両親を見送りつつ、いつしか自分も68歳になっていた昭和の若き日を思いながら、下山を楽しむ日々である座敷童をはじめ,いろいろな不思議体験を織り交ぜながら,自分史をまとめていきたい
私が大学を出るまで,8年の歳月を要することがわかってから私はすでにあることを決めていたそれは公務員を目指すことだった採用試験の点数が需要視されることは学歴に傷のある者には好都合だ私は転専攻することを決めた頃から公務員試験の勉強を始めていたしかし一般教養はなんとかなっても専門科目がどうもダメだった行政学,経済学,法学……苦手の文系科目だらけである高3のとき「政治経済」の授業中に教室の最後列でキャッチボールをしていた自分を呪ったが完全に手遅れだった実際に公務員試験も数回受けてみたやはり,一般教養で受かっても専門科目で落ちてしまう「やはりこれはダメなのか」と感じた大学の7年目の春私は教育学を専門科目とする公務員試験を発見したのだそれは裁判所の職員である。裁判所の職員なら法律学が専門だだが,その職種は教育学で受けられたのだその職種とは家庭裁判所調査官補この試験は,一般教養のほか教育学,社会学,心理学を選択できる教育学は,教育社会学,教育心理学教育原理,生徒指導の4科目である家庭裁判所の調査官とは家庭内のさまざまな争議離婚の調停や,少年事件の裁判資料を実際に当事者と面談をしてつくるそういう仕事だった私にぴったりの仕事だったしI教授は調査官の研修をした人であるだが,この試験は年齢制限があり26歳までしか受けられない私が大学の8年生になった年が最後のチャンスになるのだ25歳のとき,まず試し受験をしてみた合格率25%ほどの一般教養は合格そして8月に専門科目試験を受けた公務員試験は,普通「五択」だが調査官は文章力を求められるため「論文試験」だった朝9時ぐらいから夜の8時ぐらいまでずっと原稿用紙に向かって書き続ける完全に準備不足だったがどういう感じなのか,よい経験ができた完全に筆が止まった私は試験の途中で帰ることにしたちょうど,教区キャンプのスタッフとして山に向かうところだったのでリュックを受付に預け,帰り際に「また来年来ます」と受け取ったが係官はびっくりした顔していたさすがに,キャンプにいく格好で試験を受けに来る人は珍しかったろう私はその年を境に教区キャンプから完全に足を洗った教会活動にもほとんど力を入れず勉強に精を出すことになるのだった(それでも,週末は仲間が集まり 麻雀と飲み会は続いていたが……)そして,いよいよ勝負の26歳私は大学8年生を迎えるのであった
「死後の世界」を確信するような出来事は間取り図をつけて,詳しく書こうと思う私の「第二の学生生活」は極めて順調だった研究室にいると,新任の教官が挨拶にくる「どうしたのですか?」と聞くと「上司の○○教授にいわれまして」「はぁ,それはごていねいに…どうも」私は困惑気味に応えたが,7年生ともなると完全に教育学科のヌシだったカウンセリングの始祖カール•R•ロージャズにも国際会議で会うことができたのもこの年であるでも、集団で会ったので「見た」に近いし通訳なしなので、何を言っているのかさっぱりわからなかったある教授とマンションをシェアをして週末だけ、実家を離れることになった当然、部屋は学生たちのたまり場になるお金はなかったが,焼酎の一升瓶を空け大根だらけのおでんをつついて朝まで語ったり,麻雀をしたりまさに青春真っ只中だった教会では,まだ教会委員を続けていたが私の心は,徐々に信仰生活から離れていった教会から子どもの姿が消えていったのもこの時期であるそれは,私の気持ちが離れたからではない当時、世間に爆発的に広まりつつあった「あるもの」が子どもたちの楽しみを家庭内に向けさせ外に出ることを強力に拒み始めたのであるその「あるもの」とはファミリーコンピューター!