翌日の12日は、さらに信じがたい出来事が起こる。
福島の原発1号機が水蒸気爆発をおこす。
14日には、続いて3号機、2号機までも。。。
福島沿岸の街の人達は地震や津波だけではなく、
原発からの放射能被害までも受ける事となってしまった。
東京にも、この日までにたくさんのセシウムやストロンチウムなどといった放射性物質が降り注いだ。らしい。
私がその事実を知ったのは事故数ヶ月後。気を付けてももう遅い。
原発事故以降、東京では節電の日々が始まった。
スーパーも真っ暗だった。しかも品物も無い。
お米もお水も、インスタント食品も売り切れ。牛乳や卵も無い。
どの棚も空っぽで、最初の日は何も買えなかった。
ごはんと缶詰類の食事になった。
それでも、温かいゴハンを食べられるんだ。
避難所の人達の食事の事を想像し、悲しい気持ちになる。
地震がおこって数日経つ。テレビに齧り付く毎日。
ようやく親戚達と連絡が取れるようになった。
宮古に住む姪っ子一家が一番心配だった。
津波が来た時間が時間だったので、
港の方にいってやしないかと気が気ではなかった。
3/12送信したらしい数日遅れのメールが届いた時の気持ちは忘れない。
「ろうそくで生活しています。生きてるってみんなに伝えて」
メールを読んで、わあわあ泣いた。
人の無事を知って、あんなに嬉しかった事は今まできっと無かった。
親戚知人には、家が2階まで浸水した人、家が無くなった人もいたけど
とりあえず、みんな命だけは無事だった。良かった...と、思っていた。
でも
従姉の旦那さんの妹さん家族3人が陸前高田で安否不明。
このことは、夏におじさんと会って、話を聞くまで知らなかった。
両親は、経営している飲食店で募金を募り始めた。
お客さんが、あたたかな気持ちを募金箱に入れて下さる。
ある程度の額になった時、
直接届けに行こうとなった。
4月5月の連休で岩手に行く事になった。
せっかく行くんだから、車に積めるだけの物を持って行こう。
みんなで相談して、子ども達の喜ぶ物をも持って行こうと決まった。
ジュースや駄菓子、おもちゃ、マスク、詰めるだけ詰んだ。
いろんな支援団体の方から様々なアドバイスをいただいた。
ネットで、子どもの数が多い避難所を調べる。
隣りに幼稚園も併設されている山田南小学校へ行く事に決めた。
お父ちゃんと、旦那と私、そしてハナ。
ガタガタになった東北道を、盛岡に向かって出発した。
高速では、かなりの数の自衛隊や警察車両を見かけた。
九州からだったり、四国からだったり、日本全国から応援がやって来ていた。
いつもなら2、3日はゆっくりしていく盛岡の親戚の家に寄り、
みんなの元気な顔を見てからすぐに岩泉へ向かった。





