聖地を守ること | 天下泰平

天下泰平

〜 滝沢泰平 公式ブログ 〜

20

「御嶽(うたき)」とは、沖縄特有の神が降り立つ聖地とされる場所。

祭祀や祈りごとの風習が色濃く残っている沖縄諸島では、本島をはじめ、各島々に今でも多種多様の御嶽が点在しており、地元地域民をはじめ、ノロ(祝女)ツカサ(司)と呼ばれるシャーマンの人々がその地で祈り、長年に渡って大切に守り続けてきました。

ところが近代となって交通の便も整い、それまで外部の人間が訪れることもなかった小さな島々までも観光客が訪れるようにもなり、それに加わって最近のパワースポットブームが拍車をかけ、地元の人達が大切にしていた聖地と呼ばれる地も多くの人々が訪れ、荒らされるようにもなってきたようです。

「立入禁止」という看板を掲げていても、「自分は神など信じない」と言って無視して平気で聖地へと踏みにじる観光客もいれば、中には「私はここの神様へ呼ばれている」と言ってズカズカ入ってしまう人もいたり、現地の人は「これだから余所者(よそもの)は・・・」と思って外部の人に心を閉ざしてしまうそうです。

そうすると、純真な想いで祈りに来ている人にも警戒するようになったり、本来入れた場所も入れなくなったりと、一部の人々のモラルの低下やマナー違反によって多くの人々にも悪影響を及ぼすこともあるようですが、ただ聖地にとっては、不特定多数の人は訪れない方が双方のためにもなるので、この流れもまた仕方がないことかもしれません。

「では、聖地は人間が誰も訪れずに自然のまま放置しておいた方が良いのか?」

といえば、必ずしもそういった訳ではなく、古代の人がその地を「神が降りる場所、神が存在する場所」として大切にしていたのは意味があってのことであり、おそらくはその地が放つ磁場や周波数のようなものを維持することが、その土地や人々を守ること、ひいては、この世界全体の自然環境や文明のバランスをとることにも関係しているのだと思います。

「人間も自然の一部」と考えれば、人が手を加えることで聖地の働き(システム)が活性化され、その場の周波数やその場所から繋がる周波数帯へアクセスし、地球や宇宙全体に影響を及ぼすことは可能性としては十分にあることだと思います。

だからといって、誰でも気軽に訪れる方が良いという訳ではなく、やはり大切なのは、その地を訪れる人の想いや意識であり、ただ神にすがりたい、願いを叶えて欲しいとエゴの気持ちで聖地を訪れても何の意味もなく、むしろ荒れていくこともあり、古代の人々のような純真な想いで祈りを捧げることが大切になると思います。

「やはり聖地は現地の人、現地のシャーマンの人々に任せておくのが一番・・・」

最初はそう思っていたのですが、沖縄各地を訪れて思ったのは、どうも100%そうとは限らない一面があることであり、むしろ現代のノロやツカサと呼ばれるシャーマンの人たちは、時代の流れとともに自分達の本来の役割を忘れてしまい、祭祀にしても形式的になってしまっている人もいるようです。

「代々シャーマンの家系だから・・・」と言って、年間に1度や数回しかない祭祀を取り仕切るものの、ほとんどがどこの地方にもある地域祭りと変わらず、単なる行事的なものとなってしまうケースが増えているようです。

こういった場所は、継承者とは別に意識ある個人の地元民が、人知れずして陰で聖地を守っていたり、聖地を守ろうと意識と能力を持った外部の人が聖地に“本当に”呼ばれて調整している場合もあったり、様々なパターンでなんとか今も守られています。

こういった形式的なシャーマンの行事的な祭祀で許されている地域もあれば、反対に本格的すぎるシャーマンと厳格な祭祀が今も継続されている地域も多々あり、そちらはそちらで、また別の問題も抱えているようです。

これまた、どこの地方にもある家業や農業と同じで“継承者不足”であり、シャーマンの担い手がいないことで聖地を守る人がいなくなっているようです。

これが単なる少子高齢化だけの問題だけでなく、本来継承される若者が現地を離れる理由の本質は「厳しすぎるルール」であり、今でもシャーマンの役割を担う人には、古代から伝わる厳格な「神との約束(ルール)」が適応されることが多々あるようです。

自発的に手を挙げるものではなく、占いのようなもので任命された継承者は、それから強制的に何年も島から一歩も出れずに修行が始まったり、様々なルールによって縛られ、徹底的に神のために尽くして身を捧げる人生となります。

「それが村のしきたりで当たり前のこと」と思っていた時代は古く、今は情報社会となって小さな島国でも世界中の情報がインターネットで集められる時代であり、若者の価値観も多様となってまともに古来からの風習を受け継ぐ人もいなくなっているようです。

こうして若者が島を離れ、継承者がいなくなった地域では伝統的な祭祀もやれなくなり、日々誰も聖地を管理することもなく忘れ去られた聖地も増えているようです。

古代から伝わる伝統や聖地を守ることはもちろん大切なことであり、祈りの風習が途絶えてしまうのは、その地域にとっても日本や世界にとっても残念なことです。

ただ、確かに厳しすぎる「神との約束」は、本当に今の時代にまで必要なのかどうかは難しいところです。

沖縄に来て感じたことは、やはり「古代イスラエル」との繋がりであり、こういった祭祀1つにしても、まったく古代のユダヤ人達と同じ道を歩んでいるのだと思いました。

最初はモーゼの十戒に始まり、自然を守ること、砂漠を緑地化することなどが地球人と神との「10個の約束(戒律)」であったのが、人が勝手に神との約束、信仰のルールを増やしてしまい、やがては600個以上も戒律に増えてしまったユダヤ教。

沖縄に伝わる伝統的な信仰も、原点の原点はもっとシンプルな教えであり、祭祀も厳格ではなかったのかもしれません。

伝言ゲームのような伝承ゲームとなって、1つだったルールが次の代には2つになり、3つになり、やがて何世代も受け継がれていく中で数多くのルールが増えて神の教えがいつの間にか人の教えにすり替わっていたのかもしれません。

厳しいルールを定めて余計な人は誰も聖地へ近づけないのも大切ですが、厳しすぎるルールによって、本来は最低限やらなければならない神との約束までもが誰もやれなくなってしまうのも本末転倒。

2000年前、こんな人間の勝手に作ったルールに縛られ、本来の神との約束と地球人としての役割を忘れてしまっては元も子もないと騒いで、神に背く反逆者として磔にされたイエス・キリストと呼ばれたユダヤ人。

彼の生涯の奇跡が信仰となり、この2000年の「新たな神との約束=新約聖書」として現代まで世界の中心の宗教となってきましたが、これから先は新たな神との約束の時代。

信仰も聖地も、今までとは違った形で残り、大きく変化していくことになると思います。

ちなみに、イエス・キリストは磔では死なず、その後に日本を目指した途中、長く滞在していた島が宮古島であったようです。

29

05

小さな島に御嶽が500箇所以上も存在する宮古島には、観光情報にもインターネットのパワースポット情報にも、また地元の人もほとんど知らない本当の聖地が数多く存在しています。

51

33

そのほとんどが、簡単には行けない岩壁の下の洞窟や干潮時にしか行けない海辺の洞窟となっています。

そこは今でも意識ある一部の方々に守られ、聖地としての本来の機能を発動しています。

38

まるで小さな赤ちゃんを抱えた聖母像のような白く光る岩もありました。

沖縄、宮古島を訪れて、これからの時代に聖地を守ること、祈りや信仰についてを深く考えさせられた気がします。