『エンジェルス・イン・アメリカ』@リトルトン、ナショナル・シアター

“Angels in America” @ Lyttelton, National Theatre

 

この20数年の過去と歩みを反芻する経験と、これから先について思案する経験をした。

 

まず、1990年代前半における様々な社会的問題に対する認識は、このわずか(‼︎)20数年の間に急激に変化(前進、あるいは進歩と言ってもいいのかはさておき)したのだなあと感じずにはいられなかった。例えばこの作品で中心的に扱われるもののひとつである《エイズ AIDS》。この20数年のあいだにあきらかに治療法や投薬の研究が進み、90年代に蔓延した終末の恐怖感のようなものはなく、いま「国家的テーマ」という枠に当てはめて考えるにはかえって少し違和感を覚えるかもしれない(そのぶんエイズについては「無知」という新たな問題が生まれてもいるのだけれど)。《同性愛》などについても、完全にではないにせよ、90年代前半と比較すれば人々の理解は明らかに進んでいるし、《難民》や《格差》といったものと比較しても、国家的テーマとしての比重はかなり“ライト(Light)”になりつつある。

 

今回上演されたナショナル・シアターの2017年シーズンの目玉とでもいうべき新しい『エンジェルス・イン・アメリカ』、自分はスケジュールの都合上、第二部「ペレストロイカ」しか観ることができないけれど、全体的な印象として“軽さ”が際立っていたなあ、と。それは国家的テーマとしてのエイズ等の問題がやや軽量化したことと符合するような気がする。

 

まず、物理的に客席からの笑いが多い。全編で笑いが起きる。戯曲上のクライマックスと思われる瞬間にさえ笑いは絶えなかったのはとても意外だった。2017年の私たちは、例えば「この戯曲の上演を通じて、エイズの問題にどう対処すべきか」などとはおそらく考えない。この戯曲が扱う国家的テーマと現在の私たちのあいだにはおそらくほんの少しの隙間があって、だからある意味では常に風通しが良い状態で客観的に芝居を観ていられたように思う。そのことを個人的にはどちらかというとポジティブなこととして受け止めた。

 

じゃあ『エンジェルス・イン・アメリカ』の“価値”そのものも時代とともに軽量化してしまったのか?というと、そんなことは全くなくて、いやむしろ古臭さなんて何一つ感じず、むしろかつてよりもはるかに“現在の世界”に切実であるように感じられた。戯曲の普遍性がいまや明確になり、あまりにもリアルすぎて気恥ずかしくなる瞬間があるほど、今の私たちにこそ語りかけられている言葉ばかりだった。最後に『エンジェルス・イン・アメリカ』の上演を観たのは2007年で(T.P.T.の上演、もちろん日本語。あれは面白かったなあといま思い出しても思う)、ちょうど10年前。あのときの公演と比較しても、いやいや、世界ははるかに後退しているし、たぶん天使たちはそこら中にたくさんいる(特に日本には多いんじゃないかな)。

 

アンドリュー・ガーフィールドが演じるプライアーの最後の言葉は、プライアーの実感であると同時に、私たちへの挑発なのかもしれないなあ。この本当にろくでもない社会に生きてる私たちは、彼の言葉をどう受け止め、どう行動するだろう? EU離脱を決めたイギリスの観客にあの言葉はどう響いたのだろう。ヨーロッパに散る難民の人たちにあの言葉ははたして届くだろうか? トランプを選択したアメリカ人はあの言葉に何を思う? すっかり呆痴した我々日本人はどう反応できるだろうか?・・・いや、っていうか、そもそも、反応できる、、、?

 

いわゆる初日(=プレス・ナイト)まであとほんの数日とはいえ、今回自分が観たのはプレビュー期間の公演で、だからなのか、演出的に言ってまだ詰めきれていないのではと思われる瞬間も少なからずあったし、特に装置の方向性は最後までよく分からなかった(第一部「ミレニアムが近づく」から観ていると何かヒントになるものがあるのかしら、、、?)。まあ、そのあたりはこれからもどんどん修正を重ねて良くなっていくでしょう。想像で補ってもなお空間を埋めきれてない気もしていたのだけれど、むしろだからこそ「宿命(Fate)に対して、人間の存在はなんと小さいことか」という無情さのようなものにつまされて、途中からは気にならなくなった。

 

キャストはまさに適材適所で破綻なく素晴らしかったなあ。なかでもロイ・コーンを演じたネイサン・レインは秀逸。第二部では登場するほとんどの場面がベッドの上っていう制約のなかでのあの圧倒的な存在感には驚嘆してしまった。『ソーシャル・ネットワーク』『アメイジング・スパイダーマン』『沈黙』などの映画で日本でもおなじみのアンドリュー・ガーフィールドがプライアー役。電力トラブルで挟まれた二度目の休憩後は少し集中を欠いたようにも見受けられたけれど、戸惑いながら“預言者”を引き受けていく最初の天使とのやりとりの場面の彼の物語への巻き込まれ方がとても良かった。