第二回「河口湖自然耕塾」 | 天下泰平

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〜 滝沢泰平 公式ブログ 〜

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※塾長は富士河口湖農園の平田さん

 天気にも恵まれた昨日、ここ河口湖において第二回目となる「河口湖自然耕塾」が開催されました。前回は、種の選別をしましたが、今回は種まきの実習でした。

細かいことを伝えたいのですが、今から種まきの続きをやるのと、午後から夜中まで外出なので、今回は写真で雰囲気だけでもお伝えできればと思います。

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※みんなで土づくり

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※こういった種を入れやすいバージョンもいくつかチャレンジ

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※本日は100枚ほど作成

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※種は一枚につき80gまく

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※最後に水を一枚につき1.2リットルほどあげる

 ちなみに「河口湖自然耕塾」の農法のベースは、新潟県にいる戸邊秀治さんという方の農法がベースとなっています。戸邊さんは、機械を一切使わずに1町もの田んぼをすべて手作業の無農薬・無化学肥料で手がけています。何よりも、その功績が認められて戸邊さんのお米は日本一高い価格がついたことでも有名です。

今度、塾では戸邊さんを講師としてお招きするだけでなく、6月には戸邊さんの家に泊まり込みで実習研修があります。日本一のお米を作る戸邊さんについては、またその実習を通して詳細をお伝えできればと思いますが、以下にプロのライターが書いた戸邊さんの人生物語がネット上にあったので転載しておきます。

サラリーマンが脱サラして、そして日本一高価なお米を生産するに至るまでのお話ですが、これは、これから先に多くの人々が農業へと仕事や生活の基盤をシフトしていく中でとても参考になるかと思います。ちょっと長いですが、農業に少しでも興味のある方は、是非ともご一読下さい。(内容は短く編集してありますので、全文見た方はリンク先へどうぞ)

特に石油が手に入らなくなったら、現代の農業は化学肥料から農機まですべて使えなくなるので完全に崩壊します。石油資源は確実に次の時代では主流のエネルギーにはならないので、どこかで「石油に依存しない農業」の時期が一定期間訪れることが予想されます。その意味でも、この戸邊さんの農法は、新しいエネルギー資源が登場するまでの日本、そして世界の農業において必要不可欠な農法なので、今の段階で日本中に普及させておく必要があると思います。

地方再生物語
異端が作った日本一高価なコシヒカリ
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 東京・渋谷の東急百貨店本店、地下食品売り場の米売り場、「米よし」の店頭にその米は売られて いる。2 坪の店舗に並ぶ 10 産地の銘柄米のなかで最も値段が高く、5 キロ 1 万 4700 円。2006(平成 18)年度産の小売米としてはおそらく日本一高い米。米櫃に立て掛けられた細長い白木の板には、「十日町市 松之山 戸邊秀治作」と墨書され、2 行目には「無農薬、無肥料、天日干し」と謳ってある。

脱サラ後、米づくり
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 その米を作った戸邊秀治さんは 1952(昭和 27)年 1 月生まれの 55 歳。東京理科大学を卒業後、 関東自動車工業に勤務、30 歳で脱サラ、自給自足的生活を実践してきた。福島県耶麻郡旧山都町をはじめ、茨城などで田舎暮らしを続け、 2002(平成 14)年、新潟県十日町市松之山に田畑付きの家を 350 万円で手に入れた。自然農法 でコシヒカリを作り、自給自足にちかい生活をしている。家族は 7 人。プロ棋士になった 21 歳の長男と次男は自立して東京に暮らし、現在は、 三男、四男、末っ子の長女と 5 人。ごくふつうのサラリーマン家庭に育った奥さんの聖子さんは 43歳になる。

目利きが太鼓判を押す「奥深い米」
 戸邊さんが耕作する田は 7 反余り(約 6942 平方メートル)。田植えも草取りも、もちろん稲刈りも、 すべて人力。いわゆる自然農法。農薬、化学肥料は一切使わない。田に機械を入れない。田んぼには常時、水が張られ水生昆虫が泳ぎまわっている。ドジョウ、カエル、ゲンゴロウ、タニシ、トビゲラ の類が、土の正常を物語っている。
「こんな奥深い米に出合ったのは初めて」と、「米よし」を経営する北川大介さんは絶賛する。昨年 10 月、取引を始めるにあたって戸邊さんの田を検分。米づくりの理念も、じっくり聞いた。 「米には絶好の環境でした。ここで作られる米なら、この値段で売れる、と確信しました」
おいしい米を探して全国行脚を続ける目利きの言葉にはゆるぎがなかった。
「うまい米が食べたい」
素朴な願望から始まった戸邊さんの米づくり。どうしたら安心して美味しい米が食べられるのか。 「それは、戦前まで先人がやっていたことだった」と話す言葉には余計な力はこもらない。百姓というように、米づくりには百の手間がかかるという。きわめて重労働。「いや、“楽農” を体が覚えたから きつい労働なんです」
機械化、農薬散布、化学肥料の投入、それらは安全でおいしい米づくりから離れることだったと話す。さらに、戸邊さんには、機械で燃料を使うことや化学肥料、農薬を使うことが地球環境を汚 している、という自覚がある。そして近い将来の農業環境を見据えてもいる。
「石油がこのまま高騰しつづけ、米の生産コストはますます上がっていきます、機械(石油)に頼った農業はやがて立ち行かなくなるでしょう。今のうちに人力でできることを覚えていくべきです」

「いつまで続くか見もの」から“戸邊参り”へと変化
 縁も所縁もなかった松之山に暮らし始めて 6 年目。戸邊さんには自分のやり方を広めたい、との願いがある。しかし、戦後の農業に慣れた地元の人には異端視されてきた。同じ地区で代々、米づくりをしてきた小見重義さん(58 歳)は、「自分も昭和 30 年代までは、ひたすら体を使った米づくりを手伝わされてきたけど、今から昔に帰ることは不可能です」と戸邊さんのやり方には否定的。ほかにも否定的な意見はたくさんある。
「引き返して再スタートするには年をとりすぎた」「そうとう変わった人、真似する気になれない」「いつまで続くか見もの」「戸邊さんの体力だからやれること」「昔のように大家族農家なら、やれないこともないかもしれないが...」
ところが昨年秋、1 俵 17 万 7000 円という「米よし」の評価額が知れ渡り、米づくり農家が揺れた。 「魚沼コシヒカリ」の1等米でさえ1俵2万 5000円。自分たちが作る「日本一」の米の7倍以上のコシヒカリとはどんな米なのか、戸邊さんへの関心が変わってきた。「田んぼを見ずにおられない」という戸邊参りの人まで出てきた。
松之山 35 集落のうち半数は限界集落といわれる。共同体として社会的機能を失いつつある地域に、ささやかながら、戸邊さんという光明が射してきた。

エリート社員はなぜ、自給自足を選んだか
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 それにしても戸邊さんは、なぜ、と思わないではおれない。東京理科大学を卒業し関東自動車工業という大企業に就職、やがて花形に躍り出るといわれた電算課に配属されながら、30 歳 という若さで自給自足の道へ踏み込んだ、そのわけが知りたい。なぜ機械も農薬も使わず人力だけで米を作るという前時代的な農業を実践するようになったのか。悟りを開くにも厭世観を持 つにも早すぎる年齢ではないのか。何か大きなきっかけがあったに違いないと予感されて、おそるおそる質問を投げかけてみた。
戸邊さんは大きく息を吸うと抑揚のない言葉で、「母親が自ら命を絶ったんです」と小声で語った。 その語尾を払うように席を立ち、棚から 1 枚のモノクローム写真を取り出した。
「母です」という。肖像写真は戸邊さんによく似ている。
「父は鉄工所を経営していました。鉄鋼不況で借金がかさんだこと、挙句に、将来は長男と一緒に住もうと購入した土地を取り上げられる始末で、将来の希望を見失ったんでしょうね、それに鬱の持病と父への不信感も大きかったと思います。発作的な自殺でしたね、58 歳でした」
鉄鋼の需要がピークアウトし、「鉄冷え」といわれた 1982(昭和 57)年の出来事だった。
母親が更年期特有の鬱病を発症したのは戸邊さんが大学 3 年(20 歳)のときだったという。亡くなるまでのおよそ10年間、戸邊さんは母親の看病をした。 会社に勤めるようになってからは、定時の 5 時に職場を出てスーパーに立ち寄り夕食の買い物をして帰宅した。不平や不満を抱くこともなく、 当たり前に家族の料理を作った。
「父親が優柔不断で、不甲斐ないところがあったり借金をしたりしたものですから、母は駄菓子屋を始めて子育てしたんです。大学を卒業して関東自動車工業という会社に就職したのは、横須賀の実家から歩いて通勤ができたからです。母の看病が大事でしたから他の企業は念頭になかった」
当時は会社と家を往復するだけの日々だった。「お金は使わないから給料がそのまま貯まりました」という若い日の戸邊さんが、唯一楽しみを見出したことがあった。会社の将棋クラブに入り、母親の気分が良いときは仕事が終わって一局打つのが何よりうれしかったと振り返る。それから野球部にも入部したという。そうした行動には、職場での生活を円滑に、楽しくやっていきたいという気持ちが働いていたことが伺える。しかし、仲の良い友人を作るまでには至らなかった。
「仕事にも疑問を持ち始めていました。自分が作る車で毎年 1 万人以上の人が事故死するわけです。公害の原因も作っている。かといって、仕事を辞めることで事故がなくなるわけではない、でも、 何か行動を起こしたい、と悩ましい時期が長くあったのです。そんなときに母が命を絶った」
戸邊さんは母親の死後、およそ 1 年間、鬱状態に陥った。自分はなぜ母親を助けることができなかったのか、苦しんだ。
「今後なにをやっていけば母に報いることができるのか、母親との結びつきが大きかったのでし ょうね、心にポッカリ穴が開いたみたいになって」

