ふぐとキューロク (前編) | お客さん、終点です(旅日記、たこじぞう)

お客さん、終点です(旅日記、たこじぞう)

よく居眠りをして寝過ごしてしまう旅人の日記。みなさんが旅に出るきっかけになればと思います。(旧題名のたこじぞうは最寄りの駅の名前)

毎日使っていながらも、そのことについて詳しく知らないものの一つがトイレだ。

僕が小学校くらいのころはまだ東京都区内でも下水が普及していない地域があり、住んでいた家は水洗だが浄化槽方式で、父方の祖母の家は汲み取り式だった。

浄化槽は定期的な汚物の引き抜きが必要で、バキュームカーが来て作業をするのを見た記憶がある。それが何だったのか覚えていないが、汲み取り作業をしているとき、母は臭い消しのために台所で鍋に何かを入れて炒っていたような気がする。

 

今では政令指定都市では100パーセント近く下水が普及しているが、地方ではそうでないところが多い。

また高齢者の多い地域など下水が通っていても接続がされていなかったり、施設の老朽化によるメンテナンスも課題になっている。

 

高速道路が開通したり大きな商業施設がオープンしたりのようにはニュースにはならないが、下水やトイレの水洗化は地味ながらより切実な問題だと思う。

 

 

小倉にあるTOTOミュージアムを訪れた。

これまで知らなかったのだが、全国にいくつかあるTOTOの衛生陶器の生産拠点のうち、最も歴史が古い工場が小倉にある。

操業開始は1917年(大正6年)で、この地が選ばれたのは、陶器の原料や石炭が入手しやすく、またアジアへの輸出に便利な場所だったからだそうだ。

 

展示には、それまでの木製の便器と違う衛生的な陶器の普及を図ろうとした創業者の思い、こんにちの「ウォシュレット」に至る便器の変遷、それに各国の事情やお国柄に応じた様々な仕様の便器について展示がされている。

 

 

「ウォシュレット」というのはこの会社の商標だが、水の射出確度は43度で、これは独自の調査、分析の結果決められた最適角度なのだそうだ。

ミュージアムの解説員の方はどのようにデータを集めたのか詳細は解説していなかったが、社員に針金を張った便座に座ってもらい、肛門が来た位置に紙で印を付けるという方法だったらしい。

 

「みなさん、手が汚れたら洗いますよね。このように紙で拭く人はいませんわよね・・・お尻だって洗ってほしい」というCMも放映している。1982年のものだそうだ。なつかしい。

 

輸出や、海外の生産拠点で作っている便器も、中国向けの富裕層をターゲットにした製品、アメリカ向けの使用水量を抑えた仕様の製品など興味深い。

アメリカでは州によって使用水量の規制がある。洗浄水量を抑えるための技術として、便器の排水路の表面を滑らかにするといった工夫がされているそうだ。

 

さて、1階はショールームとなっていて、浴室やキッチンが展示されている。このミュージアムに来たのも妻の誘導だったのだろうか。

僕は今まで会社の仕事を終わって寝に帰る、休みがあればどこかに出かけるかで、家での時間を過ごすという発想はほとんどなかったのが、こんな浴室やキッチンがあれば快適だろうと思う。

 

 

次に門司港へ行った。

門司は明治から昭和にかけ、貿易港、客船の寄港地として栄えた街だが、レンガ積みの税関や商船会社のビルの残る一画が観光地として整備されている。また、高層マンションの31階が展望台として公開され、ここからは関門海峡を臨むことができる。

外国からの観光客も多い。ただ、欧州からのお客さんにとっては微妙な観光地かもしれない。レトロな洋風建築ならヨーロッパの港町にいくらでもあるからだ。

そんな話をしながら今度は僕の提案で九州鉄道記念館に行った。

 

門司港の駅は1891年(明治24年)に開業し、現在の駅舎が建てられたのは1914(大正3年)だそうだ。昔の雰囲気が残っている終着駅らしい終着駅は国内ではここぐらいなのではないかと思う。

ふと、大阪の湊町駅を思い出した。現在はJR難波という名前の地下駅になっているが、以前は構内がこんな感じだった。

 

 

記念館は駅に隣接した場所にあり、昭和の列車の旅を覚えている僕にとっては懐かしい場所だ。

まっさきに向かったのは「さくら」というテールマークを掲げた青い客車だ。さくら号は東京長崎間を走っていた寝台特急で、福山雅治氏が上京するとき、バイクを売ったお金20万円を手に乗ったことでも知られている。

寝台車の中を見ていた子供が、「わー、ここに住んでみたい」と言っている。

 

僕はさくら号自体は乗ったことはないが、同じシリーズの寒冷地仕様の車両が北海道でも走っていた。

小学校の時、父に頼んで道東の釧路に連れて行ってもらったことがある。そのときはじめて乗った夜行列車がこの車両だったのだ。

夜、なかなか寝付かれず、また未明に目が覚めて通路の補助いすに座って窓の外を眺めていた。列車は狩勝峠を越え、カーブを描いた線路をゆっくりと下ってゆく。新得という町の灯りが最初は左、こんどは右にとだんだん近くに見えてくる様子が忘れられない。

 

 

(つづく)