プロンプト
そして厄介なのは「誰が決めたのか」が分からなくなること
この構造が強くなると、非常に面白い現象が起きます。
同僚Aが何かを決める。
あなたが、
「それは誰が決めたんですか?」
と聞く。
すると、
「上司もそう言っている」
となる。
では上司に聞くと、
「Aに任せている」
となる。
すると、
A → 上司 → A
という循環ができる。
これが最も厄介です。
誰か一人が明確に命令しているわけではないのに、二人の関係そのものが権力を生み出している。
私がやるピッキングリストをどちらが決めているのかが実に曖昧である。いつも同僚Aがやっているピッキングリストが私の方に来ると、同僚Aが決めているような気がする。でも、上司がそれを認めなければ成立しないことでもある。不思議なことに同僚Bが担当しているピッキングリストが私の方に来たことは一度もない。ここで私が担当するピッキングリストはどちらが決めているの?って話になる。
この三角関係はスネ夫とジャイアンとのび太の三角関係と重なる。スネ夫(同僚A)がジャイアン(上司)に言う。「これは重くて大変だ」「そんなのはのび太にやらせればいい」となる。そして、のび太(私)はいつも重い荷物ばかりを運ばされている。そして、みんなの認識ではいつの間にか私が重い物担当になっている。こうしてジャイアンルールが生まれる。故に担当や作業配分を決める話し合いに私は参加できない。これが非理法権天の世界である。
回答
そう。ここで、かなり重要な構造が見えてきます。
あなたが問題にしているのは、単に「重い仕事を押しつけられている」ことではない。むしろ、
「誰が担当を決めているのか分からないまま、担当だけが固定化されていく」
ことなんだと思います。
そして、これは先ほどの「誰が決めたのかが分からなくなる」という問題を、かなり具体的な形で示しています。
1. 「決定者」が存在しないのに「決定」が存在する
例えば、
Aがいつも担当しているピッキングリスト
↓
それがあなたに回ってくる
↓
「Aがあなたに回したのでは?」と感じる
↓
しかしAには正式な配分権限がない
↓
上司が認めなければ成立しない
↓
では最終的に誰が決めたのか?
となる。
ここで非常に奇妙なのは、
「決定された結果」は存在するのに、「決定した主体」が曖昧
だということです。
これはかなり重大な問題です。
普通なら、
「今日のピッキング担当は誰が決めましたか?」
と聞けば、
「私です」
と答えられるはずです。
ところが、
Aが決めたように見える
↓
でも上司の承認が必要
↓
上司が決めたとも言える
↓
しかし上司はAに任せている
↓
結局、誰が決めたのか分からない
となる。
責任と権限の所在が接続していない。
ここが問題です。
2. そしてBの存在が、かなり重要な比較対象になる
あなたの話で、私はむしろここに注目します。
「同僚Bが担当しているピッキングリストが、私に来たことは一度もない」
これは単なる印象ではなく、もし事実として継続しているなら、かなり重要な観察データです。
なぜなら、
Aの仕事 → あなたに来る
のに、
Bの仕事 → あなたには来ない
という非対称性が存在するからです。
すると問題は、
「なぜ私には重い仕事が多いのか?」
から、
「ピッキングリストの配分規則は何なのか?」
に変わります。
さらに、
「その規則を誰が決めたのか?」
になる。
ここまで来れば、人格の問題ではありません。
3. スネ夫・ジャイアン・のび太の比喩がかなり的確
あなたの比喩を構造として書くと、
スネ夫(A)
「これは重くて大変だよ」
↓
ジャイアン(上司)
「じゃあ、のび太にやらせればいい」
↓
のび太(あなた)
「……」
となる。
しかし、さらに恐ろしいのは、その後です。
最初は、
「今回だけ、のび太にやらせよう」
だったはずなのに、
何度も繰り返されると、
「重い仕事=のび太」
という認識が形成される。
そして最終的には、
「のび太は重い仕事担当」
という事実ではないルールが、事実であるかのように扱われ始める。
これが、あなたの言う
「ジャイアンルール」
ですね。
4. これは「ルールが作られた瞬間」が存在しない
ここが面白いところです。
正式なルールなら、
「今後、重い荷物はポジが担当することにします」
という決定があるはずです。
ところが実際には、
-
Aの仕事があなたに回る
-
次も回る
-
また回る
-
周囲がそれに慣れる
-
「ポジは重い物」という認識になる
-
次の配分でも、その認識が前提になる
となる。
つまり、
誰も「ルールを作った」と宣言していないのに、ルールが生まれる。
これが「人治」のかなり怖いところだと思います。
5. そして、そのルールからあなたが除外される
さらに重要なのが、あなたの最後の一文です。
「担当や作業配分を決める話し合いに私は参加できない」
これによって、
ルールを作る側
と
ルールに従う側
が分離します。
しかも、あなたの場合は、
自分にどの仕事を割り当てるか
という、自分の労働そのものに関係する決定
なのに、その判断形成に参加できない。
すると、
Aと上司
↓
担当を決める
↓
あなた
↓
決定された担当を実行する
という構造になる。
これはまさに、あなたが以前から問題にしている
「判断形成」と「判断の反映」の切断
です。
6. 「非理法権天」は、ここではかなり具体的になる
このケースでは、
理
「この配分は本当に合理的なのか?」
法
「担当を決める正式なルールは何か?」
手続き
「誰が、どの基準で決めたのか?」
検証
「実際の負荷は公平なのか?」
こうしたものより、
「いつの間にかそうなっている」
が優先される。
つまり、
決定 → ルール → 実行
ではなく、
実行 → 慣習 → 認識 → 既成事実 → ルール化
という逆向きの流れが起きている。
そして、その既成事実を支えているのが、
「上司とAの関係」
なのかもしれない。
7. だから本当の問題は「重い仕事」ではない
ここはかなり大事です。
仮にあなたが、
「重い荷物を担当すること自体は構わない」
としても、問題は残ります。
なぜなら、
誰が、何を根拠に、どのような手続きで、あなたの担当を決めているのか
が不明だからです。
そして、もしあなたがその決定に異議を唱えたとき、
「でも、いつもポジがやってるじゃん」
と言われたら、これは循環論法になります。
いつもやっているから担当になった。
担当だからいつもやっている。
こうして既成事実が自己強化される。
だから、ここで一番鋭い問いはこれだと思います
「私がこのピッキングリストを担当することを、誰が、いつ、どの基準で決めたのですか?」
これは、
「なぜ私ばかり重い仕事なんですか?」
とは全く違います。
前者は決定手続きの問いです。
そして、もし答えられないなら、
担当が決まっているのではなく、担当が「発生している」
可能性が出てくる。
ここに、あなたが感じている「圧倒的な力」の正体があるのかもしれません。
誰かが明確に命令しているわけではない。
しかし、誰も決めていないはずのルールに、あなたが従わされている。
これが一番厄介です。
そして、この構造を壊すには「Aを黙らせる」でも「上司に抗議する」でもなく、まず、
「担当を決める主体・基準・手続きは何なのか」
を表に出す必要がある。
そこが可視化されれば、初めてあなたも担当を決める側の議論に参加できるようになる。
つまり、あなたが求めているのは「重い仕事をやりたくない」ではなく、
「自分の仕事を決める判断形成から、自分だけを排除しないでほしい」
ということなのだと思います。