今回のドイツ滞在中に行くことにしていたオーケストラ・コンサートは2つ。
どういう奇遇か、なぜかその2つのコンサートともショスタコーヴィチの交響曲第7番《レニングラード》を取り上げたプログラムだったっていう、とても珍しいケースでした。ドイツのオーケストラが演奏する《レニングラード》を日本で聴く機会なんてまあほぼないですからね。こういうところも現地に詣でる楽しみのひとつだなぁ。
++++++++++
最初に聴いたのは日本からドイツに到着した、2月8日。
セバスチャン・ヴァイグレが指揮するフランクフルト・ムゼウム管弦楽団による演奏。
会場はフランクフルトのアルテ・オパー。
ムゼウム管はフランクフルト歌劇場の専属オケで、オーケストラ単独のコンサートも定期的に開催。ヴァイグレはそのフランクフルト歌劇場の音楽監督で、彼が就任して以降歌劇場もオーケストラもすこぶる評判が良い印象があります(録音もオペラと管弦楽両方で積極的に行なってますね)。
プログラム前半は、グラズノフの短いヴァイオリン協奏曲が演奏されました。ソリストはマイケル・バレンボイム。ダニエル・バレンボイムの息子ですね。これはもう安定した、まさにこのあと《レニングラード》が始まる嵐の前の静けさ、皮肉と凶暴の世界に向き合う前の一服の清涼剤的な演奏でした。初めて聴いた作品でしたが、まあ美しくはあるけれど、正直、特に面白味もない、、、と思ってしまった(汗)。マイケル・バレンボイムも没入するようなエネルギーでこの作品に取り組んでる感じではないものの、作品のもつ柔和な表情を丁寧に捉えてた演奏。ヴァイグレの指揮するオーケストラも同様にとても穏やかで、全体のまとまりの良さをとても好意的に感じました。ぱっと耳が奪われるようなスーパー奏者はいなくても、どのパートも献身的だし、これは安心して聴けるなあ、と。
で、休憩後メインの第7交響曲。
この日の演奏会はどうやらムゼウムが運営する音大(なのかな?)との合同公演と位置づけられていたようで、ムゼウム管メンバー以外の奏者も加わっての演奏だったんですが、これが今思うとですねえ、案外足を引っ張った感じがしなくもない。第1楽章の最初の主題が始まったときに、「あれ、オケのなかに別の音が混じってる」と思ったんだよなぁ。それは後半から加わったメンバーとムゼウム管の奏者たちが違うピッチで演奏してたという意味では全然なくて、つまり、ムゼウム管の音のまとまりがとても良いだけに、おそらく普段一緒に活動しているわけではないメンバーと音の感覚がズレてしまっていた、ということ。
確かにこの曲、2つのオーケストラの合同で演奏されることもある(ゲルギエフがマリインスキー管とロッテルダム・フィルの合同で録音したCDを一時期よく聴いてました)。想像だけど、合同の場合はその微妙なズレをうまく利用しながら(つまり、無理に一体感を出すのではなく)演奏を進めることだっておそらく可能で、それが効果的ある種のメッセージにもなる、という部分があるような気はします。なんだけど、この日の演奏では、それがあまりよい方向にはいかなかったのではないか、と。特に前半は「別の音が混じってる」ことが気になってしまって集中を削ぐ感じがどうしても拭えなかった。
ヴァイグレの劇的な展開を的確に捉えて描いていくような指揮は、さすがにオペラで鍛え上げられたものがあります。第1楽章、いわゆる「戦争の主題」が終わった直後からの怒濤の展開では細かくテンポを変えて緩急を付けて、それぞれの局面を魅力的に描いていたと思いました。と同時に、とても実直なんだな。劇的ではあるけれど毒気はない、という感じ。だからすっと受け入れられる。この曲ってどうしても灰汁が強くてチリペッパーのような辛みも効いててってものを期待してしまうけれど、ヴァイグレとムゼウム管の演奏は、不思議と劇的なのにさらりとしてる。演奏直後に「飲み過ぎた翌朝に角の立たないものを食べたくて、選んだのがお粥」、っていう感想が頭に浮かびましたが、、、よくわからない、、、までも、この演奏の一面を捉えてはいるかな、、、と。
ヴァイグレの指揮、マイナス面としては、全体に繊細さには欠ける気がしたのと、ディテールを大事にするタイプではないのだな、とは思いました。「戦争の主題」の主役である小太鼓のリズムはかなり散漫だったし、第2楽章や第3楽章の終わりから第4楽章へとつながる部分など、この作品の裏の聴かせどころになる部分には面白味をあまり感じなかった。