母が遺した献身の心を抱きしめて生きる
 精神の暗がりをさまよった挙句に、一つの回答を求めて市民活動に身をおくようになる。横須賀に入港した米原子力潜水艦に向かって「帰れ」とシュプレヒコールを叫んだ。
「困っている人の力になりたい」と「援農(助けが必要な農家に労働力を提供するボランティア)」にも参加。出かけていく先々の農家には「母のようなお年よりが援助を待っていてくれた」。31 歳の戸邊さんは、がむしゃらに体を動かしながら母親に報いる方策について手探りを続けた。山形県長井市の有機農園に泊り込み、本格的な農業体験をする。
「そこでは初めて、体ごと自然の摂理に触れたような気がしました。長井で出会った人たちの素朴で温かな人情にも接して癒されましたし、農業のすばらしさや奥の深さも理解するようになりました」
それから 4 年間、有機農園への春と秋の農繁期の手伝いを欠かさなかった。そうした体験をするう ちに「自分が食べるものだけでも自給したい」との思いが膨らんでいった。

長男誕生が暮らしの指針を示してくれた
 体力には自信があった。中学校では野球部、高校時代はレスリング部で活躍した。インターハイ に出場するほどの選手で、体は鍛え抜かれていた。ボランティアは時にきつい仕事もあったが、「いつでもきちんとこなした」という。その自己評価については、現在の戸邊さんの仕事ぶりを見ていれば容易に想像がつく。
会社を辞めてから 3 年後の 1985(昭和 60)年、宅配便のアルバイト先で知り合った聖子さんと結婚。 戸邊さん 34 歳、聖子さん 21 歳。翌年 8 月、もう一つの答えともいうべき長男が誕生した。
聖子さんが当時を語る。
「彼がやっていることや社会に感じていることなど、何も解らなくて、始めは黙って“援農”に付いていきました。知らないことはよく説明してくれるし、できないことは見本を見せてくれたんです。子ども が生まれたことで、お母さんのこと、悔いるばかりではなく、ずいぶん前向きに考えるようになったん です」
戸邊さんが松之山に暮し始めたのは 2002(平成 14)年 4 月。新生活が落ち着いた 8 月には横須賀で孤独に暮らしていた父親を迎えている。
「妻は親身になって面倒を見てくれました、子どもたちとは大の仲良しになって、よく遊んでいました」
87 歳で亡くなったという父親は「とても幸せな晩年を過ごし た」と気持ちの上で決済をつけている。
「父が亡くなる前に話してくれたことなんですが、自分は死んだ妻のような母親の元に生まれたかった、と言うんです。 それから、どんな形であれ、生きていてほしかったって...」
父親もまた妻の死に対して悔恨を抱き続けてきたことを知った。戸邊さんがずっと心に閉ざしてきた父へのわだかまりが消えた瞬間だった。

限界集落の豊かなコメ農家
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 戸邊さんの生活の理想を聞いてみた。生産米で 200 万円の収入が目標という。
「家族 4 人が米作りをしながら、この松之山でじゅうぶん安定した暮らしが営める金額なんです。これには家族全員で仕事を持つことと、習い事や塾など子供に金をかけないという前提があります」
米需要の減少と増加する過剰米が、ますます米価を下落させるなか、戸邊家の経済状態は、意外にも、豊かささえ感じさせる内容だった。そこで、今年収穫された 40 俵について、理想生活に、どう配分するのか、併せて、戸邊家の台所事情も明かしてもらうことにしよう。

