西洋的価値観の見直しを問う 「沈黙-サイレンス-」を観て | パンクフロイドのブログ

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沈黙-サイレンス- 公式サイト

 

 

チラシより

17世紀、江戸初期。幕府による激しいキリシタン弾圧下の長崎。日本で捕らえられ棄教(信仰を捨てること)したとされる高名な宣教師フェレイラを追い、弟子のロドリゴとガルペは、日本人キチジローの手引きでマカオから長崎へと潜入する。日本にたどりついた彼らは、想像を絶する光景に驚愕しつつも、その中で弾圧を逃れた“隠れキリシタン”と呼ばれる日本人らと出会う。それも束の間、幕府の取締りは厳しさを増し、キチジローの裏切りにより遂にロドリゴらも囚われの身に。頑ななロドリゴに対し、長崎奉行の井上筑後守は「お前のせいでキリシタンどもが苦しむのだ」と棄教を迫る。そして次々と犠牲になる人々――。守るべきは大いなる信念か、目の前の弱々しい命か。心に迷いが生じた事でわかった、強いと疑わなかった自分自身の弱さ。追い詰められた彼の決断とは――。

 

製作:アメリカ

監督:マーティン・スコセッシ

脚本:ジェイ・コックス マーティン・スコセッシ

原作:遠藤周作

撮影:ロドリゴ・プリエト

美術:ダンテ・フェレッティ

出演:アンドリュー・ガーフィールド アダム・ドライバー 浅野忠信 窪塚洋介

        イッセー尾形 塚本晋也 小松菜奈 加瀬亮 笈田ヨシ リーアム・ニーソン

2017年1月21日公開

 

早稲田松竹で篠田正浩監督の「沈黙 SILENCE」を上映していたこともあり、できればそちらを観た上で新旧の「沈黙」を比較したかったのですが、私が出かけた回は満席になっており、次の回も整理券が配られての入場だったため、早々にあきらめて退散することにしました。今後、劇場で上映される機会があれば改めて鑑賞したいです。

 

それはともかく、28年前から温めてきた映画化だけあって、スコセッシの真摯な姿勢が垣間見える作品でした。神への信仰を問う映画ではありますが、その土台となる日本と日本人が描けていないと、台無しになる映画でもあります。その点本作は、時代劇を真正面から取り組むことによって、見事にクリアしています。

 

遠藤周作の原作は未読ですが、外国人の映画監督で日本人の心情をこれだけ掘下げた作品は滅多になく、他のアジア諸国に比べ、キリスト教が日本に根付かなかった(あるいは根付かせなかった)原因もすんなりと頭に入ってきます。井上筑後守がロドリゴに語りかける例えも一々核心を突いていて、様々な示唆に富んでいます。

 

アジアの国々が兵力とキリスト教の布教によって、ヨーロッパの植民地にされる中、日本はキリスト教を排除したことにより、結果的にその難を免れたとも言えます。我々日本人はそのこと以外にも、一神教に対して警戒感を抱いており、他の宗教との対立しか生まないことを、本能的に悟っていたのではないでしょうか。

 

元々、神は万物に宿るという宗教観を持つ日本人には、曖昧なユルさが丁度よく、戒律の厳しい宗教には向いていないように思います。現に映画の中では、本来人を救うはずの宗教が、戒律に縛られるあまり不幸な結果を呼び起こします。宗教に殉じようとする日本人の生真面目さと相まって、ロドリゴとガルペの信仰心を揺るがす要因にもなっています。

 

日米の俳優陣はそれぞれ適材適所に役を振り充てられており、中でもキチジローを演じた窪塚洋介は遣り甲斐があったでしょう。迫害に遭うたびに踏み絵を踏んで難を免れ、そのたびに罪悪感に駆られ、司祭に赦しを乞う弱者。切支丹からすると裏切り者や卑怯者にしか映りませんが、生きるためにはやむを得ない行動で、無神論者から見ればとても彼を責められません。むしろ罪と感じる分、誠実さがあるように感じられます。

 

イッセー尾形演じる食えない奉行もいいキャラクターをしています。この映画では悪役に位置づけられるのでしょうが、必ずしも悪役として一括りにできない複雑な面を兼ね備えています。彼の掲げる論理にはそれなりの説得力があり、時に慈悲のある振る舞いを見せるからです。単に自分の仕事を全うしていると取れなくもありません。

 

それでいて、ボソッとつぶやくような台詞に毒が混じっているから油断なりません。「形だけでいいんだ」との言葉は、容易いように見えて、実は大切なものを失う悪魔の囁きでもあります。現代の我々の日常でうっかり使いたくなる、“凡庸な悪”と呼ばれるものへの免罪符に成り得る魔法の言葉。こうした重い台詞をさり気なく挟み込むスコセッシも、ある意味悪魔ですねぇ(笑)。

 

本作は地味ながらも、2時間45分もの間スクリーンから目の離せない場面が続きます。スコセッシは西洋の価値観を一方的に押しつけず、日本人の精神的な支柱となるものを尊重しつつ、観る側の判断に委ねます。キリスト教に殉ずる信者の悲惨な末路に耐えかねて、棄教したかに見えたロドリゴも、ラストシーンで彼の日本人妻がとった行動を見る限り、信仰は決して無駄ではなかったと思えてきます。