こんにちは。山元です。
すっかりご無沙汰しておりますが、皆さんいかがお過ごしですか?

アフガニスタンの現地の様子の話は、駐在中の児島にすっかり任せてしまって
いますが、今日は東京から、アフガニスタンの話題を…。


去る6月16日(火)、17日(水)に、全労災ホール「スペース・ゼロ」(東京都渋谷区)で
アフガニスタンの歴史を描く英語劇 『クロスロード・カントリー』 が上演されたので、
観に行ってきました。
(どなたかご覧になった方はいらっしゃいますか??)

内容は、1970年代から2002年に至るまでのアフガニスタンの歴史が、実際の出来事
や歴史的人物を絡めながら綴られていくというものでした。
とても派手~な舞台装置という感じではなかったのですが、時として幻想的であり、
時としてごく日常的な様子を感じさせたり、と、興味深い演出で、アフガニスタンを
取り巻く大国や周辺国の利害関係、それらに翻弄されたアフガニスタンの姿などが
とてもうまく表現されていました。

アメリカや旧ソ連の政府関係者がそれぞれの執務室で話す場面では登場人物が
スーツを着ていて、一方、アフガニスタン国内の場面では、登場人物はアフガン服に
身を包んでいる…、そんな姿がとても対照的で、同じ「時間」を過ごしていても、
それぞれの思いを持ち、それぞれの場所で、それぞれの時間が流れていることを感じ、
一つの舞台の上でも、世界の大きなつながりを感じました。
(アフガニスタンの人が一切スーツを着ない、という意味ではないですよ!)
そして、時として、役者が観客席に向かって直接問いかけてくる演出に、この舞台が、
単なる歴史物語という現実と切り離された「時間・空間」ではなく、今の私たちにも
つながっている話なんだということも実感させられました。

また、銃声の効果音とともにカラシニコフを発砲する軍人役の姿を見て、アフガンに
駐在していた時の様子や、茶色い砂塵が舞っている、あの乾燥した空気の感覚が
ありありと身体によみがえってきました。


この舞台は、特定の人物や国家が悪いのだと糾弾するのではなく、これまでの歴史
を振り返り、これまでの過去を知った上で、アフガニスタンが立ち直るために、今後、
今の私たちに何ができるか考えるきっかけを与えたい、というのが上演の狙いだそう
です。

残念ながら、アフガンの治安は落ち着いているとは言いがたい状況ですが、現地の
人びとの多くはただ、穏やかに暮らしたいと願っています。
アフガニスタンの人びとは、見知らぬ客人ですら穏やかな笑顔でもてなしてもくれる、
温かく、気品高い人びとです。
アフガニスタンはもともと農業の盛んな、歴史も伝統もある、とても美しい国です。
いつの日か、そんなすばらしい国へとアフガニスタンが立ち直り、皆が観光地として
自由に訪れることのできるぐらい、安定した場所になればいいなと思っています。



…ところで、東京からのお知らせとして、もう一つ。ぶーぶーぶーぶーぶーぶー
ピースウィンズ・ジャパンは、6月1日より、携帯サイトを開設しました!
携帯サイトだと、簡単な情報しか読めないものもありますが、この度開設したサイト
では、パソコン用のホームページに掲載しているほとんどの記事を見ることのできる
なかなか優れモノキラキラなサイトです。得意げ

この「アフガニスタン便り」も携帯からご覧いただくことができますが、ぜひぜひ、
ピースウィンズのホームページのサイトも携帯からのぞいてみてくださいね~携帯
詳しくは以下をご覧ください!

PWJ携帯サイトを開設しました (パソコンPC用ページ)
PWJ携帯サイトを開設しました (携帯携帯用ページ)

携帯ピースウィンズ・ジャパン携帯サイト

ちなみに、ピースウィンズのホームページの「現地活動ルポ」のところで、私も時々
記事を書いたりしています。ふと思い出したら(?)、こちらもご覧くださいまし~音譜

こんにちは、児島です。  



明日6月16日から17日にかけて、ブリュッセルにて、

史上初の、EUとパキスタンの間でのサミットが行われる。


めまぐるしく変化している南アジア、中央アジア、西アジアの情勢であるが、

”イラク・イラン・アフガニスタン・パキスタン”