あの赤い物体の魅力汚染力はすさまじかったあれだけ盛況だったキャンプも参加者が激減し私たちスタッフからも活気を奪っていった私はゲーマーだったがファミコンは買わなかったいや,実際は「買えなかった」のである毎日は充実してはいたのだが自分自身に避けられない分岐点が近づいているのも事実だったこんなことばかりは,していられない仕事につかなければならないこれでは欲しいものも買えないし家族を養うこともできない教育学科に移ったときから既に教師の道は諦めていた植木屋になる道も断ってしまっていた……では,どうするのだ人よりも社会に出るのが4年も遅れている彼女はいる その両親とも会っているので何とか形をつけなければいけない未婚者は一人前とみなされない時代である一般企業への就職は、もう無理だろうネットなどない時代,私は必死に探したそして,私はある魅力的な職業を見出すのだ
礼拝堂にいると,足音が聞こえることがあるお約束のように,暗いときによく聞こえる夕の祈りのときにそれは顕著になるその音は,スリッパを履いているようなヒタヒタ…という音で,多くの証言があるあるとき教会の2階席にオルガンが設置されたそれは本格的なパイプオルガンがアメリカから入る前の,練習用オルガンだったリードオルガンばかり弾いていた私にはとても新鮮で,教会に行くたびに弾いたものだ日曜日の夕刻,会館にいる仲間から外れて一人オルガンを弾いていると自分の足の下,すなわち1階に人の気配があるよく事務作業をしている人たちがいたのでまたポストの整理でもしているのだろうと思いそのままオルガンを弾いていたすると、誰かが2階席への階段を上ってくるヒタ…ヒタ…ヒタ………ゆっくりと(誰か来たな?もしかすると彼女かな?)当時、五歳年下で、短大に通っていた女性とお付き合いしていた(私の今の家内である)(私を脅かそうとしているのかな?)(少し様子をみてやろう…)と知らん顔でオルガンを弾き続けるやがて、2階席のドアが開く気配がする(来たな!)ヒタ…ヒタ…ヒタ…という音はミシ…ミシ…ミシ…という床の軋む音に変わっていた(よし、逆にこっちから脅かしてやろう)と、弾き続けるだんだん近いてくる3m…2m…1m…50㎝…30㎝……視界の右端に,人の顔らしきものが入ってくる鼻…口…目…鼻息が首筋にかかる(今だ!)バッと振り返るそこには……………誰もいなかったオルガンのスイッチを切る間もなく私は脱兎のごとく仲間たちのいる会館に走ったそして叫んだ「で……出た~~~!!!!」今でも礼拝堂で写真を撮ると,よくオ-ブが映る牧師と2人で礼拝をしているときなどは聖歌をアカペラで歌っているのだがどうも3人目がいるのだ自分の声をセーブして,耳を澄ましてみるやはり,もう一人いる一体誰が歌っているんだ?「死後の世界」があるのかどうかそれは死んでみなければわからないでも,私は確信している2度目の交通事故とTくんのこともそうだがその後,さらに確信を深めることが起こるのである
教区キャンプのリーダーの務めは24時間子供たちと接することなのだが最も厄介なのは,寝かしつけることである相手は中学生だ 一筋縄では寝てくれないキャビンでは就寝時間の夜9時になるとあちらこちらでと「寝ろ~!」という怒声が響くそれに対して抵抗する中学生の歓声静かになるのに30分はかかるのだ睡眠不足の影響は、健康にすぐに表れる食欲不振、頭痛、腹痛……枚挙にいとまがない私にとって,5年目のキャンプを迎えていたI教授と出会って,初めてのキャンプ私はWSで学んだことを応用した就寝時間,私はラジカセを持ってキャビンに戻るキャビンは6棟あって1棟は本部と食事をつくる婦人たちの宿所中学生のキャビンは5つで1つのキャビンに20名の中学生がいる一日の反省会のあと,布団を敷かせるのだが私はまず布団を敷かせ,仰向けにさせるそして,ゆっくりと話し始める「これから5分間だけ,僕の言うことを聞いて欲しい そのあとは起きてしまっていいからね」「ほんと?起きていていいの?」