無関心が凡庸な悪を呼び込む「関心領域」を観て | パンクフロイドのブログ

パンクフロイドのブログ

私たちは何度でも立ち上がってきた。
ともに苦難を乗り越えよう!

関心領域 公式サイト

 

Filmarksより

空は青く、誰もが笑顔で、子供たちの楽しげな声が聴こえてくる。そして、窓から見える壁の向こうでは大きな建物から黒い煙があがっている。時は 1945 年、アウシュビッツ収容所の所長ルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)とその妻ヘートヴィヒ(ザンドラ・ヒュラー)ら家族は、収容所の隣で幸せに暮らしていた。スクリーンに映し出されるのは、どこにでもある穏やかな日常。しかし、壁ひとつ隔てたアウシュビッツ収容所の存在が、音、建物からあがる煙、家族の交わす何気ない会話や視線、そして気配から着実に伝わってくる。壁を隔てたふたつの世界にどんな違いがあるのか?平和に暮らす家族と彼らにはどんな違いがあるのか?そして、あなたと彼らとの違いは? 

 

製作:アメリカ イギリス ポーランド

監督・脚本:ジョナサン・グレイザー

原作:マーティン・エイミス

撮影:ウカシュ・ジャル

美術:クリス・オッディ

音楽:ミカ・レヴィ

出演:クリスティアン・フリーデル ザンドラ・ヒュラー

        ラルフ・ハーフォース マックス・ベック

2024年5月24日公開

 

本作は主にユダヤ人強制収容所と隣り合わせで暮らしているルドルフ・ヘス一家の様子が描かれています。予備知識を与えられていなければ、単にドイツ人の家族の日常が淡々と描かれているに過ぎないように見えるかもしれません。それでも徐々に一家に普通でないものを感じ取ることができるでしょう。

 

そのひとつが、日常よく耳にする音と共に、時折不穏な物音も入り交じっていること。この映画はアカデミー賞の音響賞を受賞しているだけに、繊細な表現によって観る者の不安を掻き立てます。勿論音だけではなく、一家の庭から見える監視塔、煙突から上がる煙、一家の主がナチスドイツの制服を身に纏うこと、ユダヤ人と思しき男が食料等を運んでくる様子などから、この一家がどのような状況に置かれているか、推し量る事ができます。

 

そうなると、別の面にも目が向くようになります。ヘスの妻であるヘートヴィヒが、運ばれてきた物の中から高価な毛皮の服を身に着ける場面も、ユダヤ人から没収してきた金品を着服しているのではないかと疑いたくなります。また、家にいるお手伝いもユダヤ人の女性を無償で使用している疑いも拭いきれません。ヘートヴィヒの母親も家の中にユダヤ人がいるのか娘に尋ねるのですが、彼女は一笑に付しています。ただし、ヘートヴィヒが主婦らしき二人と会話している場面で、お手伝いのうちの一人がまるで存在していないような扱いも受けるので、得体の知れない気持ち悪さを覚えます。

 

また、ヘスが子供たちを連れて川遊びをした際に、川からある物を見つけた途端、子供と一緒に逃げるように帰宅し、念入りに体を洗う場面にしても様々な想像をしたくなります。私は答え合わせをしたくてパンフレットに書かれていないか確かめようとしましたが、生憎完売されていて確かめられませんでした。このように具体的な説明はなく、観客の想像に委ねる場面が結構あり、その意味では考察しがいのある映画と言えます。

 

この映画におけるルドルフ・ヘスは、強制収容所の所長という立場を除けば、一般の夫や父親と然程変わらないように映ります。転属することを妻になかなか言えず悩む姿なぞは、ある意味、凡庸な悪を象徴しています。転属に納得のいかないヘートヴィヒにしても、しばしば俗物な面が窺えます。せっかく屋敷や庭を自分の思い通りにしたのに、引っ越せねばならない悔しい気持ちは分からなくはありません。

 

夫に単身赴任を迫る様子は、まるでホームドラマの一場面を見ているかのよう。でも、裕福な暮らしができているのは、ユダヤ人の人権を思い切り踏みにじった上で成り立っている事実があります。ユダヤ人を踏みつけにしておきながら、自分たちの生活があることを想像できない浅はかさがあるゆえに、ヘートヴィヒが怒れば怒るほど彼女が滑稽に見えてきます。

 

一方、ヘス一家の子供たちはどうでしょう。収容所と家の間にある壁や、両親に護られているとは言え、果たして全く影響がないと言えるのか?長女のインゲは夜中に起き出して、部屋の外にいることが度々見られ、長男は弟を温室に無理矢理閉じ込めていました。ヘートヴィヒの母親にしても、何も告げずに手紙だけを残して家から出て行った理由は、劇中では一切説明されていませんでしたが、通常の神経では暮らすことが耐えられなかったのではないでしょうか?

 

ルドルフ・ヘスも彼の妻も、想像力の欠如からユダヤ人を粛清することに麻痺し、無関心を引き起こしています。翻って現在の日本も無関心に関しては他人事とは思えません。先の衆院の補欠選選挙では、東京15区、島根、長崎といずれも投票率の低さが目立ちました。これは勿論、有権者の政治への無関心の表れに他なりません。確かに投票したい候補者がいない事実はあります。無党派層が多いことからも、そのことは表れています。でも、それを理由に投票に行かないのは如何なものか。自分の思うような候補者がいなくても、よりマシな候補者に投票するのが筋であるし、あるいは、供託金の問題や当選するかどうか別にして、自分自身が立候補する自由が日本にはあります。

 

日本人は得てして自由選挙が当たり前と思いがちですが、選挙すらまともに機能していない国は結構あります。まして独裁国家ならば、国民による選挙すら行われていません。選挙できるありがたみが分からないから、そのことが投票率の低さに繋がっているとしたら、これは由々しき問題。特にお隣の大国は日本国民の政治への無関心さに付込んで、虎視眈々と静かな侵略を狙っているので、家業と化した世襲議員、利権絡みの組織票などが横行すると、国民の政治離れが一層進み、より危険な状況になるでしょう。そのために、利権に縛られない有権者が積極的に政治に関心を持つことが必要なのですが・・・。

 

最後は映画と関係ない話になりましたが、無関心が国を悪くする点では、映画とも一致することがあると思って敢えて触れてみました。