3-5 大和・下鶴間‐3 ~座間に矢倉沢、江戸の町火消しまで?まんじゅう屋跡と古い道標~ | 徒然風

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ブエナス・タルデスゥぴゅうです
ちょっとばかしメジャーなスペイン語で始まりましたね。

苦手な顔文字…というか、顔文字は場所をわきまえてほしいと思います。
町とか歩いていると、時々こんな選挙公報看板を見るんですよね、
「○○、ただ今邁進中!なう(^-^)/」みたいな。
何なんだかw
序に、こっちの方がむかつきましたね、
電車に乗ってて、広告を見ると、
「○○線沿線学校マップ \(^o^)/」ってのがあったわけですね。
オワタwオワタwどうなってんだこりゃ、ってなりましたよ(笑)
後単純に顔文字が妙にたくさんあるメールとかは好きじゃないですね、デコメならまだしも。

ではでは、街道の方に入っていくとしましょうか。
下鶴間ふるさと館の中からですね。

説明番がずらずらとあるところから左に行くと靴を脱いで「みせ」という部屋に上がることになります。
そこにあったのが


昔懐かし薬の数々。
見たことも聞いたこともないようなものもあれば、名前だけ現在に残っているようなものもあります。

「納戸」を過ぎて更に進むと


こんな部屋に。「奥座敷」です。
ここには感想などを書くノートがあって、書いてきましたφ(.. )

更に先に進むと「座敷」に出て、再び資料群に。


まずは床板について。
母屋の床にはたくさんの絵や文字がかかれていました。
伊豆出身の石田利三良がかいたといわれていて、黒船が描かれていて、安政三年頃のものだと考えられています。


小倉家住宅の母屋について。
入母屋造りで、いくつかの部屋がありました。
前述のことから安政三年頃に作られたといわれています。


小倉家の歴史について。
1650年頃から1813年、一度途絶えて1853年から現在へと続く家系だそうです。
近くにある長谷川家が関係しています。

この近くには胞衣皿(赤子を一度入れ、そのあとに皿だけを地下に埋め、赤子の健康を願ったもの)もありました。

こんなところで資料館は終わりですかね。

最後に資料館の開館等。
休館日は月曜日、火曜日、祝日の翌日、年末年始。
開館時間は10時~16時です。
詳しくは大和市のホームページへ。

街道に戻り、久々に歩みを進めていきましょう。

60mほど進んだ右手の家は「長谷川彦八家」で、前述の小倉家の再興に関係しています。
また、伊能忠敬測量隊もここに泊まり、渡辺崋山もここに訪れ游相日記に「長谷川彦八といふ豪農の家に行 門塀巨大」と記しています。

35m進むと右側に

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下鶴間不動尊の入口があります。

ほんの少し先には

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下鶴間宿の案内板があります。
拡大できますが中途半端で見にくいので文面にします。
「この東西に走る道路は矢倉沢往還と呼ばれた古道であり、江戸時代には東海道の脇往還として重要な交通路となっていました。
東京都港区青山を発し、神奈川県を西南方向に突っ切り、南足柄市関本、矢倉沢、足柄峠へと至る街道です。
また、大山街道とも呼ばれるように江戸時代中期以降は大山信仰や富士信仰の行者が利用する道としても栄えました。

鶴間宿には紺屋・げんこく屋・かたい屋・そば屋・馬喰等の屋号を持った染め物屋・居酒屋・餅屋・質屋といった商家や山本屋・松屋・三津屋・松葉屋・角屋・ちとせ屋の旅籠があった。
矢倉沢往還は宿場の中で瀬谷と町田を結ぶ通りと交差していたが、その辻には高札場がありました。
また、天保2年に渡辺崋山が綾瀬市に行く途中で、この坂の上にあった宿屋を兼ねていたまんじゅう屋で一泊しており、その時のことを「遊相日記」に記していますが、当時はまだにぎやかではなく、宿場がにぎわいをみせるのは幕末頃であったようです。」

瀬谷と町田を結ぶ通り…八王子通りでしょうか?

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その少しさき(不動尊から27m)、浄土宗宝亀山寿翁院鶴林寺があります。
近いのもそのはず、不動尊とは隣り合っています(境内と紹介しているところも)。
石段がきついので登りませんでしたが…。
1569年以前の創建で、鶴鳴学舎があったことで有名です。
明治6年に作られた公立小学校で、この鶴林寺には明治15年に建てられたそうです。

100m進むと二股になって、その右手前に

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厄除地蔵があります。
明和元年(1764年)の銘があり、「右 大山道」「左 ざまみち」等と刻まれています。
座間道とは、二股で右に行く道ですね。

更にここには

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まんじゅう屋と古い道標がありました。
まんじゅう屋の案内板も拡大できますが解読困難なので文面に。
「江戸時代後期の洋学者で、画家として知られる渡辺崋山は、第十代田原藩主三宅康明の弟友信の命により、高座郡早川村(綾瀬市)に住む友信生母お銀の消息を尋ねるため、天保2年(1831)九月二十日、弟子の高木梧庵といっしょに江戸の青山を立ちました。その日は都筑郡荏田村(横浜市緑区)に泊まりましたが、翌二十一日には矢倉沢往還下鶴間宿に着き、俗に“まんじゅうや”(土屋家)といわれる旅籠屋に一泊しました。(以下略)」
角屋という屋号があり、更にこの土屋家には「大山く組」と書かれた江戸の町火消しの看板が残っています。
この「まんじゅう屋」という俗称は店先でまんじゅうを売っていたことに由来するとか。

この道標はかなり古く、風化していて、更に根元は地中に埋まっています。
「左 失倉(澤)…」と記されていて、大山道標が多い中で矢倉沢道標です。
「失」になっているのはよくあることだそうで。
しかし…古くは矢倉沢往還とは言われていなかったんですよね?(前回参照)
なのに矢倉沢が記してある…?あ、そうか、関所がおかれていたからまああり得るか。
また、座間の星谷寺への道標ともなっているようです。
前の地蔵もそうですよね、「ざまみち」だから。
古代東海道を歩くときに星谷寺は出てきますので

少し逸話を。
母親は伊勢原に住んでたことがありまして、「ざまぁみろ!」といわれると小田急線の町田方面の「座間」をみて「ほら、座間見てるよ」って言ったそうですw
どうでもいい話ですねw

では、まさかのどーでもいい話で終わりにしようと思います。


お先にアランドロン。

こりこりももも。

地図…ルートラボへ(^o^)/