「あぁいいよ さぁみんな両手をまっすぐ伸ばして 両脇におこう 全身の力をぬいて…… 目を閉じてゆっくり呼吸をしよう さあ,今日のあったことを思い出そう……」と始めるゆっくりとした口調で一日を振り返るもちろん静かな音楽を流しながら3分後にはあちこちで寝息が立ち始めるそして5分後には全員撃沈静かにドアを閉め,ミーティングのために本部に向かう他のキャビンでは,いまだに怒声が響いているあれは寝かしつけではない起こしているのである生徒は一日のプログラムで確実に疲れているその疲れに気づかせてあげるだけでいいのだ後は勝手に寝てくれる自分自身の体調に対する感覚の覚醒であるそして朝を迎える6時起床 私のキャビンは大声から始まる「だまされた~!」「ねちゃったよー!」さすがにこの方法,翌日は通用しないだろうでも私は同じことをやる そして全員轟沈するキャンプの最終日でさえ,大半は寝てしまうのだったそして,私のキャビンからは一人の病人も出なかったのである
WSでは夜のセッションで床に大の字になり,目をつぶり静かな音楽をかけながら1日を振り返るだんだん体が床にめり込むような感じがして地球全体の鼓動が聞こえてくる……なんてことができるようになると覚醒も相当のものである感覚を覚醒させることと授業の間には深い関係がある生徒は何かを発言しようとするときに身体のどこかを動かすこれは大人も同じであるこの微妙な変化に気づける講師と気づけない講師で,成果は変わってくる私の所属している個別指導塾では生徒とホワイトボードと講師の位置関係が三角形になるのが望ましいとされる生徒の変化を見ながら板書をする視線の変化にも気づくことができるからである生徒はノートを見ているのかテキストを見ているのかホワイトボードを見ているのかはたまた講師を見ているのか50mぐらいの遠いところに視線がいっている生徒に「今,別のことを考えていたでしょ」と言うと「え…,どうしてわかったの?」と返してくる「じゃあ,もう1回今のところ説明しようか」「お願い」集中していないことに気付けるかどうかであるしかし,感覚が覚醒している講師はほとんどいない「せっかく教えたのにわかっていない」と言って,できないことを生徒の責任している本当は,自分が生徒のことを見てないのだ個別指導は講師との出会いがすべてであるこの文章をご覧になっている受験生の親御さんがいたとしたら一言申し上げておこう講師を選ぶときには授業をちらっと見せてもらうといい講師がどこを見ているのかそして生徒がどこを見ているのか2人が別々のところを見ているようではとても授業が成り立っているとはいえない感覚を覚醒させることは,生徒にとっても大切だここで,話題をキャンプに戻してみようと思うキャンプの夜は生徒を寝かせるのがひと仕事だ5年目のキャンプで,私は一計を案じたのである
私がワークショップを通じて学んだことそれについて語るにはたった一言で済むそれは「自分を知ること」だった何度も何度もWSに参加しているうちに私は自分自身をどうにも好きになっていった自分の長所はもちろんのこと短所であったと思っていたことでさえ自分だけが持つかけがえのない特質であり心の底からいとおしくなってくるカウンセリングが成立する条件としてカール・R・ロージャス氏は① カウンセラーの自己一致② 無条件の肯定的配慮③ 感情移入的理解の3つを挙げている特に①の「自己一致」が難しい「現代人は何でも知っている。 