という横一列に並んだ国々が連動して色々な事象の震源地になっている。

これらの国の中で、特に慌しく見えるのは、

パキスタンである。

この国は、昨年後半からの動きで、

あれよあれよという間に、テロ問題の中心国のひとつになってしまった。


***


さて、上記のEU諸国とパキスタンのサミットは、

巷間ではあまり話題にならなさそうであるし、

このサミットが、

当面のパキスタン・アフガニスタンの問題について、

どれくらい影響力のある決定がなされるのか分からないが、

アフガニスタンに勤務する私の、このサミットに対する関心事は、

将来(どれくらい先かわからないが)の治安の正常化にどの程度の効果があるのか、ということだ。


一方、パキスタンの経済的な側面をみれば、

周知のとおり、今回の世界同時不況のパキスタンへの影響は甚大である。

だから、パキスタンの経済面からの関心は、

如何に西欧諸国から支援を取り続ける事ができるかにある。

さらには、できれば、Euroとの自由貿易協定を結びたいとも考えている。


4月に東京で行われたドナー会議の段階で、

すでに米国は、関係国ドナーからパキスタンへの50億ドルの支援を取り付けている。

ドナーはすでに、150億ドルを、現行および中期の開発支援のために援助をしていて、

また、EUは、年間7000万ドルがカウンターテロリズムに対する支援としてすでに拠出を決定しているらしい。

そして、今回のサミット開催を前に

アメリカの調整により、

EU諸国からも、パキスタンの復興・開発に支援のために、

向う2年間資金供給に同意することになるようだ。

どれくらいの金額の支援になるのであろうか。


これだけの資金が流れ込むとなると、

当然ながら、

パキスタンは、欧米から、勢いを増しているタリバンへの効果的な対策を、引き換え条件にされている。

経済復興は避けられない命題であるから、

今後のタリバン対策は、欧米の肝いり度合いがさらに増すことになるかもしれない。

それ以上に、目下の切実な問題として、

パキスタン国内では、戦闘を避けるため、

たった2,3週間の間に、240万人もの国内避難民が発生している。

15年前のルワンダでの難民発生以来の規模である。国際社会はこれに十分こたえられていない。

JWブッシュ大統領時代、

アーミテージが、ムシャラフ前大統領を

「アメリカに協力しなければ、石器時代にもどすぞ」と恫喝した、という真偽定かならぬニュースを思い出す。


とにかく、欧米諸国は、

アフガニスタンとパキスタンに根を張っているタリバンとアルカイダについて、

かなり、あわてている。


***

現在、

御存知のとおり、

パキスタンの山岳地帯、アフガニスタンの山岳地帯が、

タリバンとアルカイダの本拠地になっていて、

パキスタン軍との攻防が繰り返されており、

タリバンとアルカイダに関わる事態が混沌とし始めている。


いろいろ報道されているとおり、

日々、交戦や自爆テロ、ISAFコンボイの襲撃などのニュースが報道されている。

例えば、ISAFや米軍がタリバンやアルカイダを標的に爆撃した際、

民間人の犠牲者がでることが、ISAF・米軍への大きな批判になりうるため、

もし、爆撃での民間人の犠牲者が少ない場合は、

タリバン・アルカイダ自らが、”民間人犠牲者をわざわざ増やす”という作戦をとっている、という話もある。

パキスタン国内でもタリバンに対する反感が芽生えていることも報道され始めている。

貧しい一般住民を高賃金で買収して、テロをさせている、という報道はもう何年も前からある。

どの報道がどれだけ正しいか分からないが、

タリバン側の戦法が、無慈悲さを肥大させながら、システマティックになりはじめている感じがする。


***


私が、2003年に赴任してからしばらくは、

北部で事実上権力を持っていた軍閥関係者の悪行を聞く事があまりに多く、

また、当時は、武装解除も行われていなかったので軍閥同士も頻繁に争っていた。

軍閥同士の対立で戦車が出動したこともたびたびであった。

非常に不謹慎な話かもしれないが、

そんな中、現地住民から、タリバン政権時代の治安のよさなどの話を聞くにつけ、

「タリバン政権のほうがよかったのではないか」

と、私は個人的に思っていた。



  アフガニスタン便り-ジュンベシ兵士
写真:2003年当時、サリプルでの支援活動中によく見た、ジュンベシ(ドスタム将軍の率いる軍閥)の兵士。この写真は、サリプル東部で、敵対する、ジャミアットという軍閥と戦闘が勃発し、その応援に向かう途中の兵隊が偶然PWJ車両の前を走っていたところを撮影したもの。左奥の兵士は、背中にPRGのテキ弾をたくさん背負っているのが分かる。


女性を拘束する慣習や残忍な処刑の習慣などがあるから、

あまりタリバンの肩を持つと支援団体としての信条のバランスを欠いてしまうが、

タリバン政権時代でも、人道援助はタリバンによって認められていて、

国際機関やNGOは許可をとれば活動が出来ていたし、

なんにしても、治安が良かったことは、アフガニスタン人、だれもが懐かしむところだ。

それに加え、以前のタリバンは、自爆テロはしなかった。

2003年に、2001年以降初めての自爆テロが(バスを狙ったもの)、カブールで発生したが、

”この事件は絶対、外国人過激派が行ったはずだ、なぜならアフガニスタン人は自爆テロなどしない”

と、パシュトゥーン人のスタッフが主張していた。


こんな、私の個人的なタリバン観を引き合いに出さなくても、

アフガニスタン復興当時、

”新しい政権には、タリバン勢力からも主要なポストを与えるべきだ”