理想の年収 200 万円を米作りでどう稼ぎ出すか
 大前提は 1 俵(60 キロ)6 万円で 25 俵を売ること。150 万円になる。冬場の仕事として、餅米 5 俵で 自家製餅を製造、50万円を稼ぐ。残りの10俵は自家用だ。この皮算用が実現するためには、何よりも“戸邊米”に対する消費者の理解が欠かせない。田んぼに機械を入れず、ひたすら人力によっ て、不耕起、無肥料、無農薬、天日干しで作られた、安全でうまい商品であることを分かってもらわなくてはならない。
確かに、1 キロ当たり 1000 円という米は、一般消費者からすれば高い。しかし、「安心でおいしい 米」なら高価でも買われるという評価は、すでにデパートの米売り場で実証済みである。しかもそこでは 1 キロ 2800 円という、日本一高い米にもかかわらず、よく売れている。
余談ながら、世の中には富裕な人が、想像する以上に存在するのだ。筆者の当連載の原稿料では、相変わらず農薬の不安を打ち消しながら安い米を食べるしかないが、近ごろ、ニューリッチなどと形容される経済観念のしっかりした金持ち層は、お金をどう使えば心地良いのか、考えたうえでしか財布を開かないと聞く。
「米よし」の経営者、北川大介さんは「そうした人たちからも、 戸邊さんの正直な米が支持されたのでは」と分析している。

家族のために作った“当たり前”の食べ物に高値が付いた
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 ただ、戸邊さんは、高い米を作るために、あるいは、付加価値を高めようと企図して、この農法を選んだわけではない。 食と農、自らに課した命題を深めるために、自給自足の道を選んだという経緯がある。たまたま高い値段が付いたといっ たほうが的を射ているだろう。
「家族が毎日食べて、健康に害が及ばず、むしろ滋養になり、それでいておいしい、という、当たり前の食べ物を作ろうと決意したんです」
この根本的な考え方が、けっきょく消費者の求めと合致したということだ。戸邊さんが作る米は、結果的に、いま最も求められる、安全・安心に偽りが無く、おいしさを味わうことのできる米だったという ことになる。
戸邊さんは、家族の健康に留意する米作りを何よりも優先させたうえで、次の段階として、どうすれば手塩にかけた米が生産者に割の合う価格で売れるのか、この一点に懸けて商品を作ってきたといえる。農薬が開発される以前の米作りを実践する、という、実にシンプルな方法で、強い競争力を備えた米を産んだのだ。
政府が奨励する大規模なコメ作りでは、機械を使わず、無農薬で化学肥料を使用しない戸邊方式を採用するのは不可能にちかい。しかし、角度を変えてみれば、モンスーン気候の荒々しい日本の風土の中では、小規模、零細型の米作りが適しているということを、戸邊さんは実証したといえるのではないだろうか。
さて、40 俵の米をどのように売れば、理想生活をするための 200 万円が得られるのか――。
すっかり収穫作業が終わった 11 月半ば、戸邊家の座敷に米俵が積み上げられて、ようやく、今年の生産米から得られる収入の見込みが分かってきた。
今年は 12 俵のコシヒカリと、3 俵分の餅を「米よし」に出荷する契約を結んだ。出荷価格は明らかにしてもらえなかったが、100 万円を超える収入になりそうだという。「米よし」の北川さんがその値段についてこう話した。
「価格は戸邊さんに考えてもらいました。かかる経費や人力の手間など、きちんと算出して、戸邊さん自身で決めてください、と申し上げました。戸邊さんの言い値で決めたんです」