まああと、やっぱりこのアルテ・オパーがね。。。
コンサートホールとしてはあまり好きではないなあ、と。ここに来るのは2度目で、前回はラトルとベルリン・フィルの演奏するブルックナーの第4交響曲を聴いたんですよね。超楽しみにしてたんだけど、残念なことにあまり楽しめなかった。あの感じ、よく覚えてます。ラトルがベルリン・フィルの首席指揮者に就任してからそんなに時間が経ってない時期だったこともあって、まだベルリン・フィルをコントロールし切れてなくて単純に演奏としての完成度がまだまだだった、っていう部分も正直かなりありましたが、それと同時に、このアルテ・オパーの音響の問題があるなあ、と。まあ実にそっけないこと。外から眺めると雰囲気と重みのある素敵な建物なんだけど、ホール内はとても現代的で、そして舞台から客席最後列までが異様に遠い。なので、わりと前方に座らない限り、力強い音が届いてこないホールではある。今回はお値段抑えめの席にしてしまったこともあったし、、、あと個人的にですね、日本からの長旅でフランクフルトについて2時間半後のコンサート、やっぱり体力的にね、集中が続きにくかったことは否めず。。。
++++++++++
で。この旅2度目の《レニングラード》は、2月12日。
会場はミュンヘン・ガスタイク。
マリス・ヤンソンス指揮のバイエルン放送交響楽団による演奏です。
まずですね、ガスタイク、ですよ。
ようやくここに来ることができました。
チェリビダッケを敬愛し、かつてのミュンヘン・フィルを最も好きなオーケストラと言って憚らなかった僕にとって、ガスタイクはいわば「聖地」。ガスタイクじたいは意味不明の形状とそんなに良い音響ではないってことで知られており(笑)、ヤンソンスとバイエルン放送響の界隈では常に「ミュンヘンに世界に誇るコンサート・ホールの建設を!」と待望論が声高に叫ばれておりますけれども。いやいや、かつてここでチェリビダッケが数多の名演を披露していたのか、、、と想像しただけでワクワクとニヤニヤがとまりません。早めについてホワイエやらあちこちを散策してる途中で、チェリビダッケの頭像を発見したときには思わず声をあげてしまったのでした。記念写真に収めたのも言わずもがな。
・・・ホールとしては、建物の雰囲気とかからも、何となくロンドンのバービカンっぽいんじゃないかって想像してたんですけど、それは何となく当たってた感じ。音響も言われるほど悪くない気がしました。そのへんもバービカンに似てるw
で。バイエルン放送響。
言わずと知れたドイツの名門オーケストラです。近年はベルリンフィルに勝るとも劣らずの高い評価を得ており、少し前に2003年から音楽監督を務めるヤンソンスとの契約延長が発表されました。新コンサート・ホールの建設にもどうやらGOサインが出たようで、充実の一途を辿ってる感じですね。
昔からよく来日してくれるオーケストラでしたが、ヤンソンス就任以降は2年に一度は来日してますね。僕自身は2012年ベートーヴェン・ツィクルスでの来日の最終日(第8番と第9番)を聴いたのが最後ですが、2014年にも来日したし、今年2016年の秋にもやはり来日が予定されてます。ありがたいことに聴ける機会の多いオーケストラだけど、でもさすがに《レニングラード》は持ってこないだろうからなあ。
いまや世界を代表する巨匠のひとりとなったヤンソンスですが、ラトヴィア出身の彼が最初に注目を集めはじめたのは、レニングラード・フィル(現在はサンクトペテルブルク・フィル)の指揮者としてでしたね。1980年代の後半で、僕自身も初めてヤンソンスの指揮を実演で聴いたときのオケはレニングラード・フィルでした。また、キャリアの早い段階で様々なオーケストラを指揮してショスタコーヴィチの交響曲全集を録音してるし、そもそもヤンソンスはいつだって豊麗かつ豪快にオーケストラを聞く醍醐味を最大限に感じさせてくれる指揮者ですから。「ヤンソンスが指揮するショスタコーヴィチ」、いやそりゃ絶対聴きたい!って思わせるブランド力がじゅうぶんにありますよね。
そして、実際、演奏は素晴らしかった。
ヤンソンスの指揮者としてのますますの円熟、そしてオーケストラとの共感関係の深さ、いずれも凄みすら感じたなあ。