という意見が多くあった。

それは結局実現しなかったが、

今となっては、

事態を今ほど悪化させないための一つの方法だったのか、とも思われる。

ただ、状況はそれほど単純だったわけではなく、

当時、アフガニスタンから駆逐されたタリバンをアフガニスタンの政権に戻す、ということには、

パキスタン政府が潜在的に持っている、

アフガニスタン政府に影響力を持ち続けたい、という意志が背景に含まれるため、

それを無条件に受け入れることもまた難しかったわけである。


***


ともあれ、アフガニスタンからタリバンが去ったことで、

アフガニスタン復興に関係していた国際社会は、すこしタリバンに対して油断していた。

私自身、2003年から2005年までは、実際に北部アフガニスタンにいても、

特に北部における治安の焦眉火急の問題は、

小競り合いを繰り返してた、

戦国時代の田舎武将のような中小コマンダーたちだ、と思っていた。

アメリカ軍の主導で「不朽の自由作戦」を展開していたり、

ISAFが南部東部で軍事勢力と衝突していることについて、

その善悪は別として、

それらの軍事行動が、”残党狩り”のようなものだというイメージを持っていたと記憶してる。


しかし、2005年後半頃から、

事態は、そのイメージとは全く異なっている事が徐々に分かり始めたのである。

私が抱いていたようなイメージは、今となっては間違いであったことが明白であり、

タリバン退却の実体は、

パキスタンやアフガニスタン国境に逃れ、徐々に体制を立て直していたというわけだ。

おそらく、特にその頃、アルカイダとの共闘、結びつきが強化されたに違いない。

復活しつつあったタリバンは、戦法を切り替えて、

現地住民の中に潜伏する手法をとるようになり、

ISAFや米軍の空爆などで反感を持っている住民から容易にリクルートができるようにもなった。

これに加え、

アルカイダがアフガニスタン国境地帯で行っているラジオ放送を傍受しているISAFによれば、

以前から、アラブや、ウズベキスタン、チェチェンからも過激派勢力が流入しているようだ。


タリバンは、明らかに復活を目指していたわけであり、

そこに強力なアルカイダの介入があるということであろう。


そして、現在にいたり、状況は悪化していることは間違いない。

以前、このブログで何度か、”タリバンは一枚岩ではない”ということを述べてきたが、

もちろんその実体は今も変わらないと思っているが、

オバマ大統領による大規模な増派などは、両サイドの対立軸を先鋭化させているだろうから、

”タリバン・アルカイダ” と ”ISAF・米軍” という2項対立が、前倒しでさらに先鋭化しているように思う。

つまり、平たく言えば、かなりの本気を出して両方がぶつかりだしている現在、

いわば、ゆるい関係で繋がっていたタリバン諸勢力のなかに、

アルカイダなどの入れ知恵によって

急速に集約的な軍事化が発生しているセクトが、内部に出来ているように想像している(勝手な想像であるが)。

この想像は、上記した、タリバンの攻撃がよりシステマティックになっているような印象のせいでもある。

報道によれば、最近のタリバンによる幹線道路沿いでのテロ攻撃は、

イラクでよく行われた手法を踏襲しているようだ、という意見もある。


以前、1993年頃にタリバンが力を持ち始めた頃の印象は、

信条という軸をもった人々が”自己組織化”したような、

つまりは内発性と緩やかな指揮系統の発生を感じていた。

もちろん、上層部の発言や行動には政治性が多分に含まれていたが、

全体として、意思決定機構が20名くらいのシュラによっていたなど、

内戦を終わらせ、治安を回復し、シャリアーに基づいた体制の確立、という3つの目的をもった

伝統的な機構形態をとっているように見えた。


しかし、現在のタリバンに関して、

内情については知る由もないが、

敵対する圧倒的外力(西欧諸国)に対抗する形での組織化と、

友好的外力(アルカイダ)を呼び水とした組織化、

この2つによって、

戦闘意識を軸にした求心力の強さを感じる(私が感じているだけであるが)。


とにかく、

事態がここに及んで、

私が赴任当時感じたような、心情的なタリバンへの傾斜は、保ちづらくなってきた。


心情的なタリバンへの傾斜、というのは

説明しづらいが、なんというのか、

”タリバン”という言葉を、

”タリバン”が物理的に行ってきた酷い行動に焦点を当てた言葉としてではなく、

タリバンと呼ばれる人々の動き全体を包括した”うねり”を表すとするなら、

タリバンといううねりを生んだ背景、タリバンを受け入れた背景、そういう諸現象に対して、

それらの発生の必然性を、幾らかの愛情をもって理解できる、

とでもいうのだろうか。


イスラムにかぎらず、

原理的に生きようとすると必ずついてまわる”政治的未熟さ”とか、

高度な政治要因に利用されてしまうことへの”無防備”さとか、

そういったものに、過度に郷愁を感じてしまってはいけないけれど、

惻隠は捨てがたい。


タリバン発生当時でも、

徐々に他の勢力とのせめぎあいのなかで

タリバンやアルカイダの首班が、高度な政治的戦略を持っていただろうことは想像できるが、

しかし、政治的決定者以外のタリバン、末端にいるタリバンにとって、

いやおう無く国際政治の場に引きずり出されて巻き込まれていったこと、

西欧社会に目の敵にされはじめたことは、

とても意外なことだったのではないだろうか。


こんな話がある。

私が現在住んでいるサリプルも、1996年からタリバンの支配下にあった。

現在わが団体で働いているサリプル出身のスタッフが、当時の話をしてくれたのだが、

当時 10台前半の少年だった彼とその友人は、

いろいろな勉強がしたかったようで、

英語の先生を探していた。

幸い、よい英語の先生が見つかって、夕方や夜に、

勉強したい者が集まってその先生に習っていた。

一方、彼の家の近くには、タリバンが詰めているチェックポストがあったのだが、

そこに、ワルダック州出身のムッラーが勤めていた。

そのムッラーもまた、非常に勉強熱心で、

私のスタッフに、「英語を勉強したいんだが、いい先生はいないか」と尋ねてきた。

というわけで、私のスタッフたちとタリバンのおじさんは

一緒に英語の勉強をしていた、というのだ。


太平洋戦争中、英語を”敵性言語”として排除していた日本のほうが、まるで原理的である。


つまり、タリバンによる支配、というのは、

イメージとしては、

”テレビ・ラジオなど歌舞音曲を禁じ、女性の社会進出を取り締まる、警ら隊”のようなものだったであろう。

(補足するが、当然ながら、タリバンが勢力拡大のために

 当時あちこちで行った他の軍事勢力との戦闘は、勿論凄惨だったわけで、それは別である。)

彼らのそもそもの目的は、繰り返すが

内戦を終わらせること、治安を回復すること、イスラム法であるシャリアーに基づいた体制を確立すること、

であった。


もしかしたら、もしかしたらだが、

イスラム社会の中に住む人々に、

まるで、日本人が、

”咲きほこる桜”や、

”竹林と夕方の鐘の音”や、

”チリチリと鳴っている風鈴”に風情を感じるように、

アフガニスタンに生きる人々のなかに、

”土漠の中にたつ泥の我が家”や、

”埃っぽい絨毯”や、

”植物が繁るオアシス”や、

”延々と続く丘陵地帯”などに対して、

故郷の風情を感じている人が

きっといるに違いない。

そしてきっとそれらの風情は、

アフガニスタン人が持っている頑固なまでの誇りなど、

イスラム教的社会のなかで培われた精神文化と不可分に違いない。


内戦に疲弊しきった人々の心の中に、そういった精神があったとして、

”今一度、平穏な社会を取り戻したい”と、

タリバンを構成した一兵卒たちの一部が、そう思っていたとしたら、

それに幾らかでも呼応した一般アフガニスタン人がいたとしても、不思議ではない。


以下は完全な夢想であるが、

当時のタリバンになら、

アフガニスタン政府をもう一度乗っ取ってもらって、

国際社会も今度はそれをちゃんと承認し、

真に実のある支援活動を、国際社会と協力して行い、

少しずつ、”女性と歌舞音曲にやさしいタリバン”になってもらえばいいなあ、

などと私は思っていた。

アフガニスタンの復興を軸に考えるなら、

民心を、彼らの欲望を利用して荒廃させ、文化や習慣を圧倒的に蹂躙する、

破壊的な”経済のグローバリゼーション”よりは、

よっぽど好ましいのではないか、

と思っていた。


しかし、今、

戦闘意識をシステマティックに操作する、先鋭化してきたタリバンに対して、

上記のような憧憬がもちづらくなってきてしまった。


もう少し正確に言えば、

タリバンの中でも、西欧諸国に打ち勝つための戦略的な行動を、

アフガニスタン人やパキスタン人、つまり同胞たちの生命以上に重要なのだと考え出している、

一部のタリバンに対する疑念が、

タリバンについて理解しようとする意志の邪魔をし、私を思考停止にさせている。


***


イラク・イラン・アフガニスタン・パキスタンという、西から東の一連の並び、という国際的な大局で考えれば、

西欧諸国のアフガニスタン・パキスタンへの関与の仕方にも、

大局に関する懸念が影を落としてくるだろう。

明日16日から始まるサミットにもその観点は含まれる。


たとえば、

いつか、

タリバン勢力がアフガニスタン政府への影響力を持つ形で収束すれば、

パキスタンにとっては地政学的に有利な結果になろう。


また、

可能性は非常に小さいと思うが、もしISAF・米軍がタリバンを駆逐できれば、

西側に協力をしたパキスタンへの経済支援は続くであろうから、これもパキスタンにとって有利な結果である。

西側も、軍事的な影響力をこの核兵器保有国に持ち続ける事ができるかもしれない。


もしも、

タリバン勢力が、いつまでも活発な反政府勢力としてこの地域に影響力を持つ形になれば、

西欧諸国にとっても、パキスタンにとっても利点がない。

しかし、反政府勢力が活発なままであるとしても、

(現在は、欧米が口をそろえて軍事コストの重責を理由に、「出口戦略」について述べているが、)

