ふぐとキューロク (後編) | お客さん、終点です(旅日記、たこじぞう)

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よく居眠りをして寝過ごしてしまう旅人の日記。みなさんが旅に出るきっかけになればと思います。(旧題名のたこじぞうは最寄りの駅の名前)

(つづき)

 

さくらの横には赤とクリームのツートンカラーの「にちりん」号と青とクリームの月光号が並んでいる。日光菩薩、月光菩薩のようだが、「月光」は文字どおり夜行列車で、新大阪博多間を走っていた。これに対し、にちりんは博多と日向の国、宮崎とを結んでいたことからこの名前がついている。

 

電車にも家電製品のように50ヘルツ用と60ヘルツ用の違いがあったりするので厳密には違う車両なのだろうが、僕には東北本線の思い出がある。

赤い電車は、6歳のとき母と仙台に行ったときに乗ったひばり号に使われていた。これが列車に乗っての初めての旅行だった。当時、東京仙台間は4時間だった。

 

 

青い電車は函館に住んでいたころお世話になった。青函連絡船から乗り継ぐ、昼間の「はつかり」、夜行の「ゆうづる」に使われていた。

 

この青い電車は昼は座席、夜は寝台として使用できるは画期的な車両で、昭和40年代、昼夜兼行で車両を使うことにより、満杯状態だった車両基地の状況を改善するために開発されたのだと聞いたことがある。

 

折り畳み式ソファーベッドのようなシートが向かい合わせにあり、夜になるとこれを引き出してベッドの下段にする。上中段のベッドは飛行機のオーバーヘッド・ビン(荷物入れ)を開くように降ろして設置する仕組みだ。

 

ただ、特急としての活躍はあまり長くはなく、その後の新幹線の延伸や飛行機の普及もあって、多くが普通列車用に改造された。

 

妻と旅行をするときは、たいてい僕は話の聞き役なのだが、このような話をしだすと止まらなくなってくる。「ここの学芸員さんなの?」と妻は呆れた顔をしている。

 

 

記念館の入り口の近くには59634のプレートを付けた蒸気機関車が停まっている。

「キューロク」と呼ばれた9600形で、貨物や山岳路線での列車の牽引に使われた。

重い貨物列車を牽き出してもスリップを起こさないこと、また後継の機関車にあたるD51(デゴイチ)よりも一回り小さく使い勝手がよかったことから、大正生まれの古豪ながら現役の蒸気機関車として最後まで活躍した形式だという話を読んだことがある。

 

プレートの番号が「ごくろうさんよ」と読めるのだが、この機関車の来歴を見ると思わず感情移入してしまう。

1922年に神戸の工場で作られ広島に配属された後に富山へ。戦後は長く山形県と新潟県を結ぶ米坂線で活躍した後、1974年に筑豊の機関区に転属になり、最後の1年はそこで仕事をしたらしい。

国鉄の機関車はサラリーマンのように東北から九州へ、九州から北海道へといった転勤が多かったみたいだ。

 

僕も異動があったばかりだった。退職が近くなってから長く務めた職場を離れ九州へ転勤となった59634号機。どんな心境だったのだろうと思う。

 

 

翌日、「東洋のボスポラスだ」とポーズを取りながら写真を撮った後、渡船で下関に渡り唐戸市場に向かった。

 

 

下関は瀬戸内の周防灘、日本海の響灘にも面し、アンコウやクエなど様々な魚が水揚げされるのだが、下関と言えばやっぱりフグ。この街がフグで知られているのは伊藤博文と関係があるようだ。

豊臣秀吉の時代、出兵する前にフグを食べた兵士が相次いで死んだことからフグ食の禁止令が出され、その後江戸時代にもこの禁止令は引き継がれていた。

明治20年、首相となっていた伊藤博文が下関の老舗旅館で宿泊したのだが、時化のため魚が手に入らなかった。そのため女将がフグを供し、博文もこの味を絶賛したことが禁止令を解くきっかけになったというエピソードがある。

おそらく、この地では禁止令のもとでもフグがひそかに食されていたのだろう。そういえば2012年7月に牛の生レバーの販売、提供が禁止される前の日に同僚とレバーを食べに行ったことを思い出した。リスクがあっても美味いものを食べたいという人々の気持ちは昔と変わらない。

 

 

下関からさらに長府へ足をのばした。

妻は「佐幕派」を自任し、東国のシンパな我々で、長州というと何か構えてしまうところがあったのだが、長府は見どころの多い静かな城下町だった。またの機会に紹介したい。