しかし,自分自身については何も知らない」といったのは,19世紀の哲学者カール・ヒルティだが自分自身を知り,自分自身を受け止めあるがままの自己であることを志向する人は21世紀の現在でも希少な存在だ自分自身を受け入れていない人は他人を受け入れることができない誰かに相談を受けたときに「そんなことはよくあることだよ」とか「私だって苦労してきたんだ」とか返してしまういや,そのように思っただけで相談した人は,一瞬で心を閉ざすだろうそれは学校教育にもいえることであって生徒が教師に心を閉ざすような場面が多々ある原因は教師が自己一致していないからであるI教授はよく言っていた「教えるから学ぶのではない」「教えることと学ぶことはまったく別のことだ」「ちゃんと教えたのに,生徒が学んでいない」「僕が教えたようにやればできるはずだ」私の職場でも,よく講師から聞かれる苦言であるなぜ「学ぶ」という現象が生じないのかそこに切り込む人は誰もいない実は「教えること」と「学ぶこと」との間には生徒の「学びたい」または「学びたくない」という気持ちがある「学びたくない生徒」に「教える」ことは不可能だでは,なぜ学びたくないのだろうか?私がよく個別指導塾で生徒に聞くことがある何度説明してもわからない生徒に対して私は「もしかしてわかりたくないのかな?」と聞くすると,それを否定する生徒は少ないでは,「どうして学びたくないのだろう?」と生徒に自分と向き合うことを促すこれが本当の学びのスタートになる私は塾業界で未だに授業を続けている70歳近いじじいが,8歳の子と対等に話すときには涙ながらに家でのことを話してくれる涙は心を浄化するらしいやがてその子は勉強に向かっていくWSやI教授から学んだことはあまりに多くここに列挙することが難しいI教授が亡くなって四半世紀教授の教えを胸にどのような人生を送るのかこのブログに綴っていきたいと思う少しずつその欠片を散りばめながら……
教授が主催するワークショップはいわゆるカウンセリングのWSではないどちらかというと教育の研究会あるいは実験農場(ファーム)であっておもに学校の先生が参加されていた年に10回ほど,全国各地で開かれていた「人間の教育にとって大切なのは言葉ではない体が整っていなければ,心が整うわけがなく柔らかい体にだけ,柔らかい心が宿る」というのが,I教授の主張だった会場の床は研究室と同じようなカーペットで参加者は地べたに座った状態でスタートするストレッチのようなものから始まり足をマッサージし,足の裏と対話する背中合わせで座って自己紹介をしたあと4人組になって,相手を紹介しあうそして8人組,16人組……と,いつしか一つになる目をつぶって,人に導いてもらうブラインドウォークは人に対するに対する思いやりと視界を遮られることによって得られる新しい感覚を知ることができる一つ一つの実習の後には必ず言葉によるフィードバックがあったどのように感じたかを発表し,分かち合う肝心なのは「感じたか」であって「思ったか」ではない 感じ方は人それぞれ 答えは無限にある何を言おうとも,批判されることはないただ,理論的な発言があると「感じたことを」と促すスターウォーズで,ルークがオビワンから修行を受けたとき「考えるな、感じろ(Don't think, feel.)」というセリフがあったヨーダも同じことを言っている あれと同じだ感覚が覚醒してくると,今度は絵を描いたりあるいは体を動かすダンスのようなことをする一人の動きを全員で真似をする最初は恥ずかしいが慣れてくると面白い床に大の字になって,ヨガをやったり50メートル,100メートル先の音に耳を済ます傍から見ると,ほとんど宗教団体である夜の一日の振り返りが終わるとその後は,必ずその場で飲み会になるWSは温泉地で行うので,つまみも豊富だった私たちスタッフはその買い出しも大切な役割だ宴は深夜まで続き,その場で朝まで寝てしまう人もいる中には,学校の校長先生や教頭先生もいたので学生の私たちは学ぶことが多かった体に触っただけでもセクハラといわれてしまう現在ではちょっと信じられないことだがWSの終盤では,参加者全員が腹ばいになってその上を一人一人が両手を上げたまま転がっていくただ,この実習は相当人間関係が進んだ場合に限られた床に仰向けになって,合掌した姿勢の参加者を他の参加者全員が,力を合わせて徐々に持ち上げやがて腕がまっすぐになるまで天空に差し上げるこれは,やってみるとわかるのだがめちゃくちゃ気持ちがいいただ持ち上げられているだけなのに何故か自分の体が回転しているのを感じる天に昇るときの感覚ってこんなな感じなのかなそれより,自分をすべて人にゆだねる快感たくさんの人に支えられている自分への気づきそういう感覚を得て,WSは終了するほぼ4~5日におよぶWSの費用は10万円くらい私は1番最初のWSの参加に,アルバイト代を当てた佐賀県までの夜行列車代を含んでいるしかしその後は,I教授のお手伝いとして無料で十数回のワークショップに参加できたそこでの学びは多かったどころの騒ぎではなかったのである
私は副業として,学校別入試問題集の解説を書いているこの執筆者になるための厳しい試験についてはいずれ詳しく書くことになるだろうこの仕事も,まもなく30年になろうとしているさすがに最近は,老眼が進んで疲れやすくなったり注意力が散漫になったりで,ミスが増えてきた字が抜けたり,別の漢字になっていたり途中式の数字が少し違っていたりそのために編集部からお小言を拝受する少しずつ仕事を減らしてもらっているこの頃である執筆業は毎年2月から7月初旬まで,今年もまもなく終わる今年のトピックは「AIの活用」だ自分の書いた原稿と,入試問題をアップロードしAIに校正をするように指示するAIは細かいところまで,ちゃんとチェックしてくれる送り仮名や,文法的におかしいところなど自分では何回見ても気がつかないミスを指摘してくれるしかも,私を傷つけない表現で……でも,便利なところばかりではない私の書いた解説原稿を「完璧です!」といいながら「このような修正はいかがでしょうか」と,全く別の問題の解説をしてくる「それ,問題が違うんですけど」と聞くと「大変失礼いたしました」と返してくる先日は,あまりにもツッコミすぎて逆ギレされた何度も何度も繰り返して,細かい注文をつけていると突然このような写真が無言で送られてきた「これはなんですか?」と聞くと,今度はどういうお菓子かはよくわかった私はソッとPCを閉じた……きっと疲れたんだねしかし,AIの発展は目を見張るものがある来年はもっと凄いことになるのではないだろうかでも同時に,自分の仕事がなくなるのでは……ちょっと心配になってくる
初めて教会委員になったとき私は日曜学校と青年層の代表として教会運営に携わるはずだったところが,その年,日曜学校の校長のS氏も初めて委員になったのだ私の立場はいきなり宙ぶらりんになったそこで私が仰せかった役は「書記」である書記の仕事は,教会委員会の議事録の作成とその広報である大切な業務ではあるが,これが退屈極まった半年も経ったとき私はとうとう我慢できなくなった実家に戻っていた私は,教会まで片道2時間半かかる往復5時間かけて,無駄な時間を過ごしているほんとはいろんな人と交流したいのに…と考えると腹が立ってきたちょうどI教授のところに足しげく通うようになったころだ私は教会より意味のある場所を見つけてしまったのだった私はある行動に出ることを決意した毎月出版される広報紙に委員会の内容を載せるコラムがあったその記事を書くのが私の役割だ何の行事に誰が参加するとか献金をどのように配分するかといったそういう記事が箇条書きされるこんなコラム,誰も読まないのであるそこで私は,このコラムを使って教会委員会の実態を暴露することにした教会委員会は毎月1回,第一日曜日に開かれるそのときのメンバーは40代の若い委員が数名と後は定年を過ぎた,いわゆる重鎮たちそして名誉委員というラスボスの重鎮がいた会議室では,ほぼ座る場所が決まっていてえらい人ほど窓際に座る新参者は出口の近くに座っていざというときに外部と連絡を取る会議はもちろん全員に発言権があったでも,若手の発言する機会はほとんどない多くの場合,重鎮たちの鶴の一声でことが決まっていくそういったことを書き連ねたのであるもちろん,こんなものが印刷されたら大問題になるそして呼び出されて,叱責を受けることになるだろうでも,私はほんとうに教会をやめてもいいと思い始めていたのである果たしてどうなったか……私の文章は印刷され,教会どころか教区中に配布されたのだ広報委員会は,私の文章を載せることに意義なしとしたその文面は,次回の教会委員会で話題になったところが驚くことに,私のために窓際の席(肘つき)が用意されていたのである「気がつかなかったよ,申し訳ない」「どうぞ!