もしも米国や西側諸国に、

アフガニスタン周辺に軍事拠点を持つことに意味があるとするなら、

反政府勢力の存在は有利なことなのであろう。


さらに、

パキスタンが、現在のアフガニスタンのような、政府の機能不全に陥ることは、

イラン・イラクから始まるこの地域の国々の連なりを考えると、

地政学的に全く好ましいことではない。抑えておきたいフロントラインなのであろう。



ともあれ、

さまざまな深読みは可能ではあるが、

大局について筋書きを想像して、

こんな三文評論のようなことをしたところで、

大局は所詮、大局の話だ。


その話を、どうにかして、

アフガニスタンを愛する普通のアフガニスタンの人々の安寧と復興、という命題に結びつける努力をしたい。

国際的な大局観だけをもっていても、

まさに2005年になるまでタリバンの復活を欧米諸国が予想できなかったように、

局地的なリアルへの対応には直結してこない。


命題を

”アフガニスタンを愛する普通のアフガニスタンの人々の安寧と復興”に限定するのなら、

これだけの最貧国になってしまった今、

とにかく国際社会の支援は不可欠である。

そのなかでも、私は、


アテンションが低く、手薄なわりに、やり始めると時間がかかる、

そして、国際政治とは無関係に変動する”天候”という自然現象が相手の仕事、

”雨と雪、つまり降水を如何に有効に使うかを中心に考えた農業”


これが大事だと考えて仕事をしているわけだが、

240万人の避難民がでるなど、

こんな大きな事態になってくると、水調査をしている自分についての無力感で一杯である。


国際政治は大局観でしか動かないものだが、

とにかく、支援が、効果的にアフガニスタン人、パキスタン人の生活の向上に資するような

せめて、そんなゴールを想定した大局観で、国際政治には動いてもらいたい。

(無理だろうが。)


私としては、

どんな支援をするにしても、

出来るだけ現地の文化や伝統、習慣を蹂躙しないで行うことを考えたい。

タリバンであるとか、ムッラーであるとか、そういう名目に関わらず、

真にアフガニスタン的なイスラム社会の信条や伝統を愛している人に、

「なかなかいい支援じゃないか」

と認められるような、

そんな復興支援を目指したい。


夢物語のようだが。


アフガニスタン便り-ガレ場
写真:水資源調査中、小さな河川沿いのガレ場。山岳域はだいたいこのようなグラベルの山道ばかりだ。直径4,5cmの石灰岩、泥岩、頁岩が路面を覆っており、パンクの頻度は非常に高い。




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こんにちは、児島です。


休暇をもらって日本に帰国していたが、5月30日にまたアフガニスタンに戻ってきた。

アフガニスタンを出発した頃は、寒暖の差が激しかったが、今はすっかり暑くなっている。


今回の休暇に出る前は、

少し長期間の現地連続滞在だったので、かなり消耗・疲労していた。

恥ずかしい話だが、私は赴任して6年以上経つにも関わらず、

未だに、現地に長期間滞在していると、徐々に、業務に著しい能率低下が現れてくる。

そんなときは、

水資源調査事業の遂行、治安対策、人事、会計管理など現地事務所のアドミニストレーション業務、

ロジスティクス業務、対外業務、

全てがリズムを無くしていく感じがしてくる。


まず、疲労が蓄積する背景を説明してみる。


オフィスと、スタッフの居住部屋と、私の居住部屋が、同じ小さい建物にあり、

始終、現地スタッフとの合宿生活であるのは、まあいいとしても、

私と現地スタッフの関係が、常に色々な側面をもっていることは、やはりなかなかタフである。

私とスタッフの関係は、時として友人であるけれど、

当然ながら、私が上司として彼らを叱咤激励することは多いし、

人事権を担う私は常にスタッフの生殺与奪の舵取りの権利を持つわけだから、

時に労使の関係が強烈に溝を作ることがあるし、

往々にして、日本人というよそ者と現地の人間という垣根がどうしても大きく立ちはだかるときもある。

もし日本人など国際スタッフが複数いれば、

現地スタッフに対して、悪役、仲介役、味方役をそれぞれ役割分担できるけれど、

私は一人なので、それを一人でやらねばならなければならず、これは分裂気味な気分にもなる。

この上に、治安の悪化で判断を迫られたり、事業遂行上の障害が多発してくると、

なかなかタフな状態になる。

貧乏NGOとは、どんな団体も、蓋を開ければ、そんな状況で四苦八苦してるのではないかと思う。


私は、心の負担をなんでもかんでも”ストレス”という言葉で言い表すのは適当ではないと思っているので、

この疲労状態を敢えて違う言葉で表すなら、

”心技体がバラバラな状態”、とでもいえようか。

上記のようなバラバラな状況というのは、

唐突な例えだが、ゴール型競技でたとえると、

ミスが続いて自らの得意な流れを見失っているうちに、

相手の勝ちパターンにはまっていき、

それを立て直す手段が講じれないままに時間が経過していくイメージである。

また、スキーでたとえて言うなら、

難しい急斜面を、自分の意図する方向にターンできないままに

重力だけに従って滑降しているような気分であり、

加重はスキー板に上手く乗らないでスーッと上滑りをして、

身体は後に傾き、視界は直前数mしか捕らえていない、

そして、目の前にはコブ斜面が迫り、突如アイスバーンが現れるかもしれない不安におびえている、

そんな、バラバラな感覚である。


上記の役回りを、スムーズにこなす人間もいるだろう、

そんな人を、私は、支援業界のトップアスリートと呼びたいくらいである。


***



さて

私の能率低下というのが、具体的にどのように現れてくるか、というと、

だいたい、以下の症状が以下の順序のままで現れてくることが多い。


①鍵束のなかから、必要な鍵を見つけるのに時間がかかるようになる

 私は、現地オフィスの重要な部屋の鍵23個(大きさ・形状は様々)を、

 まとめて鍵束にしていつも持ち歩いている。 

 たいして疲労していないときは、

 鍵束から、必要な鍵をすぐにとりだせるのだが、 

 疲労が蓄積してくると、どれだけ分かりやすい鍵でも、なかなか見つけられないのである。 

 ドアの前で、イライラと鍵束をこねくり回しだすと、疲労の第一段階である。

  
  アフガニスタン便り-鍵束
写真:いつも持ち歩いている鍵束。調子のいいときは、モーパイで取り出せるのだが・・・。


②メモを書くときに、単語を逆から書いてしまう

 さらに疲労してくると、会議中や、スタッフとのMtg中に メモを上手くノートできなくなる。 

 一番ひどいときは、カナやスペルを逆に書いてしまう。 

 これは、例えば、”あいうえお”と書こうとすると、 

 どうしても”おえういあ”と書いてしまう症状である。 

 2,3度トライしても、常に”おえういあ”と書いてしまうので、 

 イライラしながらノートの書き損じた部分を塗りつぶしている。 

 これが続くと、ちょっと軽いノイローゼかなあ、などと自己判断する。


③足し算、引き算が出来なくなる 

 最終的には、簡単な計算が出来なくなる。

 ここまでくると自分でも笑えるくらいであり、事業遂行に支障がでていると考えて間違いない。

 

