横暴な夫に従う古風な姉と二人に反発する勝気な妹 「宗方姉妹」を観て | パンクフロイドのブログ

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こうのすシネマ

午前十時の映画祭 より

 

製作:新東宝

監督:小津安二郎

脚本:野田高悟 小津安二郎

原作:大沸次郎

撮影:小原譲治

美術:下河原友雄

音楽:斎藤一郎

出演:田中絹代 高峰秀子 上原謙 高杉早苗 笠智衆 山村聰 堀雄二 河村黎吉

1950年8月8日公開

 

保守的な節子(田中絹代)は、自由奔放な妹の満里子(高峰秀子)と同じ屋根の下に暮らしています。節子の夫・亮助(山村聰)が失業中のため、彼女はバーを経営しながら糊口を凌いでいます。満里子にはそんな姉が夫に唯々諾々と従っていることに理解を示せません。そんな折、節子は京都にいる父・忠親(笠智衆)が余命いくばくもないと知り、妹にはそのことを伏せて二人で京都に赴きます。そこで節子はかつての恋人であり、今は家具店を営んでいる田代(上原謙)と再会します。

 

後日、満里子は神戸にある田代の店を訪れ、そこで彼の優雅な独身生活を目にします。その頃、節子のバーが売りに出されそうになり、彼女は金の工面に腐心します。一方、満里子は神戸の店で知り合った頼子(高杉早苗)が、田代の東京の宿泊先に電話してきた際に、頼子が田代を箱根に呼び出そうとしていることに気づき邪魔をします。そして、姉と結ばれるならばまだしも、頼子如きに奪われるくらいならば自分が結婚すると田代に迫り、彼に嗜められます。やがて、三村は妻が店を維持するため、田代から金を借りたことを知り、二人の仲を疑い思わず節子を平手打ちしてしまいます・・・。

 

高峰秀子は「二十四の瞳」の大石先生や、「乱れる」の人妻役に代表される柔和な女性を演じる一方で、性格のキツい女性を演じる事も多く、エッセイや対談集における歯に衣着せぬ発言などから怖いイメージを持つこともあります。この映画ではそのことに付け加え、底意地の悪さすら感じさせる役柄になっています。反りが合わない義兄に反発するのは勿論、義兄の可愛がっている飼い猫にまで八つ当たりし、恋敵?の未亡人への失礼な物言いと振る舞いは度を越しているとしか思えません。更に姉の想い人である田代にも結婚を迫るなど、可愛らしい小悪魔と言うより傍迷惑な女に感じられます。

 

そんな彼女が毛嫌いするのは姉の夫である三村。三村を演じる山村聰は時折悪役を演じることもありますが、本作ではかなりダメンズ寄りの敵役。働き口がないことを理由に、女房にはバーを経営させながら、自身は昼間から酒を飲みブラブラしています。女房に引け目を感じ小さくしているならば可愛げもありますが、横柄な態度をとるので満里子ならずともカチンときます。しかも、店を維持するために、田代から金を都合してもらった節子に対して、4、5発ほど平手打ちを食らわせるに至っては弁明のしようもありません。また、節子や義父の忠親が小言も言わず寛容な対応をするため、益々付け上がらせる結果になります。本作はしばしば退屈になりそうなところを、高峰秀子と山村聰による嫌われ芝居で辛うじて最後まで見届けようと言う気になります。

 

相思相愛でありながら、節子と結ばれなかった田代も、自分の意志を貫くのではなく、流れに身を任せる態度が、観客にもどかしさを感じさせています。優柔不断の二枚目のイメージがある上原謙にはうってつけの役で、誰にでもいい顔をしようとするのが、却って災いを招いています。ある意味、節子の不幸は田代の優柔不断さに元凶があると思えてきます。

 

本来、田中絹代が主役の筈の映画なのに意外と影が薄いのは、奔放な妹役の高峰峰子の存在感が強すぎるのに加え、夫にどんなに酷い仕打ちを受けても耐える妻という役どころが、ややステレオタイプな点があるからかもしれません。それでも、姉の考えが古いと指摘する妹に対し、満里子が新しいと思うものは流行に乗っているに過ぎないと切り返し、三村が節子の日記を読んで以来様子が変わったことを示した満里子に対し、あんたも日記を読んだでしょうとツッコミを入れるところは面白かったです。姉妹の父親役の笠智衆は、癌で半年の命という設定ながら、あまり娘たちの物語に関わってこなく、蚊帳の外に置かれていたのは、些か気の毒でした。

 

家族ドラマ、恋愛ドラマとしては、甚だ物足りない映画でしたが、高峰秀子と山村聰による程よい嫌われ具合や、上原謙の演じる独身男の優柔不断さは、場面によっては目を奪われることもあり、物語を活性化させていました。また、4Kで映し出される京都・奈良の古い建造物の映像は資料的価値があり、敗戦から5年経った東京や神戸の街並みが映ると、ここまで復興したのかと思い、先人の努力に感慨を覚えます。そして、日本の伝統や文化を守ろうとする姉と、それらを否定しようとする妹の姿から、古き良きものを否定することによって、何事も新しいものを貪欲に取り入れようとする日本社会への小津安二郎の秘かな哀しみも伝わってきました。