最後に彼らの演奏を聴いた東京でのベートーヴェン、いい演奏だったけれど、少し“力み”みたいなのが感じられたのも事実で。ヤンソンスの思い入れの強さを感じる反面、オケ全員と呼吸がぴったりと合ってると思えなかったことをよく覚えています。ものすごい演奏になるのでは、、、と事前の期待値が高かった分、そこまでではなかった、と思ってしまったんだよなあ。
この日のヤンソンス、まず何より指揮に余裕があったんですよ。特に、音楽が昂揚し高まれば高まるほど、ヤンソンスの棒はある意味で“軽く”なる。「どうぞ好きにやってくれ!」とオーケストラに言わんばかりで。むしろ音楽が繊細な方向へと進んでいくときにはとても細かく集中した指揮になる。全体的に素晴らしい演奏だった中で、特に瞠目させられたのは第2楽章でした。こんなに充実した第2楽章は初めて聴いたな。終わり方なんてマーラーの後期交響曲のアダージョを聴いているかのような崇高さすら感じました。こういうところでこのオケの弦の厚みが十全に活かされているし、木管の細かなニュアンスに奏者ひとりひとりの高い実力が見事に伺える。そしてどの瞬間も、オーケストラがヤンソンスの棒にぴたりと合うんだ。・・・いや、あたりまえのことのようだけど、その純度っていうかなあ、、、曖昧さの欠片もないんだよね。こういうのは真の信頼関係がないと絶対にできない。
ヤンソンスの志向する音楽って、まず何よりひとつひとつの音を無駄にしない、っていう前提がある。すべての音に構成上の意味があり、それをはっきりと聴かせ響かせることが心情。流麗さを極めると歌になっていくんだけど、流れるような心地良い歌の場合、ある意味では“捨てられていく”音もある。ヤンソンスはそういうふうにはしないですね。彼がどちらかといえばオペラではなくシンフォニックな世界で評価が高いのもそういう気質があってのことだと思うわけです。
で、この「一音も無駄にせずはっきりと聴かせる」っていう前提さえ理解されていれば、実はヤンソンスは奏者ひとりひとりにかなりの自由を与えているんだよね。ほんとそれこそ、「大丈夫!自信持って吹いてくれ!」って背中を押すよう。その心意気に、奏者ひとりひとりが全力で応えようとしてるのが今回とてもよくわかりました。100人ほどの集団の全員がまったく萎縮することなく、自分の実力をフルに発揮しようとしてる。そしてここはバイエルン放送響ですよ。名門中の名門で、ただでさえひとりひとりの能力の高さは世界屈指。そんな彼らが気持ち良く、自信を持って演奏してるわけで、聴き手としてはこんな贅沢はないよなあ、と思うわけです。そりゃ凄い演奏にならないわけがない。
こういうことがこのレベルでできた指揮者で思い出したのは、クラウス・テンシュテット。
ヤンソンスの指揮は、もはや往年のテンシュテットの域に十分達してるんじゃないかと。
全体としては、毒味や皮肉、凶暴・暴力性、こうしたもののほとんどが取り払われてました。全然なかったわけじゃないけど、そうしたものを過度に立ててくことは意識的に避けてるなあという印象。なので、従来のこの曲の解釈を遵守する人たちからすると、ひょっとしたら受け入れ難い演奏なのかもしれないし、そうした批判もあるかもしれません。
そうした、ショスタコーヴィチに不可欠と思われていた要素を取り除いた第7交響曲から何が立ち昇ってきたかというと、驚くほどに古典的でイノセントな、「苦悩から歓喜へ」という、交響曲芸術の王道的な構造でした。あ、この曲って、こんなに古典的だったのか、って。凛々しく心地良く、そして最後第4楽章なんて神々しくすらあった。交響曲を聴く醍醐味や愉悦。ヤンソンスはやはりこういうふうに聴かせるのが本当に上手い。
例えば、第4楽章を聴きながら、シベリウスの第2交響曲のことを少し考えました。あの曲だって民族闘争と市民の勝利を描いたものであったはずです。そして僕たちはそのことを受け入れて聴くこと“も”できる。この日聴いたヤンソンスとバイエルン放送響の《レニングラード》も、構造としてはシベリウスの第2交響曲とまったく同じはずなのに、どうしてか僕たちはそれが「ロシア」「共産主義」といったイメージ根ざした成り立ち、あるいは政治的な部分に囚われすぎてしまうんだよなあ、と。
慣習的なイメージを一新してみたときに聴こえてくるもの、感じられるもののほうが大事。と。