④脈絡なく、過去の情けない思い出が蘇る

 仕事中や現場移動中に、

 まったく関係なく、なんの脈絡も無く、

 昔の自分の情けない記憶が、その当時の感覚とともにフラッシュバックするようになる。

 たとえば、

 小学校1年生の時に、理科の授業中に鼻クソをほじっていたら、

 あこがれていたクラスメートの女の子と偶然目が合ってしまったことなど、である。

 なぜか、当時の絶望的な感覚もフラッシュバックしてしまい、冷や汗をかくのである。

 笑えるはずの思い出が、笑えない形で、突然よみがえるのは、ちょっとした恐怖である。 

 


この4つが、疲労と共に顕在化する私の症状であり、

現在の私の疲労バロメータになっていて、自分の状態を計るいい目安になっている。

なんというか、①②③④の症状がでて、心技体バラバラな感じのときでも、

バロメータによって、「ああ、こりゃ、ワシは疲れとるなあ」と、

ある程度自覚的になれると、疲労がすこし緩和される気がする。


***


さて、とすると次の課題は、この疲労を自覚したときの対応である。


そういえば学生時代、国際支援という職業に興味を抱きはじめていた頃に、

犬養道子著「ある歴史の娘」(中公文庫)を読んだが、その本の中で犬養さんは、


”国際支援の現場で働く人のなかで優れた人は、

自分が疲れたときに、それにどう対処すればいいかを知っている人だ”


というようなことを書かれていたような記憶がある。


そこで私も、

以上の4つの症状が出だした場合に現在どのように対応しているのか、ちょっと自分のことを考えてみたが、

あまり有効な方法はないのが現状だ。

大体の回復方法は、身体を使ったトレーニングである。


まず、①や②が症状の軽いうちは、

仕事を一旦休んで、

身体を使ったトレーニングを行うことによって緩和する事が出来る。

しかし、治安が悪化しているので、不用意にオフィスの外に出ることはできないから、

チームで行うスポーツで汗をかくことはできない。

だから、オフィスの敷地のなかで出来ることを工夫している。


たとえば、ジョギングはだいたい毎日しているが、

狭いオフィス(1周150mくらい)の庭をコマネズミのようにぐるぐる周回するので、

何周したか分からなくならないように、小石を並べて数えている。


アフガニスタン便り-小石

写真:周回数を数えるための小石。50周もするとなんだかむなしくなってくる。

始めは現地スタッフは馬鹿にしたような目で見ていたが、そのうち、真似して走るようになって、

時々、狭いオフィスの庭を数人がチョコチョコ走っていたりして、コミカルである。


また、体幹や足腰がなまらぬように、

業務用車両のパンクしたタイヤの上を、

つま先の位置を前後・左右に変えながら縄跳びのように飛び続けるトレーニング、

これは足腰の筋肉と、バランスを保つ筋肉を強化することが出来る。



アフガニスタン便り-飛び跳ね用タイヤ
写真:ランクルで使用していた古タイヤ、

この上で、つま先を前後左右に動かしながらぴょんぴょん飛び続ける。

1セット5分間、5セットくらい。


また、

以前は難民キャンプを運営していたこともあり日野トラックを4台も所有していたが

そのころのトラックの古タイヤを捨てずにおいてあって、

それを、7kgの鉄ハンマーで、延々とたたき続けるトレーニング。

これは”にっくき日本の上司の顔を思い描いてぶちのめすイメージで”、というのは嘘ですが、

ハンマーは両手の小指から中指で握って持って、

へその下に重心を持ってくるイメージで(股関節を意識すると良いらしい)、

足から腕までを使ってタイヤの縁をたたき続けるものである。

まとまった一連の動作で全身を動かせるので気持ちがいい。


アフガニスタン便り-タイヤたたき
写真:たたき続けてボロボロのトラックタイヤ。
     


これ以外にも、

自腹で設置してもらった鉄棒で懸垂をしたり、ただただ長い時間ぶら下がったりもしている。

また、自動車の要らなくなった部品で作ったダンベルをつかったり、

学生時代、剣道をやっていた後輩に腰痛予防にいいと薦められた素振りをしたりもしている。


それ以外にも幾つかある運動メニューを、組み合わせて行っている。

ただ、”精神的な疲労回復のため”などという合理的な目的をもったドリルにしてしまうと、

陳腐な合目的性しかないマニュアルになってしまい、

それだけで興醒めしてしまう。

本当は、何かのスポーツのスキルアップのためのドリルとしてメニューを組み合わせれば、

気分転換になり、疲労回復にもっと効果があるのだろうけれど、日本人一人ではそれも出来ない。

(アフガニスタン人スタッフと一緒に何かスポーツをすればいいのだが、

現在のスタッフは、それなりに年配が多く、

ある年齢以上のアフガニスタンの人々は、チーム形式スポーツをする、という習慣がない。)

