【報告】10年1・17三里塚旗開き①
【報告】
10年1・17三里塚旗開き①
三里塚・横堀で2010年反対同盟旗開き
1月17日、2010年反対同盟旗開きが横堀農業研修センターで開かれた。主催は三里塚芝山連合空港反対同盟。
横堀の山崎さんが「森中小三郎・成田空港会社社長は1月4日の年頭記者会見で、『B滑走路は再延伸と用地問題の年内解決』と発言した。東峰部落追い出しを許さない今年の闘いへ」と発言。山崎さんの音頭で乾杯。三里塚で取れた野菜を食べながら豚汁などを食べながら旗開きは進められた。東峰の石井紀子さんからは漬物と大根と蒟蒻の煮物の差し入れ。
乾杯に続いて柳川秀夫さん(反対同盟代表世話人)、加瀬勉さん(大地共有委員会Ⅱ代表)があいさつ。
柳川秀夫さん(反対同盟代表世話人)
「成田空港会社は依然として空港を造るということで、強硬な姿勢が見えるようになってきた。91年からの話し合いで、空港建設ではいかなる強制的な手段をとらないということが約束。こちらは約束を守ってきた。
しかし、向こうは強硬な態度をとってきて約束は反故にされつつある。これは国の約束であり、約束がどうなるのか真意をただしたい。民主党政権になって小沢ルールができ、国交大臣に直接にものを言えなくなっているが、国の真意をただしていきたい。
反対同盟も人数は少なくなったが、世の中これではいけないということで空港反対もあり、孤独な反対運動ではない。世の中の大きな役割を担っているということで、一層がんばっていきたい。
一坪共有地の始まりは、強権での空港建設に反対するために土地を提供してくれた農家があって始まった。そして、問題が解決したら、地主に返すというのが反対同盟の一坪に関する姿勢で、今も変わっていない。今、反対同盟や全国の人々の持分になっているのは、あくまでも仮のもの、たたかいのためのもの。所有権=利益につながるものではない。最終的には元の地主にちゃんと返すというのが反対同盟の姿勢だ。
空港会社は今の名義人にいくらで売ってくれと言ってきて、最後には売らないから裁判で取るしかないと提訴した。先日も岩山記念館の土地を空港会社が取得した。伝聞だと2500万円で買収したそうだが、名義人は仮の所有者。空港会社ははき違いをしている。
一坪共有は大きな問題があるからやっているのであって、今の所有者に買収を突きつけて解決する問題ではない。空港会社は間違っているので、裁判で明らかにしていく。今年もがんばっていきましょう。」
【報告】10年1・17三里塚旗開き②
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10年1・17三里塚旗開き②
加瀬勉さん(大地共有委員会Ⅱ代表)
「闘いは40年続いている。私自身は浦安、木更津、霞ヶ浦、八街、富里、三里塚と40数年闘いが続けてきた。なぜ40年間の闘いができたか。それは我々に大義・道理があったからだ。だから、困難でも闘いを継続し前進していきたい。
いま反対同盟と千人の共有者が滑走路3500メートル化を阻止して闘っている。私たちは自信を持っていい。
成田、羽田、中部、関空と、日本の空港政策はハブ空港をつくろうとしてつくれていない。政策は破産している。彼らの野望を粉砕している。地方空港もほとんどが破綻している。日航も破綻し1万5千人が首を切られる。連帯が重要だ。
『コンクリートから人へ』、地球温暖化防止というのなら、三里塚の環境破壊をやめ、飛行機を飛ばすのを中止せよと主張する。
1966年7月4日に三里塚への空港建設を閣議決定した佐藤栄作が、日本への核持ち込みの密約を結んでいた。佐藤の政策を断固として許さない。米軍基地撤去、民間空港を軍事に使わせないというのが、私たちの原則だ。
大木よねさんに代執行をかけた川上県知事も、今の鳩山、小沢も金まみれ。彼らは金で権力の座を買って私物化している。われわれ自身の政治勢力をつくっていく以外に前途はない。
三里塚も苦しい時代を経て、私たちの反転攻勢の時代が来た。がんばりましょう」
「話を聞いていて、昔がフラッシュバックした。1967年10月、三派全学連の三里塚登場以来、三里塚との関わりを持っている。20歳くらいだったあの頃より、お互いに40数歳年を取って、生まれてなかった人もいる。初心に帰って、空港公団・NAAの思い通りにさせないというめでたいこの一年にしたい。
共有地で名義は移っている分もあるが、名義だけを取得しても実態を取得したことにはならないのは空港会社もわかっている。そこが裁判の原点。その点では登記簿に名前が載っている人も自分のものではない。自分のものでないものを勝手に処分することはできない。だから、売ることはできない。空港会社は所有者でない人から名義だけ買った。登記は形式。形式が実態を上回ることはない。共有者はたたかいのために名を貸しているだけから。これが裁判の第一の点。
そして、平和的にやるという約束を政府も当時の空港公団もした。勝手に反故にするのは何事かというのが、裁判の第二の柱になる。
好き勝手にスケジュールどおりはさせないという底力を40年前の初心に戻って示すのが、裁判闘争であり、現地での活動、対政府交渉の基本的方針。こちらのヘゲモニーで相手側を振り回す楽しい一年にしよう。体は若返らないが、頭はだいぶ若返った」
平野靖識さん(らっきょう工場)は「05年に当時の黒野社長は一方的な暫定滑走路供用による人権侵害について東峰区に文書に謝罪し、今後繰り返さないと約束した。ところが、その後、滑走路延伸を決め、昨年10月22日からこの時よりひどい状況になっている。大義はわれわれのほうにあるという確信をしっかり持っていく。
新政権になったから変わるというものではないが、地方空港問題が示すように空港政策の見直しは必要。言葉の武器として、当時の黒野社長が謝罪して判子を付いたことを検証する必要がある」
発言する平野さん
続いて、関西の渡辺充春さん、高見圭司さん、横堀団結小屋維持会、東水労青年女性部などが発言。
高見さんは、八ツ場ダム反対は三里塚反対同盟が初めて参加した外部の闘争だったことを紹介。
加瀬さんは当時の八ツ場ダム反対運動との交流にふれ、「人民の闘争は消えたように見えても消えてない。歴史を前に進めていることに確信を持とう」と発言。