フランケンシュタインの怪物に魅せられた少女は・・・「ミツバチのささやき」を観て | パンクフロイドのブログ

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一度記事にした映画を再度取り上げることはほとんどしないのですが、色々と思うこともあって取り上げてみました。

 

こうのすシネマ

午前十時の映画祭 より

 

チラシより

スペイン内戦終結後、小さな村に映画の巡回上映がやって来た。6歳の少女アナは、上映された「フランケンシュタイン」にすっかり心奪われてしまう。ある日、荒野で脱走兵らしき男と出会ったアナは、男に衣服と食料を渡すが。

 

製作年:1973年

製作:スペイン

監督・原案:ビクトル・エリセ

脚本:アンヘル・フェルナンデス・サントス ビクトル・エリセ

撮影:ルイス・カドラード

美術:アドルフ・コンフィーノ

音楽:ルイス・デ・パブロ

出演:アナ・トレント イザベル・テリェリア

        フェルナンド・フェルナン・ゴメス テレサ・ジンペラ

1985年2月9日公開

 

本作には結構余白の部分があり、謎の多い映画であることを改めて教えられました。その余白部分は観る者の想像に委ねられており、ある意味、観客が余白を補完しながら、独自の解釈で物語を新たに組み立てていく映画とも言えます。

 

序盤の母親のテレサが駅に手紙を持っていく場面から、誰に宛てたのか興味が湧いてきます。アナがアルバムの写真を眺めている場面では、テレサの写真に添えられた文言から、昔の恋人に宛てた手紙であったろうと想像できます。また、列車がポストの役割を果たしているのもユニークで、アナたちの住む村では郵便物がどのような配達の仕組みになっているのかも気になります。

 

姉のイサベルは妹のアナと仲は良いのですが、時々妹を鬱陶しく思う時があり、罪のない意地悪をします。映画のフランケンシュタインの怪物が少女を殺した理由をしつこく尋ねられると、面倒臭く思うあまり作り話をします。そこまでならば笑って済ませますが、死んだフリをした挙句、フランケンシュタインの怪物が現れたように驚かすのは少々遣り過ぎに思えます。イサベルは猫に噛まれた指の血を、口紅のように唇に塗るエロティックな場面があり、色気づいた少女が、妹の無垢な面に嫉妬した末の無邪気ないたずらのようにも感じます。

 

アナは映画の他にも、人体を構成する模型で人間を作り出す授業も受けていただけに、感受性の強い少女にとっては、フランケンシュタインの怪物への憧憬に近い感情が常にあるのも頷けます。姉の悪気のないいたずらに拗ねたアナは、真夜中に精霊の家に出かけます。この辺のアナの心理は不可解で、深夜に幼い少女がたった一人で無人の家に行くこと自体、かなりハードルが高いです。精霊が居ることを確かめたかったにせよ、恐怖の度合いを考えると、アナの執着具合が異様に思えます。

 

アナはこっそり自分のベッドに戻り、イサベルはどこに行っていたのか尋ねます。妹を心配していた姉に対し、アナが無視を決め込むのがいたずらへの意趣返しと思うと、なかなか微笑ましいです。精霊の存在の気になるアナは、昼間に再び精霊の家に行き、そこで脱走兵に遭遇します。この場面も映画の「フランケンシュタイン」を意識した演出になっていて、アナはりんごを与えた上に、後に父親のフェルナンドのコートを持ち出し彼に差し出します。

 

ところが、脱走兵は見つかって銃殺され、脱走兵の手にしたコートとポケットに入っていた懐中時計から、フェルナンドが軍に呼び出されます。事情を知らない彼は間もなく解放され、家族の誰が自分の持ち物を持ち出したか確かめるため、懐中時計を見せて家族の反応を窺います。妻への接し方、キノコ狩りにおける娘たちへの対応は、ごく普通の夫や父親に見えつつも、彼の中に相当な葛藤があることも垣間見えます。

 

フェルナンドはアナが精霊の家を訪れたことで、コートを持ち出したのは彼女と確信しますが、アナは行方をくらまします。やがて、村人たちの協力によりアナは発見されたものの、精神的なショックから寝込んだままの状態になります。アナが行方不明の間、彼女はフランケンシュタインの怪物に遭遇していました。

 

普通に考えれば、アナが怪しいきのこを食べた末の幻覚か、もしくは夢の中の出来事と思えますが、発見された後の母親と医師の会話から、怪物との遭遇が変質者による被害の比喩的表現の可能性も拭いきれません。また、イサベルが妹を見舞った際に、イサベルのベッドに何も敷かれていないのも意味深で、不穏な空気を感じさせます。

 

「ミツバチのささやき」は今回を含め3回の鑑賞になりますが、過去2回とはだいぶ違う印象を抱きました。ファンタジーはファンタジーでも闇の部分を強く意識させられ、アナがギレルモ・デル・トロの「パンズ・ラビリンス」における少女オフェリアの幻想と現実の境目が分からなくなる心理と相通ずるものを感じました。