。

歴史というのは新たな事実が発見される、ということもあるでしょうが、

私の現役のころでも、おそらくシャクシャインの戦いは専門家の間では史実として知られていたはずです。

なのに当時は教えず、今は教える。

これは、どうしてなのか、ということになる。

 

・・・ここまで考えると、「なにを大事と考え年表にいれるか」という年表説の問題になっていきますね。

 

そこで教訓説に戻るならば、

教訓説とは、年表説において書いた、「何が大事なことか」という基準を、

「その歴史的エピソードからなんらかの教訓を得る(過去の失敗や成功から学ぶ)ことができるかどうか」

に設定した、ということができそうです。

 

なるほど、これなら、とある程度は思います。

私の好みが教訓説より年表説とかいうこととは関係なく、歴史の説明として論理的な根拠があるような気がします。

 

しかし、ここまでは私の自分の好みの面から、いわば感覚的に教訓説についての疑問を書きました。

 

実はそういう個人的な理由をのけても、いや、それ以上に、理屈の面からして、教訓説には疑問があるのです。

 

つまり、「歴史とはなにか」という説明として教訓説は「スッキリ」しないように思えるのです。

教訓説は歴史の説明としては穴がある。

 

まず第一に、教訓説は「教訓」を第一に置いていますね。

 

教訓を得ることのできるエピソードを年代順に記載し、それを歴史と呼ぶ・・・

 

なるほど、これなら、年表説の時に例に出したナチスのことも、

「こんな間違いは二度と起こしてはならない」という大きな教訓、という意味で、

学ぶ意味がある、ということになります。

 

過去の歴史から学ぶ、そういうことは確かにあります。

というか、そういうことは多い。

過去から学ばないのなら、人類の歴史はどうなっていたかわからない。

否定しません。

 

( この頃よく思うのですが、

人類の歴史は、二足歩行が始まったところから数え始めても200万年だそうです。文明レベルならたかだか1万年。

一方恐竜は2億5000万年前くらいから始まり、6600万年前に絶滅するまで、つまり2億年近くも繁栄していました。

人類より繁栄した時期が2~4桁違う。それなのに、文明を残さなかった。

 

恐竜達よ、2億年も時間があったのに

道具とか農耕とか文字とかいった文明らしきものを

何一つ残せなかったとは、

いったい君たちは何をやっていたのだ?

 

と言いたいこの頃です。

 

歴史(過去)から学ばなかったら、人類も恐竜と同じことになっていたのかもしれません。

 

しかし、ここで第一に、そして根本的に教訓説がおかしいなと思うのは、

なんで年代順に学ばないといけないの?

ということです。

 

<長くなったので一区切り。次に続きます>