メンタライジングというのは、人間のイマジネーションの一側面なんだろうけど、そこには自分や他の人の気持ちや考え、信じていること、望んでいることなどの知覚や解釈も含まれるのだそうだ(Bateman & Fonagy 2019)。
じゃぁもう心じゃんって言う話だけど…アンタッチャブルな様子。
①私
②相手
③私と相手との関係性
っていう三つがあって、メンタライズするということはこの3つのことを行っていることをさすっぽい。
別段目新しさはないけどねwww
そのメンタライジングには、
明示的なメンタライジングと
黙示的なメンタライジングがあって、
前者の場合、ざっくり言えば意識してメンタライジングをしているのだけれど、
後者の場合は自動的にメンタライジングしている。
ある先生が講演で言っておられたのだが「いつもいつも意識的にメンタライジングをしていたら、疲れ切ってしまう」ので、自動運転みたいな感じになるのだろう。この明示-黙示メンタライジングは、操作-自動メンタライジングと呼ばれることがあるようだ。
私と相手との関係性が、信頼のおけるものであれば、わざわざ意識しない。例えば自転車に乗る時に、その乗り方を意識しないように、メンタライジングは自動運転をしている。しかしいざその相手の表情や声のトーンなどが変ったら、明示的なメンタライジングに変換されるそうだ。
でもこれってメンタライジングじゃない気もする。なんかいろんなことを組み合わせて使うのがメンタライゼーション流らしい。
「メンタライジングは心理療法の共通のファクターである」とFonagyとAllisonはThr role of mentalizing and epistemic trust in the teherapeutic relationship(2014)という論文の中で書いてるんだけど、これはめっちゃ自惚れ発言って思うけど、それも含めて、メンタライジングというのは心理療法をやる上では当たり前の感覚ですよということを言いたいのだと思う。
メンタライジングの話を他の学派の人に話をすると「それって当たり前のことじゃん」みたいに言われることがあるのだけれど、まさにそんなことをFonagyらは言っているのだと思う。Allenという人は、メンタライジングを「素朴で古い療法」と言っているしね。
ようは自分の心を見つめ人の心を思い関係性を考えるというのは人間が人間たるゆえんなのかもしれないなぁと思ったり思わなかったり
電車降りなきゃ
まったねー
バイコロマル