どうぞ!!」と,重鎮たちが私や若手に席を譲り始めたのだこんな若造の意見が通用する世界はやはり一般社会と一線を画するのだろうただ,直感的に思ったこの私の暴挙を許そうでないかといったのはおそらくあの元海上自衛隊横須賀方面総監のYさんそうに違いないのだったなぜなら,そのときYさんは委員の重鎮だったからYさんは委員会で,ニコニコしながら私を見ていたそして,私は26歳で埼玉に就職し転居するまで毎年委員に選ばれ続けたのであるもちろん私のコラムは大人気であった
自分の生い立ちをちょっとひと休みして最近の週末の過ごし方を書いておこう両親から相続したマンションの管理のため週末に通い続けているのだがミイラ取りがミイラになったのである工場が近いので,埃がひどく2,3日放置するとうっすらと積もってしまう1週間に1回は掃除機をかけることは資産価値の低下を防ぐ,必要な措置なのだただ,そんな真面目さもある一方でこの齢になっても遊び心は失せはしない大画面テレビにゲーミングパソコンをつなぎフライトシミュレーターを入れるこれがすこぶる楽しいお金をかけなくても,世界中のどこでも行ける名所旧跡を訪ねることも簡単だ最近ではドライビングゲームも入れハンドルコントローラーをつなぎレーシングやドライブで日本の景色を楽しむかといって,一日中やっているわけではない実際には1時間程度しか遊ぶことができず後は……仕事をしている小5から教えている高3の生徒がこともあろうに,東京大学を受けるといい始め高校受験専門,おかずに大学受験の私が最高峰の問題を解くはめになったのだそれこそ必死である広い食卓いっぱいに資料を広げYouTubeの解説動画を見ながら理解に励むしかし……難しい疲れてはてて,風呂に入り一息いれると台所に立って,今度は自分の好きな料理をつくる主に,酒のつまみだがちゃんとサラダ,魚料理,肉料理をつくるステーキも焼くのだが,最近はとにかく高いやむなく豚肉や鶏肉に降格しているが安い肉でもけっこうおいしいものだ特に,豚コマ肉は加工のしがいがいろいろある丸めてハンバーグ風にしたり,トマトと煮たり焼きそばの具にしたり,味噌汁に入れたり安くてたいへん重宝する今回の週末はイワシのベッカフィーコだったパン粉を炒って,レーズンとオレンジで味付けその上にイワシを乗せてオレンジをちりばめてオーブンで10分焼くだけのイタリア料理辛口の白ワインがドストライクだった本当はパン粉をイワシで巻くのだが,時短でいいのだ平日は次の週末に何をつくろうかと考えるこれも楽しみの一つであるときどきこのブログにもアップしてみようかな
このところ暑かったり涼しかったり梅雨時は,体調がなんだか変になる夏のキャンプに思いを馳せていたらもう一つ,別の思い出がよみがえったそれは教区のキャンプではなく私が親元を離れて行った教会の日曜学校のキャンプである21歳の夏だったいきなり日曜学校の先生になった夏だった1つの教会の日曜学校だけで参加者が100人を超える会館が布団で埋め尽くされるのは圧巻だったもちろん食事の手配も相当のものである婦人会が総出で食事をつくることになるたった1泊のキャンプだが,子供たちにとっては最高に楽しい夏の思い出であるキャンプの夜は,たいがいは「肝試し」になる夜になって,私は校長に呼び出されこういわれた「先生,あなたは男性だから脅かす役ね」肝試しのコースといっても私たちの教会は住宅地の中にあって怖い場所なんかない 