だから、私は、自分の身体が発信してくる”運動したい”という要望に応える形で、

そのときそのときに”したい”と思ったトレーニングメニューを行っている。



アフガニスタン便り-懸垂用鉄棒
写真:懸垂用鉄棒。3、4年前に、バザールのウェルダーさんに来てもらって、

設置してもらった。20ドルくらいで済んだ記憶がある。


 アフガニスタン便り-手作りギア
写真:トラックの動力系(おそらくどこかのギアか?)の部品を使って作ったダンベルと、

素振り用の鉄棒(水道などの水周り用パイプ)。


とまあ、いろいろ工夫はしているつもりであり、

このようなトレーニングで汗をかくと、ちょっと症状が軽くなる気がするのである。

特に、局所的な部分をトレーニングするメニューより、

身体全体を使ったメニューの方が、気持ちの爽快感があるような気がする。


***


そういえば、大学の博士課程で水文学の研究をしている頃、

とくに研究が思うように進まなかった頃、

やはり疲れがたまりやすくなっていたころがあったので、

当時はほぼ毎日、時間を見つけて大学の近くのプールに泳ぎに行っていた。

その頃、なにかの本で偉い学者先生が、

「精神的なストレスは、血中に含まれるある種の酵素量の増加となって現れる。

この傾向が顕著になると、運動をすることでしかこの酵素を減らすことが出来ない」と述べていた。

この説が、当時も今も妥当なものなのか調べた事がないので、真偽はわからないが、

あの泳いだあとの爽快感は、

研究が上手くいっていない時でも、何とかなる気がしてくるという、

なんというか、

根拠のない楽観的な自信がみなぎってくるような、

そんな気持ちのいい性質のものだった。


そういうわけで、

運動は、疲労を回復させ気持ちを前向きにするための処方のひとつであると思っている。

上記した私の疲労回復方法は、なんだか身体トレーニングに偏っているようにも思えるが、

本当に疲労がたまると、読書やら、音楽鑑賞やらでは、全く、心技体のバラバラ感は回復できないのだ。

ことに、音楽鑑賞などは、四六時中、爆発音や銃声に神経を尖らせていなければならないので、

あまりできない。


***


しかし、こういう努力もむなしく、

そのうち、運動による疲労回復メニューも効果が無くなってくる。

(ただし、運動は、一見、疲労回復効果がなくなったようでも、やらないと更に疲労が蓄積する感じなので、

それなりに続けている。)

そうなってくると、いよいよまずいなあ、と判断する。


ただし、私には水資源調査事業という”現場”があり、

河川や山岳域などの現場を訪ねると、

仕事にリアリズムが呼び起こされ、

心の中に、再び勢いが生まれてきて、気分が一新されることがある。

だから現場によく出る事ができた頃は、疲労の蓄積も緩やかだった。


しかし、昨今の治安悪化によって外出は著しく制限されるようになったので、

これは私の疲労にとっては致命的である。

5年前は、朝、ガードさんと一緒に散歩をしていたのだが、それさえ出来ない。

残念ながら、大学で研究していた頃の水泳と同等のすがすがしさは、

オフィス内の運動では得る事が出来ない。


そんな状態で上記の症状③までいくと、ちょっと別の方法を考えないといけない気がしているが、

いまのところ思いつかない。④までいくとどうしようもない。


まあ、こんな感じで、

犬養道子さんの説を借りて言えば、

効果のある疲労回復方法を持たぬ私は、

支援業界では劣等生ということになろうか。残念だ。


しかしこれでも昔の自分と比べればいいほうで、

以前は、上記の4つのようなバロメータも無かったので

(というよりも、症状として自覚がなかっただけかもしれない)、

気づかないうちに過度に疲労していた。

たしか2004年頃には、3週間くらい熱が下がらなくなってしまい、

駐屯しているレバノン軍の医療施設で検査をしてもらったりした。

そういえば、シェラレオネで井戸掘りの仕事をしているときも、数週間熱が下がらなかったことがあった。

シェラレオネではマラリアで6回くらいギブアップしたが、

数週間熱が下がらなかったときのほうが、原因が分からずしんどかった。

また、アフガニスタンで駐在を続けるうちに持病のヘルニアが悪化して、フィールドで動けなくなり、

ISAFの医療施設で診て貰うはめになったこともあった。

新潟中越地震の際には、ヘルニアで右足が完全に動かなくなり、階段から転げ落ちそうになったこともあった。


こうなっては事業が滞るから、やはり、大事になる前に何とかしないといけない。


***


さて今回の休暇の前の状態は、というと、

上の4つのバロメータでいうと、

3月くらいからすでに③のひどい状況まで行っていた。

③までいってしまうと、当然仕事にもいろいろ支障がでてくる。


その影響が一番明らかにでたのは、

アフガニスタンを出国してウズベキスタンに入国したときだった。


***


私がアフガニスタンから出国するときは、

アフガニスタン北部の都市ハイラトゥンから、

陸路でウズベキスタン南部の町テルメズに入る。

アフガニスタンとウズベキスタンの国境は、有名な河川である、アムダリア(アム川)によって隔てられており、

アフガニスタン側の国境管理局を通過すると、

アムダリアを超えてウズベキスタン側の国境管理局を経て同国内に入るまで延々歩かねばならない。

まあ、重い荷物を持って歩いて移動するのはいいとしても、

一番面倒なのが、ウズベキスタンの入国管理局での入国作業である。

閑散とした国境管理局事務所には、たくさんの国境警備兵がいて、

かれらが、入国希望者の荷物と所持金を入念にチェックするのである。

入国者があまりいないから暇であることも手伝ってか、

アフガニスタン人、日本人、その他の外国人のわけ隔てなく、

全員の荷物を全て開けさせて、

入念に中を開いて持ち物検査をする。


そして、特にウズベキスタンの場合は、

外貨の出入りを細かく監視しているので、

入国者は、決められた書式を用いて、

持ち込む外貨を正確に届け出なくてはならない。

そして国境警備兵は、財布も全部開けて、

実際の所持金を丁寧に数え、

届出額と比較するのである。


***


さて今回の入国では、

症状③の状態になっていたため、

前日に、持ち込むUSDを何度も数えたにも関わらず、

所持金の合計をするのに、正しい足し算がどうしても出来ず、

知らないうちに、申請額と実際の所持金に大きな差がでてしまっていた。

それを角刈りのいかつい国境警備兵に指摘されて、

所持金を数えなおし、

自分でもそのミスが確認したときは、

さすがにゲンナリした。


ウズベク人の男性と女性の軍人が、

わあわあと間違いを指摘してきたが、

これはもう、

言い訳をする余地が全くないので、

ただただ謝って、

なんとか今一度届出書類を書き直させてもらったが、

一度、嫌疑をかけられた私は、

彼らの疑念に満ち満ちた誤解を解くことはできず、

持ち物検査を、更に入念にやられるはめになってしまった。


洗面道具の袋まで開けるのはいつものとおりであったが、

今回は、いつもならあまりやらない、

CD/DVDの検査までやられることになった。

これはどういう検査かというと、

入国者が持ち込もうとするCD・DVDに、

いかがわしい内容が含まれていないかどうかを、

実際にプレーヤーにかけてチェックする検査である。


さて今回私は、

バックアップした仕事用のデータのほかに、

アフガニスタンでよく聴いていた、敬愛する中島みゆきさんのCDを数枚、

日本でも聴こうと思って持ち帰ろうとして所持していた。

そして、国境警備兵は、もちろん、それらのCDもぬかりなくチェックしたのだった。

すなわち、

迷彩服を着た、角刈りのウズベキスタン軍人数人は、

私の所持していた中島みゆきさんのCDを、

一枚一枚プレーヤーに挿入して視聴し始めたのである。


閑散として味気ない入国管理事務所の中で、

尋問されるように立たされている私の前で、

中島みゆきさんの「悪女」や「歌姫」が大音量で美しく流れはじめたとき、

私は、日本のポップスと、神妙な面持ちのウズベキスタン軍人、というミスマッチな情景から、

「やはり、中島みゆきの曲は、世界どこででも人々の心を同調し、ゆさぶる力があるのだなあ!!」

という確信を新たにし、
なんだか非常に感動してしまったが、

その一方、

神妙な顔をして「悪女」を聴いてチェックしているウズベキスタン軍人が

なんだか唄の意味を理解しているようにも思えてきて、

それなら、さびの部分でも口ずさんでくれないかなあ、などと妄想しているうちに笑えてきて困った。

ここで声を上げて笑ってしまって、これ以上不逞な輩であるという印象を持たれても困るので、

笑わないよう我慢した。



   アフガニスタン便り-御色なおし  アフガニスタン便り-大銀幕  アフガニスタン便り-寒水魚
    写真:所持していて、試聴された音楽CD。気に入ってくれたらよかったのだが。


