「三田(さんだ)まで私も何度か汽車で行ったことがあります。トンネルでは窓を閉めて。煙が中に入ってきてえらいことになるので。」
武庫川渓谷沿いに武田尾温泉まで歩いてきた。廃線跡を歩ける場所として関西ではよく知られたハイキングコースだ。
フジの花はほぼ終わり、ピンク色のタニウツギの花が咲く時期になっていた。
同じ仲間のウツギ(卯の花)の白い花が歌にうたわれるように、立夏を思わせる花だ。
この線路、福知山線は明治30年代に阪鶴鉄道という私鉄によって建設された。
阪鶴鉄道は大阪と軍港の舞鶴とを結ぶ重要な路線であったことから、東北本線や山陽本線などとなる私鉄とともに国有化の対象となった。
このときの補償を元手に設立されたのが、のちに阪急電鉄となる会社なので、この線は阪急ゼロとでもいうべき路線だ。
トンネルはよく見ると、上のアーチの部分はレンガ巻きで、下の側壁の部分が石積みになっていて興味深い。
この時代に建設された鉄道はとくに堅牢だったのだろう。何年か前、同じころ建設された南海線に紀ノ川にかかる鉄橋の架け替えの話がでたとき、調査の結果まだ十分使えるということがわかり現在も使用されている。
この福知山線は複線化、電化の必要から、長いトンネルの新しい線路が作られ、昭和の終わりころに切り替えが行われた。
約5キロの道を歩き終え、武田尾温泉に行った。温泉は2つあるのだが、日帰り料金の安い「元湯」の方に行ってみた。
昭和の面影を色濃く残す、つまり、おんぼろな、でも趣のある温泉施設だった。浴場には「ケロリン」の風呂桶がある。
まだ、ハイキングの客は多くなく、男湯の先客は2人だけだった。
1人の年配の男性に「ハイキングですか?」と声をかけられる。尼崎に住んでいて、ここには何度か来たことがあると言う。このときに聞いたのが冒頭の話だ。
じつは僕も列車が走っていたころここを通ったことがある。
もう「汽車」ではなかったが、客車は昭和20年代に造られた古い車両だった。そのころ住んでいた東京近辺ではもう見られないものだったので何枚も写真を撮った記憶がある。扉は自動ではなく、内装はニス塗り。蛍光灯ではなく白熱灯が使われていた。
「ここにホームがあって、こっちが上り線。」と、なつかしさに駅の跡で妻に説明すると。「前世が列車だったような話し方をするね。」と言われる。
(歓迎のアーチは以前のまま)
(川沿いの線路だった場所)
(古い駅舎‗道場駅)
(走っていた列車)