「知らないことを知る」から「知っていることを、何に使うのか?」へ | 日本社会に合わないINTJの議論革命

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プロンプト

 

 

昔は知識が増えることで賢くなったような気がしてたけど、最近はいくら知識を増やしても何の役にも立たないという閉塞感が強くなっている。例えば、別に将棋を指す訳ではないのに、一生懸命将棋の知識を増やして思索している感じだ。これは知識の資本化に失敗しているということかな?

 

 

 

回答

 

 

うん、かなり近いと思う。ただし、私は少し言い換えたい。

「知識の資本化に失敗している」というより、知識を“資本に変換する経路”が切れていると考えた方が、今の閉塞感をよく説明できる。

たとえば将棋なら、

将棋の知識を増やす

将棋が強くなる

対局で勝てる

何らかの価値を得る

という変換経路がある。

ところが、

将棋の知識を増やす

将棋について深く考える

さらに知識が増える

ここで循環してしまうと、知識は増えているのに、外部の結果が何も変わらない

これが続くと、「自分は賢くなっているはずなのに、なぜ人生は何も動かないのか」という閉塞感になる。

「知識」と「資本」は違う

以前話していた「資産をどう資本に変換するか」という話ともつながる。

ざっくり言えば、

知識 = 使える可能性を持ったもの

であって、

資本 = 何らかの成果を生み出すために投入できるもの

と考えられる。

だから、

知識を持っている

知識が価値を生んでいる

なんだよね。

例えば、

段階 状態
知識 「検証可能性という概念を知っている」
理解 「なぜ検証可能性が必要なのか説明できる」
技能 「実際の問題に適用できる」
資本 「その技能によって問題を解決し、成果を生む」
再投資 「成果をさらに知識・技能・信用などに変える」

ここで重要なのは、知識→資本の間に「行動」と「成果」が必要だということ。


ただ、ここで一つ反論したい

「知識が役に立たないから、もっと実用的な知識を身につけよう」と考えると、たぶん同じ穴に落ちる。

なぜなら、

「役に立つ知識」を探して、さらに知識を集める

という行動そのものが、知識収集のループだから。

資格を取る。
本を読む。
専門知識を増やす。
理論を学ぶ。
YouTubeを見る。
ChatGPTで思索する。

全部できる。

でも、現実世界への接続がなければ、

知識の在庫だけが増える。

これは倉庫で考えるとかなり分かりやすい。

商品が大量に入荷しているのに、

  • どこにあるか分からない

  • 必要な人に届かない

  • 出庫されない

  • 使用されない

なら、在庫は増えていても、流れとしては機能していない。

知識も似ている。

知識が増えることと、知識が流れることは別問題。


そして、今のあなたの場合は少し特殊だと思う

これまでの話を見ると、単純に「知識を実践していない」というだけではない。

むしろ、

「考えること自体がかなり高度になっているのに、それを現実の意思決定や行動に接続する場所が不足している」

という感じがする。

最近ずっと、

情報

判断

実行

検証

修正

という構造を考えてきたよね。

これを自分自身の知識にも適用すると、かなり面白い。

今までの状態を仮に、

情報 → 思索 → 情報 → 思索 → 情報 → 思索

とすると、

本来は、

情報 → 思索 → 判断 → 行動 → 結果 → 検証 → 次の判断

にしたい。

つまり問題は、知識量ではなくフィードバックループなのかもしれない。


だから「知識の資本化」をこう定義すると分かりやすい

知識の資本化とは、知識を現実への介入手段に変換し、その介入によって得られた成果やフィードバックを再び知識へ戻す循環である。

式っぽく書くなら、

知識 → 判断 → 行動 → 結果 → 検証 → 改良された知識

という循環。

ここまで回って初めて、知識が「働いている」と言える。

逆に、

知識 → 思索 → 知識 → 思索

なら、知識は蓄積されても資本化されていない。


そして、ここから少し厳しい話になる。

あなたが感じている「知識をいくら増やしても何の役にも立たない」という感覚は、知識が無価値になったサインではなく、「知識を増やすこと自体を成果とみなす段階」が終わったサインなのかもしれない。

昔は、

「知らないことを知る」

だけで世界が広がった。

今は、

「知っていることを、何に使うのか?」

が問われ始めている。

だから、将棋の例もかなり象徴的だと思う。

将棋を指さない人が将棋の知識を増やし続けること自体が悪いわけではない。

問題は、

「この知識によって、自分の現実の何が変わったのか?」

という問いに答えられなくなったこと。

もしかすると今必要なのは、さらに知識を増やすことではなく、「自分の持っている知識のうち、何を現実に投入すれば結果が変わるのか」を探すことなんじゃないかな。

そしてこれは、これまで考えてきた「資産→資本」の話とかなりきれいにつながる。

知識を資産として蓄える段階から、知識を資本として運用する段階への移行。

この見方をすると、今の閉塞感は「自分には何もない」という感覚とは少し違って見えてくる。むしろ、**倉庫にはかなり物がある。ただ、出庫システムが弱い。**という問題なのかもしれない。