というわけで、

CDを入念に調べられて時間をとったのと、

そのあと、サリプルの山岳域の村人からプレゼントされた、

伝統的な刺繍の入った手作りのベスト(村人の奥さんが手作りで作ってくれたもの)

がアンティークではないかという嫌疑をかけられて、

更に時間がかかったので、

出国から入国まで2時間以上かかってしまった。

幸い、余裕を持って早めに出発していたので、テルメズからの国内便に遅れずにすんだ。


***


以上の失敗談は、疲労していることがいかに仕事に悪影響を与えるか、ということを表す、

下らない例であったが、

とにかく、この疲労というものは、

当然、他の日常業務でも、たくさんの失敗や非効率に繋がっている。

それに、疲労がいつ大きな不全に繋がるかもしれず、

そうなればPWJのアフガニスタン事業全体に影響してしまう。

だから何とか軽減したいと思っているが、なかなか上手くいかない。


”精神的な疲労”という、

考えてみれば、なぜ起こるのか、もうひとつよくわからないこの不可解な現象は、

決して、簡単に”ストレス”と言いくるめてしまってはいけないくらい、複雑なものだと思う。

疲労が自覚できるようになったころは、すでにかなりの程度まで進行しているとも思われるから、

疲労する前になんとか解消することも考えるべきかもしれない。


私は、プロスポーツ選手のような、肉体を過酷に追い込むような環境にあるわけではないから、

自己管理、などという大げさな言葉は私には不適当だとおもうけれど、

それでも、

自分の心身という身近なものでさえ、なかなか思うように動かせないというのは歯がゆいものだ。

しかし、逆に、この心身が、

”いい仕事をしたい!”と思うとき、”ここぞ!”というときに、

スパッ!と綺麗に、しなやかに、動いてくれれば、

とてもすがすがしいものなんだろうなあ、と思う。

現場にいるからにはそういう、会心の”心技体”を目指したい。


UNAMAに勤務するスーダン人(だったかな?)の知り合いに聴いたところによると、

アフガニスタンで勤務する国連職員は6週間に一回、

イラクの場合は4週間に一回、

休暇をとれることになっているそうだ。

正直、アフガニスタンの国連職員がしょっちゅう休暇に出ているのを見ていると、

「そんなにしょっちゅう休んで、円滑に業務は行われているのか?引継ぎは大丈夫なのか?」

といぶかしく思うのだが、

一方、自分が今回のように疲労してしまうと、彼らの休暇のとり方が真っ当にも思えてくる。

彼らの仕事のクオリティがそれによって保障されているのなら、よいルールかも知れない。



***


6年を過ぎた現地生活で、心身を思うがままに動かす方法が見出せていないのは、

私のいたらぬところだ。

今回またアフガニスタンに戻ってきて現地業務を再開しているわけだが、

すでに症状②がでていて、ノートがすでにグチャグチャである。

先が思いやられる。


しかし、私のアフガニスタン滞在期間なんて、たかが6年ぽっちではないか。

こんな状況下でも、

何とか心身をしなやかに動かせるようになって、

いつか、力の漲る仕事ぶりを獲得してやりたい。

そうやって、すこしづつでも、支援の仕事のプロになれるよう、目指していきたい。


こんばんは、児島です。


サリプルの最近の気象状況は、

3月に新年を迎えてから、ずっと最近まで、

寒気と暖気の繰り返しである。

暖気が入って暖かくなり、花が咲き始めた、と思えば、また寒気。

この週末も、寒冷前線が通過して雨がふり、寒が戻った。


サリプル在住のスタッフと話していると、

「未だにサンダリ(炬燵)をしまってないよ。寒い日は、まだ炬燵にあたってる」

と話してくれた。


***


以前、今年の2月に、このブログで、

”アフガニスタンの炬燵”という題でアフガニスタンの炬燵を紹介したら

ブログを読んでくださった方からコメントを頂戴し、

サンダリの構造について質問を頂いた。

そのときの私からの回答は、

言葉でしかできていなくて、上手く伝えられなかった。

せっかく、数少ない、私のブログを読んで頂いた方の質問であるのに、

ちゃんと応えられないのも申し訳なく思っていたところ、

今回、スタッフがまだサンダリを使ってる、というので、

写真を撮ってきてもらった。


一般に、

特に地方出身のアフガニスタン人は、

あまり私生活を見せたがらないものなのだが

そのスタッフは、日本の炬燵とサンダリが似ている、ということに興味を持ってくれて

いそいそと写真を撮ってきてくれた。


ですので今日は、早速その写真を使って、

サンダリの構造について、以下に順を追って図解してみたいと思います。



図解① 机部分を見てみますと、このようになっています。

アフガニスタン便り-図解こたつ①




図解② これを横から見ますと・・・

アフガニスタン便り-図解こたつ②

足を乗せる棒がついています。




図解③ 一方、部屋の中の、炬燵を据える四角い穴と、炭を入れる穴はこんな感じです。

アフガニスタン便り-図解こたつ③




図解④ 炬燵を据える四角い穴に、テーブル部分を据えますとこんな感じです。

アフガニスタン便り-図解こたつ④




図解⑤ 炬燵のテーブルを据えたところを横から見ますと・・・

アフガニスタン便り-図解こたつ⑤

炭の穴に足を突っ込まないように、足をかける棒があるわけです。




図解⑥ これに、炬燵ぶとんを載せまして・・・

アフガニスタン便り-図解とたつ⑥



図解⑦ ふとんをパッと広げますってえと・・・

アフガニスタン便り-図解こたつ⑦



図解⑧ あったか、ラクチンなのでゴザイマス。
アフガニスタン便り-図解こたつ⑧

いかがでしょう、サンダリの構造がお分かりいただけたでしょうか。

構造はほとんど、日本の炬燵と同じです。

違いといえば、家が泥で出来ているため、

炭用の穴を、床にじかに掘っているところでしょうか。


***


ともあれ、

いくら寒の戻り、といっても、野山ではすでに花が咲きほこっており、春であることには違いない。

サンダリもそうすぐ片付けられるだろう。

もうすぐに、暑い乾季がやってくる。



こんにちは、児島です。


8月下旬に行われるアフガニスタン大統領選挙の候補者数については、

巷の噂では、200人などといわれたり、

