キング・クリムゾンのリハーサルは、年明け1月13日から開始された。先ず契約に名乗りをあげたのが、当時イギリスで最高の人気を誇っていたムーディー・ブルースのプロデューサー、トニー・クラークである。自身が立ち上げた「Threshold」レーベル最初の契約アーチストにしたかったからである。
3月26日にはムーディー・ブルースのメンバー3人が、6月の英国ツアーのサポートにクリムゾンを予定していた為、クリムゾンを視察に来た。何日かしてツアー同行のキャンセルがクリムゾンに連絡された。表向きは音楽的なバランスが悪いという事だったが、真相はクリムゾンの音があまりに凄過ぎたという事らしい。
クリムゾンの音楽は日増しに人々の口を伝って、多くの音楽関係者の耳に届いた。そしてキング・クリムゾンの正式なデビュー・ステージは4月9日。イギリスのあらゆる音楽関係者の溜まり場であるロンドンのクラブ、スピーク・イージーにて行われた。
コンサートは大成功だった。メロディ・メーカーをはじめとした多くの音楽誌はこの夜のステージを取り上げ、クリムゾンを絶賛している。
3日後の4月11日には、Tレックスのサポート・グループとしてステージに立ち、Tレックスを完全に喰った形で大成功を収めた。この晩、聴衆の中にビル・ブラフォードがいた。クリムゾンとの最初の出会いであった。
「このグループには僕の理想を越えるほどの何かがあった。あの日から僕にとってキング・クリムゾンは大変に重要で忘れる事のできないバンドになったんだ。」
イエスのデビュー・アルバムは、この4ヶ月後に発売されている。
「このグループには僕の理想を越えるほどの何かがあった。あの日から僕にとってキング・クリムゾンは大変に重要で忘れる事のできないバンドになったんだ。」
イエスのデビュー・アルバムは、この4ヶ月後に発売されている。
5月2日には、ある事件が起こった。マネジメントの手違いで、クリムゾンはダンス・パーティーに「ソウル・バンド」として前座出演してしまった。
「21世紀の精神異常者」のイントロがホール一杯に鳴り響いた時、集まった人々の顔からは楽しそうな表情が一挙に消し飛び、困惑と苦痛と不満に満ちた表情に変わった・・・。
「21世紀の精神異常者」のイントロがホール一杯に鳴り響いた時、集まった人々の顔からは楽しそうな表情が一挙に消し飛び、困惑と苦痛と不満に満ちた表情に変わった・・・。
5月14日、フリップに「個人的」な転機が訪れた。
立ってギターを弾く事をやめ、椅子に座ってプレイする事に決めた。
もちろんメンバーたちはあまり歓迎しなかった。
グレッグ・レイクが言う。
「おい、座るなよ。きのこみたいだぜ。」
フリップは答える。
「いやだめだ。そういうふうには弾けないよ。」
後にフリップはその理由を語っている。
「立ってムーディーにショー・アップするなんて私の知ったことじゃないね。私の仕事はただひとつ、演奏することだ。私から見れば、ステージで演奏するのはそれだけ難しいってことだ。もちろんレコーディングはもっと大変だけど、ステージだととにかくそこに存在してギターを弾かなくちゃいけないわけだから。」
立ってギターを弾く事をやめ、椅子に座ってプレイする事に決めた。
もちろんメンバーたちはあまり歓迎しなかった。
グレッグ・レイクが言う。
「おい、座るなよ。きのこみたいだぜ。」
フリップは答える。
「いやだめだ。そういうふうには弾けないよ。」
後にフリップはその理由を語っている。
「立ってムーディーにショー・アップするなんて私の知ったことじゃないね。私の仕事はただひとつ、演奏することだ。私から見れば、ステージで演奏するのはそれだけ難しいってことだ。もちろんレコーディングはもっと大変だけど、ステージだととにかくそこに存在してギターを弾かなくちゃいけないわけだから。」
同じ日、ジミ・ヘンドリックスが楽屋を訪れた。フリップが右手を差し出すと、ヘンドリックスは言った。
「左手で握手をさせてくれ、左手の方が心臓に近いから。」
ヘンドリックスとの出会いは、これが最初で最後だった。
フリップはヘンドリックスがギタリストだとは思っていない、と後日語っている。しかし、ヘンドリックスとの出会いは、フリップが魔術・秘教といった類の思想体系を希求するようになる最初のファクターとなった。
ジミ・ヘンドリックスの死は、1970年9月18日、2ndポセイドンを発売してから約5ヵ月後の事である。
「左手で握手をさせてくれ、左手の方が心臓に近いから。」
ヘンドリックスとの出会いは、これが最初で最後だった。
フリップはヘンドリックスがギタリストだとは思っていない、と後日語っている。しかし、ヘンドリックスとの出会いは、フリップが魔術・秘教といった類の思想体系を希求するようになる最初のファクターとなった。
ジミ・ヘンドリックスの死は、1970年9月18日、2ndポセイドンを発売してから約5ヵ月後の事である。
6月12日からトニー・クラークのプロデュースで始まった。ただこの時点でトニー・クラークの申し出通りに「Threshold」レーベルからの発売は決まっていなかった。レッド・ツェッペリンのおよそ倍額の契約金を提示したレコード会社も現れ、「Threshold」もあわせて4社の競合だった。
6月18日全ての録音が破棄された。何が起こったのかはさだかでない。
そして7月16日はトニー・クラークのプロデュースも中止され、それ以降クリムゾンのセルフ・プロデュースとなった。
そして7月16日はトニー・クラークのプロデュースも中止され、それ以降クリムゾンのセルフ・プロデュースとなった。
レコーディング中断時の7月5日、元ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズ追悼コンサートがロンドン郊外のハイド・パークで行われ、サポート・バンドの1組として、クリムゾンが出演する事になった。コンサートは大成功だった。65万人の聴衆にクリムゾンの音楽は受け止められ、クリムゾンの名はイギリスのロック界で誰一人知らぬ者はいなくなった。
7月17日から再度宮殿のレコーディングに入った。予算を大幅に超過した宮殿レコーディングのために、マネージャーは自分の持ち物をすべて売り払い、自宅まで抵当に入れて借金したという話まで残っている。
苦痛に満ちた表情の男が大きな口を開けたあのジャケットは、イラストレーターのバリー・ゴットバーにメンバー達が意見を出し合い出来上がった。
1969年10月10日、宮殿はアイランドレコードから発売される事になった。
アビー・ロードを抜いて宮殿がメロディー・メーカーのヒットチャートでトップに立ったのは、1970年2月第2週の事である。
アビー・ロードを抜いて宮殿がメロディー・メーカーのヒットチャートでトップに立ったのは、1970年2月第2週の事である。
メンバー
Robert Fripp : Guitar
Ian McDonald : Reeds, Woodwind, Vibe, Keyboard, Mtn, Vo
Greg Lake : Vo, Base
Michael Giles : Drums, Percussion
Pete Sinfield : Words
Robert Fripp : Guitar
Ian McDonald : Reeds, Woodwind, Vibe, Keyboard, Mtn, Vo
Greg Lake : Vo, Base
Michael Giles : Drums, Percussion
Pete Sinfield : Words