唯一あるとすると鳥居がたくさん並んだ小さな神社があったが祠は大変小さく,住宅地なのでとにかく明るいそこで子供たちをびっくりさせてほしいというのだ「無理だろう」そう思いながら,私は神社の石段を上っていったまわりの家からは,家族の談笑が聞こえてくるここでどうやっておどかせというのかしばらく考えているとふと小さい祠の入り口が気になった引き戸に力を入れると,大人一人分の空間が現れた私はその中に体を滑り込ませると「申し訳ありません お邪魔します」とつぶやいた中には,お札が一枚あるだけである神社と言うのは面白いものである「お稲荷さん」だったが,狐がいるわけでもなくただお札が供えられている偶像崇拝を禁じた,キリスト教とユダヤ教と同じ匂いがするまぁ,その件については後々話すことになるだろうしばらく,その中に隠れていると低学年の子供たちが,神社の階段を上ってくる声がする「ぜんぜんこわくなんかないや!」「こんなのへっちゃらだ!」などといいながらそして,私が潜んでいる祠の前に来ると全員が整列して「こんばんは!」といってきた私は黙っているも失礼だなと思ったので祠の中から「こんばんは」と返した ……絶叫する子供たち 付き添ってきたリーダーさえも,悲鳴をあげている ものすごい勢いで階段を降りていく 「やった!」次は,小学校の2,3年生のクラスであるやはり同じように返事をするとギャー!と叫びながら走り去っていく最後の高学年がすんで,私は意気揚々と教会に戻っていく会館の中に入ると,台所でザブザブと何かを洗っている何を洗っているんだ?といぶかっていると校長先生に呼ばれた「先生………怖すぎます」見ると洗っているのは子供たちのパンツだったもれなく,みんながおもらしをしていたのだった
20年の歳月を遡るのはまた後日ということにして教会のキャンプの話に戻してみよう私は大学の3〜4年次教区のキャンプのキャンプ長を務めたあの事故のあとで,私はキャンプにこりごり……しなかったのである≪キャンプの食事をつくってくださる婦人会の方々と私≫ (この方々もキャンプの重要なメンバーである)事故の反省から、最後の夜の徹夜を禁じスタッフの飲酒も禁じられた極めて規律正しいキャンプになったがそれはそれで楽しい思い出になったただ、一つ問題が生じた「児童養護施設」からの参加希望である戦災孤児を保護することから始まった養護施設だが今では災害による死別や行方不明あるいは刑に服しているなど親が子供を育てることができなくなった虐待による避難的措置もあるらしいがいわゆるそういう子供たちを預かる施設である私たちの教区には2つの養護施設があった子供たちは主に共同生活をしていてそこから地域の学校に通っている場合が多い教会の信徒の子どももいろんなタイプがいるが何不自由なく育ったお坊ちゃまお嬢ちゃまが多いうまく施設の子どもたちが適応できるかどうかキャンプに受け入れてよいかどうかそういう議論が巻き起こったが最終的には、施設の子供たちとの接することは信徒子弟にとっても,よい経験になるだろうしっかりとしたフォローをすれば大丈夫だろうと約30名を受け入れることになった実際にはじまったら,心配は杞憂で彼らは積極的にプログラムに参加し、友達関係も良好だったただ,彼らは中学校を卒業すると施設を出ることになる一般的には就職をすることになるのだがそういう子供たちがいることを知ることも彼らに,そして私にとっても大切な経験になった1つのエピソードがある中学3年生の施設の男子だったおとなしく,ほとんど自分を出さない子である最後の日の晩、テラスで1人ぼんやりと外を眺めているので,話しかけてみた実は,その年,同じ養護施設に入っていた女児の父親が見つかって,会いに行ったしかし,その女児は父親に会うなり,ナタで叩き殺されるそんな悲惨な事件があった彼は,ぽつぽつとその話を始め、「どう思う」と聞いてきた私はその事件を知っていたので「とても悲しいよ,かわいそうだったよな……」と,そんなことを言ったと思うそれに対する彼の言葉が印象的だった「僕はうらやましかった……」驚いた 親に殺されてうらやましいどういうことなんだろうと考えていると,彼は続けた「だって,親に会えたんだろ」……そうか 彼らにとって親というのは殺されても会いたい存在なのだ私は自分の親に対して,そんなふうに思ったことがない勉強についてうるさくいってくると「うるさいっ」と思う「かってに産みやがって!」