今回のヤンソンスとバイエルン放送響の演奏から教わったような気がします。
どういう奇遇か、なぜかその2つのコンサートともショスタコーヴィチの交響曲第7番《レニングラード》を取り上げたプログラムだったっていう、とても珍しいケースでした。ドイツのオーケストラが演奏する《レニングラード》を日本で聴く機会なんてまあほぼないですからね。こういうところも現地に詣でる楽しみのひとつだなぁ。
++++++++++
最初に聴いたのは日本からドイツに到着した、2月8日。
セバスチャン・ヴァイグレが指揮するフランクフルト・ムゼウム管弦楽団による演奏。
会場はフランクフルトのアルテ・オパー。
ムゼウム管はフランクフルト歌劇場の専属オケで、オーケストラ単独のコンサートも定期的に開催。ヴァイグレはそのフランクフルト歌劇場の音楽監督で、彼が就任して以降歌劇場もオーケストラもすこぶる評判が良い印象があります(録音もオペラと管弦楽両方で積極的に行なってますね)。
プログラム前半は、グラズノフの短いヴァイオリン協奏曲が演奏されました。ソリストはマイケル・バレンボイム。ダニエル・バレンボイムの息子ですね。これはもう安定した、まさにこのあと《レニングラード》が始まる嵐の前の静けさ、皮肉と凶暴の世界に向き合う前の一服の清涼剤的な演奏でした。初めて聴いた作品でしたが、まあ美しくはあるけれど、正直、特に面白味もない、、、と思ってしまった(汗)。マイケル・バレンボイムも没入するようなエネルギーでこの作品に取り組んでる感じではないものの、作品のもつ柔和な表情を丁寧に捉えてた演奏。ヴァイグレの指揮するオーケストラも同様にとても穏やかで、全体のまとまりの良さをとても好意的に感じました。ぱっと耳が奪われるようなスーパー奏者はいなくても、どのパートも献身的だし、これは安心して聴けるなあ、と。
で、休憩後メインの第7交響曲。
この日の演奏会はどうやらムゼウムが運営する音大(なのかな?)との合同公演と位置づけられていたようで、ムゼウム管メンバー以外の奏者も加わっての演奏だったんですが、これが今思うとですねえ、案外足を引っ張った感じがしなくもない。第1楽章の最初の主題が始まったときに、「あれ、オケのなかに別の音が混じってる」と思ったんだよなぁ。それは後半から加わったメンバーとムゼウム管の奏者たちが違うピッチで演奏してたという意味では全然なくて、つまり、ムゼウム管の音のまとまりがとても良いだけに、おそらく普段一緒に活動しているわけではないメンバーと音の感覚がズレてしまっていた、ということ。
確かにこの曲、2つのオーケストラの合同で演奏されることもある(ゲルギエフがマリインスキー管とロッテルダム・フィルの合同で録音したCDを一時期よく聴いてました)。想像だけど、合同の場合はその微妙なズレをうまく利用しながら(つまり、無理に一体感を出すのではなく)演奏を進めることだっておそらく可能で、それが効果的ある種のメッセージにもなる、という部分があるような気はします。なんだけど、この日の演奏では、それがあまりよい方向にはいかなかったのではないか、と。特に前半は「別の音が混じってる」ことが気になってしまって集中を削ぐ感じがどうしても拭えなかった。
ヴァイグレの劇的な展開を的確に捉えて描いていくような指揮は、さすがにオペラで鍛え上げられたものがあります。第1楽章、いわゆる「戦争の主題」が終わった直後からの怒濤の展開では細かくテンポを変えて緩急を付けて、それぞれの局面を魅力的に描いていたと思いました。と同時に、とても実直なんだな。劇的ではあるけれど毒気はない、という感じ。だからすっと受け入れられる。この曲ってどうしても灰汁が強くてチリペッパーのような辛みも効いててってものを期待してしまうけれど、ヴァイグレとムゼウム管の演奏は、不思議と劇的なのにさらりとしてる。演奏直後に「飲み過ぎた翌朝に角の立たないものを食べたくて、選んだのがお粥」、っていう感想が頭に浮かびましたが、、、よくわからない、、、までも、この演奏の一面を捉えてはいるかな、、、と。
ヴァイグレの指揮、マイナス面としては、全体に繊細さには欠ける気がしたのと、ディテールを大事にするタイプではないのだな、とは思いました。「戦争の主題」の主役である小太鼓のリズムはかなり散漫だったし、第2楽章や第3楽章の終わりから第4楽章へとつながる部分など、この作品の裏の聴かせどころになる部分には面白味をあまり感じなかった。
