句会でよく感じるのは、読む側の人間の感性についてです。

読む側の人の感性に左右されることが多いなあと言う意味です。

極端なことを言うと、私は下半身モノとか乳房とか言われると、それだけで拒否反応を起こしてしまい、選ぶことができません。

 

先日、ここに書き記したのは目玉焼きの外側の事。

ちょっと焼き過ぎ気味になると、チリチリ立ち上がって来ます。

それを「フリル」と表現してあった句に、男性陣は「フリルは服のことだから目玉焼きにこの言葉を当ててもピンとこない」と批判的。一方で女性たちは「これわかる〜」と。

日頃キッチンに立っているかどうかでこんなにも違います。

 

最近思ったのは俳句を「理屈っぽく感じる」という批判があるときのことです。

もちろん、理屈っっぽい俳句もあって、それは稔典さんもすぐに突っ込んできます。

基本的に、選ばれにくい。

けれど、時々こんなことも起こります。

私にとって「これは頭で考えた句」つまり理屈っぽく思える句が「面白い」とたくさんの人が選ぶことがあると言うことです。

 

例えば稔典さんがご自身でお気に入りの俳句

「びわ食べて君とつるりんしたいなあ」

 

 
この句は色々な人に人気の様ですけれど、私はピンとこないのです。
稔典さんの「たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ」とか「三月の甘納豆のうふふふふ」は大好きです。
でも、このつるりんはピンとこない。
だから、いろいろ考えて鑑賞してしまいます。
 
すると、私にとってこの句は「理屈っぽい句」であるかの様になってしまうのです。
つまり、私の感性がこの句を理解できないため、理屈で理解しようとし、そのためにこの句を「理屈っぽい句」と認識してしまうのです。みんなの感性には響いている様なのにね。
 
つまり、「観念的」とか「理屈っぽい」と思うこと自体もまた、実は揺らいでいることなのだと言うことです。
同じものを感性で捉えることができる人たちがいるのにね。
もちろん逆も多々起こります。
私がとっても面白く感じたものを、稔典さんが理屈っぽいと言う判断をすることという意味です。
ここに稔典さんしか出てこないのは、みんな、ちょっと遠慮しているのか、あまり「この句は理屈っぽい」と言う言い方をしないからです。
 
かくして、私は「理屈っぽい俳句」と感じた時には、自分の感性に響かないだけだと思うことにしようと思っています。
その様に柔軟に考える時、私の感性は「意固地」じゃなくなるんじゃないかしらと思うのです。
うまくいけば、感性が広がる。それは素敵なことでしょう?
ま、みんながそうしてくれるかどうかはわかりませんけれどね。
そうなったらもっと句会は生き生き面白くなりそうですけれどね。
 
そうそうそういえばね、先日の句会。
コロッケをかじる音と遠雷を俳句にした人がいました。
それを選んだのは 稔典さんと奥様だけ。
それはね、近所に美味しいコロッケ屋さんがあって、チョコチョコ食べるらしく、コロッケをかじる音がとてもリアルなのでしょうね。
だから、肉体的にピンとくるのだと思います。
口と耳に響く音。
けれど、私たちはそんなにしょっっちゅうコロッケを食べないし、出来立てじゃないこともある。
このことを考えると、同じ人でも時期によってピンと来たりこなかったりもしますよね。
体験したばかりだと、ピンときやすいし、昔のことだと忘れているし。
 
選ばれるかどうかもまた揺れています。
だから、選ばれなくても腐らずに、コツコツ作って行かなくちゃね。
 
そうそう。
私たちの会社のビジネスコーチ。
こう言う話をとても面白そうに聴いてくれるのですよ。