続きです。
教科書程度の日本史を知らないと、本当に今の日本のことがわからないのか?
確かに日本に興味をもった外国の方からみれば、日本史をろくに知らない日本人など
「ほんとに日本人?」
ということになるかもしれません。
また、「国際人」の意味が、「(どこかで)日本を代表する存在」ということなら、日本史を知っていないとまずいと思います。
各国の代表が一人ずつ集まって何か情報交換する場合は、日本人としてはどうか、という立場で意見を言うことになります。
しかし一方で、たとえばアメリカのロックバンドが大ファンで、その追っかけをしている日本人が日本のことを知らなかったらいけないでしょうか。
そのバンドのファン同士でアメリカ人とそのバンドの話で盛り上がれるはずです。
また、クラシック音楽の世界で世界的な賞をとる日本人の方もいます。
ピアノコンクールで優勝とかする日本人に、世界が日本史の知識を求めるでしょうか。
あるいは、和学の歴史や和楽器の演奏技術を求めるでしょうか。
そんなことはないはずです
(公平にいえば、日本のピアノ教育とか、日本におけるクラシック音楽の課題、どうしてそういう課題が生じているのか、ということについて聞かれることはあるかもしれません。そういう範囲で歴史を勉強することはあるかもしれません)。
歴史上受け継がれてきた知恵やルールという問題も考えてみましょう。
日常生活上、確かに伝統的に守らなければならないことがあるのも事実です。
しかし、神社のお参りの作法として、二拝二拍手一拝には歴史があるのでしょうが、歴史を知らないといけない、ということではない。
ルーツを大事にする人がいることも事実です。
身近なら家訓からはじまって、その地域ごとの決まりがあったりもする。
しかし、おそらく、日本に限らず世界的に見ても、
歴史をどこまで大事にするかは人それぞれ
で、私のように、あまり関心が薄い人間もいる。
また、「上」で例に挙げた台湾のことでもそうですが、
「歴史的に見て台湾は中国の一部である」というのは歴史を大事にするからそういうことになってしまうのです。
現状としては、(少なくとも日本に住んでいると)台湾と中国はまったく違う国になってしまっているように見えますから、
「台湾と中国はとりあえずこのままで何か問題ある?」「誰が困っているの?」
という意見にも妥当性があるに見えます。
歴史認識が薄い方が、そういうふうに、シンプル、あるいは現実的に考えられることも多いように思います(中国の方から見れば暴論になるのかもしれませんが)。
もう少し検証してみます。
池上さんと佐藤さんは
「人生に必要な教養は中学校教科書ですべて身につく 12社54冊 読み比べ」(中央公論社)
という本の中で、「世界史を知っていても自国の日本史をろくに知らない日本人は、海外へ行ったときに国際人として通用しない」といった点で意見一致しておられます。
感覚的にはわからなくもないが、では逆に、
三国志を知らない中国人は中国人として失格なのか?
かならずしもそうは言えないと思います。
少し違うかもしれませんが、オーサ・イェークストロムというスウェーデン人の漫画家さんが、
「日本人は自分の国を外国人にどう見られているか興味がある(いい意味で)。スウェーデンではそういうことは全くない」
と描いてみえます(「北欧女子オーサが見つけた日本の不思議②」144ページ 株式会社KADOKAWA)。
ご自身、自国の文化にまったく興味がないとのこと。
ここまで書いてきて気づくのは、
歴史(過去)への関心の持ち方は人によってバラバラである
ということです。
その関心の持ち方のバラバラ度合いを、
「一応この辺まで平均的におさえておこうよ」というのが歴史教科書ということになります。
そこでまた議論がもどるのですが、
では例えば、私が日本史の教科書を作っていいとします。
そしたら、だいたい織田信長以前はバッサリです。
「縄文時代=狩猟生活」「弥生時代=稲作始まる」、
「奈良時代=仏教始まる」「平安時代=貴族文化」、
「鎌倉時代=武士の政治始まる」「室町時代=なんかごちゃごちゃ」
以上、1ページにまとめます。
まあ、もう少し、東大寺とか源氏物語とか空海とか入れるかもしれませんが。
100円ショップで売られている歴史人物カルタレベルでおしまいにします。
だって、その程度の知識しか残ってないし。