まああと、やっぱりこのアルテ・オパーがね。。。
コンサートホールとしてはあまり好きではないなあ、と。ここに来るのは2度目で、前回はラトルとベルリン・フィルの演奏するブルックナーの第4交響曲を聴いたんですよね。超楽しみにしてたんだけど、残念なことにあまり楽しめなかった。あの感じ、よく覚えてます。ラトルがベルリン・フィルの首席指揮者に就任してからそんなに時間が経ってない時期だったこともあって、まだベルリン・フィルをコントロールし切れてなくて単純に演奏としての完成度がまだまだだった、っていう部分も正直かなりありましたが、それと同時に、このアルテ・オパーの音響の問題があるなあ、と。まあ実にそっけないこと。外から眺めると雰囲気と重みのある素敵な建物なんだけど、ホール内はとても現代的で、そして舞台から客席最後列までが異様に遠い。なので、わりと前方に座らない限り、力強い音が届いてこないホールではある。今回はお値段抑えめの席にしてしまったこともあったし、、、あと個人的にですね、日本からの長旅でフランクフルトについて2時間半後のコンサート、やっぱり体力的にね、集中が続きにくかったことは否めず。。。
++++++++++
で。この旅2度目の《レニングラード》は、2月12日。
会場はミュンヘン・ガスタイク。
マリス・ヤンソンス指揮のバイエルン放送交響楽団による演奏です。
まずですね、ガスタイク、ですよ。
ようやくここに来ることができました。
チェリビダッケを敬愛し、かつてのミュンヘン・フィルを最も好きなオーケストラと言って憚らなかった僕にとって、ガスタイクはいわば「聖地」。ガスタイクじたいは意味不明の形状とそんなに良い音響ではないってことで知られており(笑)、ヤンソンスとバイエルン放送響の界隈では常に「ミュンヘンに世界に誇るコンサート・ホールの建設を!」と待望論が声高に叫ばれておりますけれども。いやいや、かつてここでチェリビダッケが数多の名演を披露していたのか、、、と想像しただけでワクワクとニヤニヤがとまりません。早めについてホワイエやらあちこちを散策してる途中で、チェリビダッケの頭像を発見したときには思わず声をあげてしまったのでした。記念写真に収めたのも言わずもがな。
・・・ホールとしては、建物の雰囲気とかからも、何となくロンドンのバービカンっぽいんじゃないかって想像してたんですけど、それは何となく当たってた感じ。音響も言われるほど悪くない気がしました。そのへんもバービカンに似てるw
で。バイエルン放送響。
言わずと知れたドイツの名門オーケストラです。近年はベルリンフィルに勝るとも劣らずの高い評価を得ており、少し前に2003年から音楽監督を務めるヤンソンスとの契約延長が発表されました。新コンサート・ホールの建設にもどうやらGOサインが出たようで、充実の一途を辿ってる感じですね。
昔からよく来日してくれるオーケストラでしたが、ヤンソンス就任以降は2年に一度は来日してますね。僕自身は2012年ベートーヴェン・ツィクルスでの来日の最終日(第8番と第9番)を聴いたのが最後ですが、2014年にも来日したし、今年2016年の秋にもやはり来日が予定されてます。ありがたいことに聴ける機会の多いオーケストラだけど、でもさすがに《レニングラード》は持ってこないだろうからなあ。
いまや世界を代表する巨匠のひとりとなったヤンソンスですが、ラトヴィア出身の彼が最初に注目を集めはじめたのは、レニングラード・フィル(現在はサンクトペテルブルク・フィル)の指揮者としてでしたね。1980年代の後半で、僕自身も初めてヤンソンスの指揮を実演で聴いたときのオケはレニングラード・フィルでした。また、キャリアの早い段階で様々なオーケストラを指揮してショスタコーヴィチの交響曲全集を録音してるし、そもそもヤンソンスはいつだって豊麗かつ豪快にオーケストラを聞く醍醐味を最大限に感じさせてくれる指揮者ですから。「ヤンソンスが指揮するショスタコーヴィチ」、いやそりゃ絶対聴きたい!って思わせるブランド力がじゅうぶんにありますよね。
そして、実際、演奏は素晴らしかった。
ヤンソンスの指揮者としてのますますの円熟、そしてオーケストラとの共感関係の深さ、いずれも凄みすら感じたなあ。