後継ぎのために高く売ることは義務だと考えた
 売り値について戸邊さんは、自分の後継ぎのことを重視した。米作りが魅力的な職業であることを、後を引き受ける者に示す義務があると考えたという。また、自分と同じように米作りをし、直販に活路を求める人の、良い前例となることも考慮した。
収入はさらに、この暮れから始める手作り餅から 50 万円が見込まれる。友人や知人に販売する 1 俵 6 万円の米を合わせると、200 万円を超過する。
生産米による収入のほか、アルバイト収入がある。豪雪地の松之山では冬の間、一人暮らしのお年寄りに「老人憩いの家・松寿荘」という施設で集団生活してもらっている。ここで泊まり番のアルバ イトをするのだ。1 日 4500 円になる。それから「松之山郷民俗資料館」でも自給 750 円ほどのアルバ イトをしていて、月額 7 万~8 万円の収入になる。さらに雪掘り(松之山では雪下ろしといわない)の仕事があり、すべて合わせると 70 万円ほどになる。
収入は別のところからもある。補助金である。中山間地の直接支払い制度というのがあって、戸邊家には年間 10 万円ほどが入る。一昨年まではもっと多い額だったが、制度の運用方法が変わって半分ほどになったらしい。それから、児童手当が年 24 万円ほど支給されるから、子どもの教育費はかからない。
毎月の光熱費などの支出は平均からみれば相当安い。ガス・石油はすべて薪で賄われるからゼロ。テーブルの上の 2 つの煮炊き用七輪と掘り炬燵の暖房用七輪には、ストーブから出る炭が利用される。水道代が 1500 円。電気代 3000 円程度。電話代 1 万円前後。ガソリン代 2 万円。
米作りは人力のため、多くの米農家が苦しんでいる「機械ビンボー」も無縁。健康には特に留意するため保険の類は一切加入していない。
「意外と収入が多いでしょ」
と戸邊さんが笑う。まったく驚いた。

脱サラから 25 年、成功への道程
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 自給自足を目指し、独り身の 30 歳で脱サラして以来、前回詳述したように、賛同者の来訪までにかかった年数は 25 年。
その間、まるで流離を余儀なくされた民のように、各地を転々とする。田舎暮らしを始めた若い日には、厳格な玄米食で家族全員が体を壊し、何年もの間、体調回復に努めることになる。ようやく 6年前、天の水をいただく越後松之山郷という棚田の里へたどり着いた時、戸邊秀治さんは 50 歳、5 人の子どもの親になっていた。

農業が国の基本と考える姿に賛同
 人力で米作りをするのは厭世観に支配された世捨て人を標榜するわけではなく、また、望外の価値を付与するためでもない。やがて直面すると予想する食料不足に背中を押されているに過ぎな い。
コンバインもトラクターも使わないのも、おっつけ、ガソリンが入手困難に陥ると予測しているためだ。田んぼの土を耕さない、という、弥生時代以来の米作りに反するような農法を採ったのにも理由がある。耕せば土中のメタンガスが大気中に放出され温暖化の原因になると考える。
こうした考えに基づいた米作りを実行するため に、肉体や精神の支払う代償をものともしない。 どこから見てもカタブツとしか見えない“戸邊秀 治の生き方”である。賛同する人たちに問えば、 彼の考えが、個人の受益だけにとどまらず、黒倉という在所の活性と、松之山という行政区の再生を念じながら、「農業が国の基本」とする大局への視点に惹かれているからにほかならないと答える。
時折、ぼそっ、と戸邊さんの口から発せられる、呟きのような、独り言のような言葉を拾う中に、「う ちの田んぼでは生き物が世代交代をします」と言った言葉がある。戸邊さんは、農政や環境、エネ ルギー問題など、とにかく勉強を怠らない人だ。この呟きは、新しい農基法(「食料・農業・農村基本 法」) の第 1 章・第 4 条を筆者に教えるためだったと後に気づいた。

年々、田んぼの雑草が少なくなっていく
 「農業の自然循環機能(農業生産活動が自然界における生物を介在する物質の循環に依存し、 かつ、これを促進する機能をいう)が維持増進されることにより、その持続的な発展が図られなければならない」
また一方では、農業が自然と都市をつなぐ回廊であるとする、環境基本法についても独自の考えを、やはり、ぼそっ、と呟くことがあった。「農薬を使わないのはここが最上流部だから」と言い、「環境問題と農業が抱える問題は根を同じくしている」とも言うのだ。確かに、これからの農業は、完全無農薬を目指すなど、環境保全型でなければ生き残れないだろう。
米作りの最大の難関は除草にあると言われる。松之山郷の年寄りたちは、「あの草取りさえなければ、戸邊さんのやり方は金もかからんで、ええんやが」と言うくらい厄介なことらしい。それが、戸邊さんの田んぼでは「年々、雑草が少なくなっていく」という。
「様々なことを試しながら、少しずつ前進しているところです。最大の目標は、草取りが楽になる農法です。それから、ぼくのような無農薬、人力の農法をやる人が全国に点在してくれることを切望しているんです。米作りは農薬を使わなくても、そして人力でも作ることが可能ということを広めていれば、国の食料が緊急の事態に陥った時も慌てずに済みますよね。もちろん、環境にも負荷がかかり ません」(転載終了)