公認犬猫師 -9ページ目

公認犬猫師

公認心理師のブログですが、これまでの病院臨床で感じたことや現在の児童指導員として感じたことなどなど書いていきたいと思います。

こんちゃ犬猫です!


どんな母親でも子供の感情を理解できるのはせいぜい50%くらいだろうとFonagyという人は書いてる。


仮に私はできるという人がいたらそれは幻想であり、自分の気持ちを強制しているに過ぎないだろう。


BatemanFonagy2016)は臨床家は誤解をすることを認めないといけないみたいなことを書いているのだけれど、まさにその通りだと思う。


BatemanFonagy2019)では、ちょっとした誤解やそれを調整することで理解をアップデートしていくんだ見たいなことを書いている。


なんかPiagetの理論を連想するようなところがあるのかもしれないが・・・しかし臨床場面で間違いを認めるのはかなり勇気のいることかもしれない。


ことにBPDの患者さんを相手にしている時は余計に神経を使うかもしれない。


しかし前にも書いたように謙虚な姿勢で、自分が間違っていたということを素直に認めることは、また自分は間違える存在であると、認識していることは、関係性を作る上で必要な作業なように思う。


 心理士あるあるだが、心理学をやっていない人に、「心理士/師です」なんていうと、時々「人の気持ちがわかるんですか?」と言われることがある。


そんなことできたら心理士が世界の覇者となっていることだろうし、そもそもこんな薄給で生活してない。そんなことは置いといて・・・メンタライジングのスタンスにNot Knowingというのがあって、無知の姿勢というもので云々というのも以前書いたことだが、最近の本(BatemanFonagy 2019)では「inquisitive stance」という言葉が登場している。好奇心を持ったスタンスと単純に訳せばそうなるが、専門的な訳は偉い先生の訳を待つこととしよう。


ただInquisitiveなスタンスは、他の人の心について学ぶことで、自分の心が影響されたりするということを意味する。そしてそこではイマジネーションが強調される。なぜイマジネーションが強調されるのかというと、イマジネーションには、人間の複雑さや文化的な創造性を作り出すからだそうだ。その一方で、精神病理的障害や心理的な負荷に対する傷つきやすさというものはそのままになっているとも書いてある。ある意味で、イマジネーションの光と影といった具合だろう。メンタライジングというのは、この光と影の中にあって、ーFonagyは対人関係上の“workhorse”なんて言葉を使ってるが、まさに働き馬の如く、社会的なイマジネーションの中で働く存在のようだ。メンタライジングは徐々に社会との関わりを強調するようになっている。それは、人が生きるのは社会的な関わりの中であるというごく当たり前のことが前提となっているように思う。ただ愛着に問題があって、安定していない人たちにとってそれは当たり前の前提ではないかもしれない。メンタライジングはそういった人たちがどううまく社会で生活できるかということを考え、フォローする治療であると言えるそのためには、まず相手を知る事が必要で、そこにNot knowinginquisitive stanceというスタンスが必要なのだろう。


 メンタライジングは人間の想像力の一側面であると言うようなことをFonagy2019)が言っていると以前書いた。また同書で、「人間の想像力は社会の複雑性や文化的創造力を作り出す面と、もう一つ、心理学的障害や精神的苦痛に対する個人的な脆弱性を置き去りにしているという両面があり、メンタライジングはその両者の間を馬車馬のごとき(貢献する)立場にある」と記している。イマジネーションは個人という枠から宇宙という規模まで果てしなく広がる(なんか厨二病っぽいことを書いてる気もするが・・・)。そもそも知覚するものすべては脳内の想像であり、ざっくり言えば表象である。この表象は専門的に言いだすときりがなく難しくなると思うので、私の知能ではついていけないが、崔?仁先生の書かれた「メンタライゼーションでガイドする外傷的育ちの克服」という本の中で、お城のジオラマと言うメタファーであれば何とか理解できる。お城には一の丸、二の丸、物見櫓、天守閣、等々色な個所があって、それぞれのお城でその配置に個性がある。どの場所に何があって、どういう人がいて、どういう機能をしているのかを詳しく知っているということは、お城を守るときとか、また新たにお城の機能を新設したり、場合によっては他のところにお城を創るという上で重要である。もしお城の構造を知らないで育ったら-それは極論かもしれないので、本丸の片隅しか知らないで育ったら、他にお城を創るどころか、自分のお城のどの部分で何が起きているのかわからない。お城という言葉を心に入れ替えてみれば、自分の心を深く広く知ることができれば(100%は無理だけれど)、自分の心に何が生じているのかを想像しやすくなる。面白いのは想像はどんどんと膨らんでいくところ、または高次の創造性を生み出すところ。これがFonagyの言うところの社会の複雑さや文化的創造力というところなのかもしれない。逆に、閉ざされた想像力は、悪い意味でどんどん膨らんでいき、その人をむしばんでいくことがある。それがFonagyのいう個人的な脆弱さを置き去りにする側面なのかもしれない。これらのことについてはもう少し勉強してからまた書くかもしれない。


「愛着と精神療法」という今となっては古い本がある。その中の序文で「良い治療者が患者と共にしていることは、うまくいっている親子が子どもと共にしていることに類似している」というホームズの言葉が引用されている。私の狭い視野から心理療法の世界をみると、一時エビデンスエビデンスと声高に叫ばれていた勢いが少し弱まって、各療法に共通する「何か」を探ろうという動きに変化しているように思うが、気のせいだろうか。Fonagy2014年の論文で、その共通因子がメンタライゼーションだみたいなことを書いている。その文脈で語られているメンタライゼーションは、社会と個人の繋ぎてだったり、治療者と患者の関係性の構築と言い換えられるようだ。治療者が椅子にふんぞり返り患者に対して「君にはこういう問題があって、こうこうこういうことだから、○○◆」とかいうことは、古典的とさえ言われることがある。心理療法に何が必要なのかを一概にいうのは難しいが、治療者と患者が互いに作り上げていく「フィールド」なのではないかというのが今のトレンドなのかもしれないちょっと話がそれたメンタライジングの目的というのは、ある意味で関係性の構築であると言える。それ故に「心理的な洞察をえること」が目的ではない。もちろん結果的に洞察を得ることもあるかもしれないので、メンタライジングの治療において、洞察をしてはいけないという訳ではない。メンタライジングの目的につてい、Fonagyらは「治療に関与する人のメンタライジング能力を高めること」と2019年におこなわれたMBTのトレーニングのレジュメに書いてある。それはある意味で、筋トレをするのと似ている。いわばメンタライズ筋を鍛え、外的な社会でそれを活かす。そういうようなイメージ。


バイコロマルー