真珠貝はおいしいのか(前編) | お客さん、終点です(旅日記、たこじぞう)

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よく居眠りをして寝過ごしてしまう旅人の日記。みなさんが旅に出るきっかけになればと思います。(旧題名のたこじぞうは最寄りの駅の名前)

貝には外套膜と呼ばれる器官がある。ホタテであれば「ひも」と呼んでいる部分だ。外套膜は炭酸カルシウムを分泌し、貝殻を形成する。

また、アコヤガイやアワビなど一部の種類では、貝殻の内側は光沢を帯びた真珠層となっている。これは貝殻の内側を滑らかにし、貝の体の表皮との間に寄生虫などが入らないようにするためだと考えられている。

 

外套膜は何かのきっかけで切れ貝の体内に入るとこれが生き続け、真珠袋という器官が形成される。

そして真珠袋は、これも何かのきっかけで、体内に入り込んだ小石などを核にして貝殻を作り始める。これが自然界で形成される真珠だ。

 

 

伊勢にやってきた。鳥羽にあるミキモト真珠島では、自然界で形成される真珠と、それを人間が採取しアクセサリーとしてきた歴史、そしてこの地で開発された養殖についての展示がされている。

入り口にある顔出しパネルは、どう見てもお爺さんが愛人に真珠を贈っているようにしか見えないのだが、このパネルの男性のモデルは「世界中の女性の首を真珠で締めて(飾って)見せます。」と言ったという御木本幸吉氏だろう。

 

 

御木本氏は1858年(安政5年)、鳥羽の生まれ。明治10年、上京し横浜と横須賀に立ち寄った際に、中国人がイリコやアワビ、寒天を高値で買い付けていること、また西洋人が真珠を宝石として買っていることを目の当たりにした。これはすべて、地元の志摩でとれる産品だ。幸吉はさっそく海産物の商売を始めるのだが、ちょうどそのころ真珠の母貝であるアコヤガイが乱獲によって急激に減少していることを知った。

 

カキの養殖ができるのであれば、アコヤガイも養殖ができるはずだと考え、アコヤガイの養殖を始める。ただ、真珠の形成は偶然に頼っていることに変わりはなく、とても事業化できるものではない。

(真珠の産地であったペルシャ湾では、1週間で採取した天然の貝35000個のうち、その貝から取られた真珠が21個、価値のある真珠は3個であった、という記録が残っている。)

 

 

そこで、専門家に教えを乞い、真珠そのものを養殖する方法を考え出した。

ごく簡単に言うと、アコヤガイの体内に別の個体から切り取った外套膜と、真珠の核とするためのある種類の貝殻の破片を移植するという方法だった。

この作業が歯科医の技術に似ていることから知人の歯科医をスカウトしたというエピソードもある。

 

 

その後、よく知られている通りミキモトの真珠は世界的なブランドとなるのだが、この物語から感じるのは、伊勢や志摩の人たちが持っている進取の気質のようなものだ。

それは、伊勢神宮に詣でるために往来した旅人から全国の情報を得られた土地柄から来ているのだろう。

 

博物館の階下にはお店がある。プレゼントをしたかったが、アクセサリーは身に着ける人が気に入ってくれなければ意味がない。妻が目を遣っているのは一番高そうな商品だった・・・

 

(続く)