・無意識を無意識だといえるということ
無意識というのは、意識に上がらない意識のことだ、などとありきたりな説明をしてしまうが、実際にその言葉にはさまざまな意味があり、またその言葉を使うことには賛否がある。
どこまでが無意識なのっていう疑問がある。
思い出せるんだったら無意識ではないだろう。フロイトに言わせれば前意識ということになる。
また自由連想法を通して又は夢を通して無意識を解釈するという初期の精神分析は今思えば権威的な印象がするけど、魔女というレッテルを貼られた上処刑さえされていたヒステリーの人たちを救ったという点では評価されるべき人なのだろう。
ちょっと話がズレたけど、無意識というのは便利な言葉なのだけど、実際難しい。なんせ「無」なのだから。無をどうして有と理解するのか。なんか禅問答的な感じがしないでもないが。
例えば自転車に乗ることを説明してと言われてもなかなか説明できない。乗れる人にとってはそれが当たり前だからだ。
でも当たり前だから説明できないのかと言われるとそれも困るので、一応作業記憶とか名前をつけてみる。
では作業記憶は無意識なのかという問題が生じる。
そうだとも言えるし、そうじゃないとも言える。
まさに玉虫色の答えだ。
私は自転車に乗っていることを意識することはできる。がしかしどうやって自転車に乗っているのだろう。
そう考えた途端、わからなくなる。
おそらくそれは感覚の話だからかもしれない。
オートフォーメンション化された記憶とも言える。
日常生活においていちいちその動作を思い出していては時間がかかって仕方がないものって割と多い。
そう言った無駄な時間を省くために記憶のオートフォーメンションをしている。
かつて自然の中で生きていた頃、危機が迫った時考えるんじゃなく、咄嗟に行動にうつすことの方が身を守れたのだろう。
嫌な記憶がなぜこびりつくように記憶に残るのかというのもこの辺と関係しているようだ。
そう言った記憶が今の自分に影響することは自明な気がする。でもそれを証明できるのかというと途端に難しくなる。
フロイトは上記したようにそれを自由連想法や夢を通して理解することができるとした。
ただしつこく言うのだけれど、それが無意識だとどうしたら言えるのだろう。
逆にそれが無意識ではないとも言えない。
難しいところだ。
なので行動療法などはそれを無視した。
もちろん表面的にだけれど。
なぜそんなことが言えるのかというと学習された行動は常に意識されるとは限らないからだ。
無意識を語ることは実際難しい