最後に彼らの演奏を聴いた東京でのベートーヴェン、いい演奏だったけれど、少し“力み”みたいなのが感じられたのも事実で。ヤンソンスの思い入れの強さを感じる反面、オケ全員と呼吸がぴったりと合ってると思えなかったことをよく覚えています。ものすごい演奏になるのでは、、、と事前の期待値が高かった分、そこまでではなかった、と思ってしまったんだよなあ。
この日のヤンソンス、まず何より指揮に余裕があったんですよ。特に、音楽が昂揚し高まれば高まるほど、ヤンソンスの棒はある意味で“軽く”なる。「どうぞ好きにやってくれ!」とオーケストラに言わんばかりで。むしろ音楽が繊細な方向へと進んでいくときにはとても細かく集中した指揮になる。全体的に素晴らしい演奏だった中で、特に瞠目させられたのは第2楽章でした。こんなに充実した第2楽章は初めて聴いたな。終わり方なんてマーラーの後期交響曲のアダージョを聴いているかのような崇高さすら感じました。こういうところでこのオケの弦の厚みが十全に活かされているし、木管の細かなニュアンスに奏者ひとりひとりの高い実力が見事に伺える。そしてどの瞬間も、オーケストラがヤンソンスの棒にぴたりと合うんだ。・・・いや、あたりまえのことのようだけど、その純度っていうかなあ、、、曖昧さの欠片もないんだよね。こういうのは真の信頼関係がないと絶対にできない。
ヤンソンスの志向する音楽って、まず何よりひとつひとつの音を無駄にしない、っていう前提がある。すべての音に構成上の意味があり、それをはっきりと聴かせ響かせることが心情。流麗さを極めると歌になっていくんだけど、流れるような心地良い歌の場合、ある意味では“捨てられていく”音もある。ヤンソンスはそういうふうにはしないですね。彼がどちらかといえばオペラではなくシンフォニックな世界で評価が高いのもそういう気質があってのことだと思うわけです。
で、この「一音も無駄にせずはっきりと聴かせる」っていう前提さえ理解されていれば、実はヤンソンスは奏者ひとりひとりにかなりの自由を与えているんだよね。ほんとそれこそ、「大丈夫!自信持って吹いてくれ!」って背中を押すよう。その心意気に、奏者ひとりひとりが全力で応えようとしてるのが今回とてもよくわかりました。100人ほどの集団の全員がまったく萎縮することなく、自分の実力をフルに発揮しようとしてる。そしてここはバイエルン放送響ですよ。名門中の名門で、ただでさえひとりひとりの能力の高さは世界屈指。そんな彼らが気持ち良く、自信を持って演奏してるわけで、聴き手としてはこんな贅沢はないよなあ、と思うわけです。そりゃ凄い演奏にならないわけがない。
こういうことがこのレベルでできた指揮者で思い出したのは、クラウス・テンシュテット。
ヤンソンスの指揮は、もはや往年のテンシュテットの域に十分達してるんじゃないかと。
全体としては、毒味や皮肉、凶暴・暴力性、こうしたもののほとんどが取り払われてました。全然なかったわけじゃないけど、そうしたものを過度に立ててくことは意識的に避けてるなあという印象。なので、従来のこの曲の解釈を遵守する人たちからすると、ひょっとしたら受け入れ難い演奏なのかもしれないし、そうした批判もあるかもしれません。
そうした、ショスタコーヴィチに不可欠と思われていた要素を取り除いた第7交響曲から何が立ち昇ってきたかというと、驚くほどに古典的でイノセントな、「苦悩から歓喜へ」という、交響曲芸術の王道的な構造でした。あ、この曲って、こんなに古典的だったのか、って。凛々しく心地良く、そして最後第4楽章なんて神々しくすらあった。交響曲を聴く醍醐味や愉悦。ヤンソンスはやはりこういうふうに聴かせるのが本当に上手い。
例えば、第4楽章を聴きながら、シベリウスの第2交響曲のことを少し考えました。あの曲だって民族闘争と市民の勝利を描いたものであったはずです。そして僕たちはそのことを受け入れて聴くこと“も”できる。この日聴いたヤンソンスとバイエルン放送響の《レニングラード》も、構造としてはシベリウスの第2交響曲とまったく同じはずなのに、どうしてか僕たちはそれが「ロシア」「共産主義」といったイメージ根ざした成り立ち、あるいは政治的な部分に囚われすぎてしまうんだよなあ、と。
慣習的なイメージを一新してみたときに聴こえてくるもの、感じられるもののほうが大事。と。
今回のヤンソンスとバイエルン放送響の演奏から教わったような気がします。