幾つかの笑い話では、まったくの一般人が立候補の届出をしている、などという流言が飛び交ったりしていたが、

実際、4月21日現在の公式の候補者数は26人であるようだ。

しかし、それにしても多い。


http:/www.khawaran.com/Poll-results/


にアクセスすると、ネット上での候補者の人気投票を行っている。

当然ながら、この人気投票結果は、

インターネットにアクセス出来るアフガニスタン国民にしか人気投票に参加することはないから、

かなりバイアスがかかったものであることは間違いない。

インターネットの人口に対する普及率はおそらくかなり低いと思われるので、

それに留意する必要はあるが、

念のため、備忘録もかねて、この人気投票の結果のうち、上位12位の名前を列記してみる。

(4月21日現在)


 1位 Dr.アブドゥラ・アブドゥラ

 2位 ラマザン・バシャール・ドゥスト

 3位 アハマド・ジャ・マスード

 4位 Dr.ジャラリ

 5位 アシュラフ・ガーニ・アハマドザイ

 6位 Dr.ハビブ・マンガル

 7位 カルザイ

 8位 シャハラー・アタ

 9位 グラカー・シェルザイ

 10位 Dr.アリム・タヌウィール

 11位 アクバル・ボイ

 12位 アブドゥル・ジャバル・ザベッド


現大統領のカルザイ氏の順位は6位で、投票率は低く、5.2%。

堂々の1位は、Dr.アブドゥラ・アブドゥラ氏で、ダントツの得票率43.8%。2位の14.6%を大きく引き離している。


これらのうち、

女性は、8位の立候補者一人、

パシュトゥーン人は、4、5、6、7、9、12位の立候補者6人、

タジク人は、1、3位の立候補者2人、

ハザラ人は2位の立候補者1人、

ウズベク人は11位の立候補者1人

(2人の候補者の民族が分からなかった)。


これらの中には、ほとんどアフガニスタンで生活していない海外組も何人かいる。

アフガニスタンに赴任して6年の日本人の私のほうが、候補者より長くアフガニスタンで生活している、

というのはおかしな感じである。

1位、4位、5位、9位は、オバマ大統領に呼ばれて会談を行った人物である。

地元の住民の間では、「どうせ、投票をしたって、アメリカが選んだ人間がなるんだろう」

という意見を持っている人もいる。

また、

「誰がなっても、汚職まみれになるのだ」という人もいる。

一方、積極的に選挙に参加しようとしている人もいて

「みんなカルザイを悪く言うが、彼のおかげで、どれだけ政府機関や道路などが復旧したか」

と熱っぽく語る人間もいる。

「IEC(Indipendence Election Commission)の幹部が、選挙後にはクンドゥズ州の知事にしてやるから、今日録しろ、とカルザイに買収されたらしい」

とか様々なことが語られている。


***


私が暮らす北部から見ると、上記12人の中の、11位アクバル・ボイ氏について興味がある。


北部の特にサリプルやジャウジャン州、ファリヤブ州などには、

ウズベク人、トルクメン人が多く住む。

かれらは、その言語のつながりから”トルコ系”というくくりで考えられることがある。

そして、11位のアクバル・ボイ氏は、

12人中唯一のウズベク人で、トルコ系部族を代表しているような形となっている。


ご記憶の人も多いかもしれないが

2008年2月に、アクバル・ボイ氏とドスタム・元将軍は、個人的な揉め事を起こし、大きな話題となった。

ドスタム氏がアクバル・ボイ氏の家族を一時誘拐し、警察の介入で釈放されたり、

ドスタム氏がカブールの城のような自宅に立てこもるシーンも、地元テレビで報道されたりした。

ドスタム将軍ももともとウズベク人であり、彼らは以前はジュンベシという軍閥の同じ仲間であった。

アクバル・ボイ氏はジュンベシのスポークスマンであったこともあるが、

今の2人はおそらく冷戦状態なのであろう。


というわけで、ジュンベシを率いているドスタム氏は、

同じ民族のアクバル・ボイ氏を指示せず、

どうやらワハダットという軍閥と協同して、別の候補者を支持することにしたようである。

(状況は流動的であるが。)


サリプルの地元ウズベク人と話しても、

支持したい立候補者はまちまちで、民族や部族によるくくりが単純に支持基盤に直結しているわけではない。


ともあれ、アクバル・ボイ氏について、なぜ私が興味を持つかというと、

彼が、アフガニスタンの標準語であるダリ語を、日常会話以上には話せない、という話を聞いているからである。

もちろん、もう一つの標準語であるパシュトゥー語は話せないに違いない。

それから、おそらく大統領として国際社会に認められるための、人脈や政治的背景などもない、とも聞いている。

私の彼に対するイメージも、ドスタム氏との喧嘩に負けた武装集団の元頭目、という風なものであった。


つまり、人気を得る要素に乏しい人なのである。


だから、地元の人は、そういう理由もあって、アクバル・ボイ氏の立候補をなかばあきれて見ている、

というのが私の予想であったが

しかし、それでは、

この、ネット上での投票結果での11位という健闘ぶりは、なんなのだろう。


ネットユーザーが、ただの冗談半分の投票をしているとも考えられる。

ネットでの投票者数の母集団が小さすぎるのかもしれない。

しかし、冗談での投票ではなく、十分な投票者数があったとすると、

この投票結果は、

ネットユーザーという、ある程度裕福である人々が登用しているというバイアスとは

全く逆のセンスのような気がする。

アクバル・ボイという名前が示すとおり、彼はビジネスで成功したお金持ちであると考えられるから、

それなりの財力はあるのであろう、その力が現れているのか。

また、トルコ系民族の意志というのも、もしかしたらあるかもしれない。ないかもしれない。


***


とにかく、

アクバル・ボイ氏、一人をとってみても、

読みづらいアフガニスタンの政局である。




アフガニスタン便り-紫色の花畑

写真:前回に引き続き、花に覆われる、天水域の丘陵群。今回の花は、紫色で一面を覆っている。

近くに行くと、甘いにおいがうっすらと風にのってくる。先進国ではミツバチの数が減っているというが、

サリプルで訊いてみてもよく分からなかった。