こうのすシネマ
午前十時の映画祭 より
製作:東宝
監督:黒澤明
脚本:小國英雄 橋本忍 菊島隆三 黒澤明
撮影:中井朝一
美術:村木与四郎
音楽:佐藤勝
出演:三船敏郎 山田五十鈴 志村喬 久保明 浪花千栄子 千秋実
1957年1月15日公開
群雄割拠の戦国時代、山間に聳える蜘蛛巣城の城主都築国春(佐々木孝丸)は北の館藤巻の謀叛に遭い、軍師小田倉則保(志村喬)の進言で籠城の覚悟を決めていました。その時、使者が駆込み、一の砦の鷲津武時(三船敏郎)と二の砦の三木義明(千秋実)の獅子奮迅の働きで形勢は逆転し、敵は敗走していると告げます。
主家の危急を救った武時と義明は主君に召され、蜘蛛巣城に帰る道すがら、蜘蛛手の森に迷い込みます。雷鳴の中、森を抜け出そうと進むうち二人は一軒の藁葺き小屋を見つけます。小屋の中から老婆(浪花千栄子)が現れ、「武時は北の館の主に、やがて蜘蛛巣城の城主になり、義明は一の砦の大将に、また義明の子はやがて蜘蛛巣城の城主になる」と不思議な予言をします。
その夜、国春から武時は北の館の主に、義明は一の砦の大将に任ぜられます。北の館の主になった武時は一族郎党の喜びをよそに、老婆の予言に怯えます。折しも、妻の浅茅は「義明が森の予言を国春に洩らせば、城主を脅かす者として殺される」と案じ、夫に国春を殺し城主になれと唆すのです。
その頃、国春は隣国の乾を討つため、密かに兵を北の館に進めました。そして、国春は武時を乾攻撃の先陣に、義明を蜘蛛巣城の留守居役に命じます。浅茅は国春の命令を悪いように解釈して夫に伝え、武時は妻の言葉を受け、夜更けに国春を刺し殺してしまいます。小田倉則保は若君の国丸(太刀川洋一)を連れて、武時の追撃を逃れ、蜘蛛巣城に戻ります。
しかし、義時も老婆の予言に惑わされ、門を閉ざした末に、二人に矢を浴びせます。その後、武時は浅茅の知恵で、則保が主君を殺したと言いふらした上で、国春の柩を護って蜘蛛巣城に入城。大評定の席で義明から推されて、念願の蜘蛛巣城の城主となります。子のない武時は、予言に従いやがて義明の子義照(久保明)を世継ぎにしようと考えます。
ところが浅茅が懐妊を告げると、義明父子を亡き者にしようと刺客を送ります。その夜、父子が姿を見せない宴席で、武時は死相の義明の幻影に怯え醜態をさらします。城中に恐怖と不安が渦巻く中、大嵐の夜、浅茅は死産し重態に陥ります。その時一の砦から使者が来て、国丸を奉じた小田倉則保と義明の子義照が乾の軍勢の先手となって、城に押寄せたことを告げます・・・。
海外の小説或いは戯曲を映像化するにあたっては、自国の風土や慣習に合わせた工夫が必要と考えています。その点、「蜘蛛巣城」は外国産の原作を日本産にして映像化する上で、お手本となるべき作品に仕上げています。シェイクスピア原作の映画化作品は数多くありますが、本作は日本人の感覚に合うように時代劇に落とし込んだ点が秀でています。特に能の形式を用いて、様式美にこだわり、幽玄にまで昇華させた功績は大きいです。何もかも覆い隠す霧と相まって、怪奇と幻想に満ちた独特の世界観を構築しています。
物語は物の怪の老婆の予言に惑わされた武将が、主君や友を殺害する展開になります。ただし、武時は当初自ら手を汚さずに、老婆の予言通り運命に身を任す、真っ当な判断を下そうとします。それなのに、人を疑ってかからずにはいられない浅茅の人間不信と権力欲によって、武時は正常な判断を誤らせます。その結果、悉く裏目に出た挙句に悲惨な末路を辿ります。
作り手はシェイクスピア悲劇の面白さを的確に掴んでいます。30年以上前に観た時は特に意識していませんでしたが、隣国の乾を討つためにお忍びで北の館を訪れた国春に閨を差し出し、自分たち夫婦はかつての城主が切腹して血の消えぬ板壁のある部屋で、主君の様子を窺う設定も凄いです。この部屋が武時と浅茅の狂気を引き出し、死者の怨念に操られて武時に国春殺しを決意させたかのよう。
狂気と言えば、武時が四方八方から矢を射られる描写も尋常ではありません。至近距離から俳優に向けて本物の矢を射る黒澤の演出もどうかしていますし、三船もとても芝居とは思えぬ怯えた表情をしています。それにしても、三船の首に矢が突き刺さるのは、どのような仕掛けが施されたのでしょうか?
数々の時代劇を撮ってきた黒澤作品の中でも、この映画は巨大な神秘の力が人間を意のままに動かすという意味で、異色の時代劇と言えます。そして、この世界観は後のフランシス・コッポラの「地獄の黙示録」におけるカーツ大佐の王国に引き継がれているようにも思えました。