もちろん、それ以上の詳しいことを知るのを禁じる、ということではない。
でも、それは好きな人が趣味の範囲でやればいいことです。
戦国時代以降も、もっと簡単にしていい。
ただ、明治維新以降だと、どこまで現代につながっているのかよくわからないから今の教科書のままにしておく。
それで、日本人の歴史への平均的な関心の持ち方を統一したとする。
江戸末期以降はよくわかっているが、江戸以前はよくわからん、という形に。
さて、そうしたら、何か社会的に問題が起こるのか、ということです。
あまり起こらないような気がします。
そのくらい、
現代と江戸時代以前とは現実的な関連がうすい
ような気がします。
戦争や領土問題は非常に歴史的に尾を引きやすい。
だから、現代との関連が薄いかどうかは慎重に判断する必要があります。
例えば、今でも会津の方は鹿児島・山口の方を嫌っていると聞きます。
それはどうしてかといえば、戊辰戦争の経緯から生まれたことです。
だから、戊辰戦争は、大事です。それが今の人に影響を残しているからです。
しかし一方で、岩手の人が神奈川県民を嫌っているという話は聞いたことがありません。
つまり、鎌倉幕府によって奥州藤原氏が滅ぼされたことをいっているのですが。
「あれがなければ岩手は栄え続けていたのに」
という話は聞きません。
今の社会の何か問題や課題があるとして、それをどうさかのぼっても奥州藤原氏のことが起源である、というテーマが見つからないような気がします。
少なくとも大きなテーマは。
「平泉が重要ではない」といいたいのではありません。
あくまで、ルーツ説によると、平泉が重要であるという根拠が見当たらないのではないか、ということです。
しかし、感覚的には、平泉は知っておきたいことです。
その感覚的な理由が、ルーツ説からは引き出すことができません。
先に書いたことと矛盾するようですが、織田信長以前の記載が1ページでいいのか。
貴族政治とか武家政治がどんなものだったのかとか、
荘園とか御成敗式目といった単語だとか。
そういうことを、もう少し詳しくかじっておいた方が、いいのではないか。
その理由を、ルーツ説だとはっきりと説明しきれない気がします。
ルーツ説だと、「現代と直接つながりのないものは、ばしばし切ってよし」ということになってしまう
ような気がします。あるいはそれが正しいのかもしれませんが・・・・・
こう考えてみると、ルーツ説は、教訓説以上に実利的、といえます。
あるいは現実的というべきか。歴史を学ぶ必要性については説得力がありますが、必要な理由が「現代社会を知るため」とシンプルなために、そこから外れるものがあったら、「学ぶ必要なし」となりやすい気がします。
また、これは恐ろしいことなのですが、下手をすると意図的に社会を操作することにもつながりかねません。
会津の方には暴論になってしまうのでしょうが、たとえば先の例でいえば、今後100年間、戊辰戦争については「必要なし」と学校で教えないとしましょう(現実的にはあり得ないですが。というより、会津の方は今の教え方でも、福島以外での戊辰戦争の取り上げ方が少ない、と感じておられるのではないでしょうか)。
そうすると、会津の若い人たちの中ですら、鹿児島・山口を嫌う風潮が少なくなってしまう。それはあり得ることです。
「いいじゃないの、憎しみは消した方が」というのは、被害にあってない人の理屈であって、そういうものではない。
私たち日本人全体からすれば、やはりアメリカの教科書にも原爆のことは詳しく記載してほしい、と思います。
それは、日本が被害にあったからというよりは、原爆の悲惨さは人類の共有財産として記憶にとどめておくべきだからです。
ちょっと話がそれましたね。
ルーツ説への疑問は年表説や教訓説ほど「ここがおかしくないか」というものではありませんでした。
ただルーツ説だと、上手く言えませんが、結果としてちょっと「今の社会にとっての関心事」という視点が強調されすぎてしまう気がします。
「今の社会にとって」だから、時代が変われば中身が容易に変わってしまう(時代を超えて普遍性をもつはずの科学性のうすさ)、という意味と、
「関心事」だから、一見関心(重要性)がないということについては漏れやすい(何に関心があるかは主観的な部分が大きいので、客観的という点で普遍性をもつはずの科学性のうすさ)、という意味です。
<続く>