と思ったことも,何度あったことか改めて,自分と自分の親との関係を考えさせられたキャンプから帰って、母にその話をしようとすると,いきなり「あなたのやっているキャンプは、受験生の邪魔になっているのよ!」「子どもたちの時間を奪わないでください!」おそらくキャンプに参加した中3生の親にいわれたのだろう思わず、「死ね!」と腹の中で毒づいた……
研究室にはカーペットが敷かれており土足が禁じられていただから部屋の前に靴が散乱していたのだ学生たちは、8畳間位の小さな空間にあるものは椅子に腰掛け,あるものは寝転び,あるものはあぐらをかき自分の好きな位置に陣取るアメリカの学校では、子供たちが好きな場所で勉強するそれをまねて実践しているわけであるちょっと変わった研究室だった私は大学に着くと,この研究室に荷物を置いて授業に出かけ、終わると、研究室に戻ってきて食事を取ったり,仲間と歓談したりする教授は毎日学校にいるわけではなかったが私は時間の許す限り、教授のそばにいた講義や書籍では吸収することのできない人としての生き方を教授から学ぶためだった植木屋の徒弟制はここで役に立った学びたいことがあって、大学に来る学生は少ないこの研究室の学生たちもたまたま配属された者たちが多かった私は,教授の著作に感銘を受けここで学ばせて欲しいといって駆け込んできたそんな学生が大切でないわけがない私はI教授に孫のようにかわいがられたやがて私は教授の一番弟子のようになっていく大きな吸入用の医療機器を転がして教授の後についていき、苦しそうになるとすぐに脇から吸入器を口に当てる介護のようなことをしながら付き添った私は,一般教養的な大学の単位を集めながら教授の大学院のゼミに参加することも許されたそこには現役の学校の先生がいたり国立教育研究所の所員の方がいたりいろいろな人間関係があった教会とはまた違った雰囲気があった教授は,ある教育研究会のワークショップ(WS)を主催していたWSは全国各地で1週間ほどの宿泊で行われる私も5年目のとき、佐賀のWSに参加した参加費用は10万円近くかかったが学ぶことは多かったところが私は、そのWSに、スタッフとして無料で参加できるようになったのであるこうして1年が過ぎ、正式に教育学科の学生となった6年目私はその研究室のヌシのようになっていた仲間がつけた私の愛称は「牛さん」であるいつも研究室のすみっこでもしゃもしゃ何かを食べているそんな印象からついたあだ名であった私はこのあだ名が好きだった大学に入って,これほど充実した時間はなかったしかし,その裏で,私と私の両親は、とんでもなく大きなミスを起こしていたのであるそのミスに気付いたのはそれから20年の歳月を経てからであった
68回目の誕生日である毎年,よく律儀に1つずつ増えるものだときには減ったりしてもよさそうなものだがこのところ自分の生い立ちについてさかんに語り始めたのは4月に元教え子と食事をしたのがきっかけだった小6で教え終わった後、9年ぶりの再会だった就活のことで悩んでいるということだったが私の生い立ちばかり聞きたがってくるので結局、私がしゃべりたおしてしまったその後しばらくして,ふと思い立った休んでいたブログを再開して自分の生い立ちをまとめておこうと時代は進み,文字はiPhoneから音声入力するそれをPCに送り,適当に読みやすく校正して差し絵をGemini君に描いてもらって貼り付ける挿絵のために文を書いている側面もあるがこれが何だか楽しいのである仕事は相変わらずの塾の講師である気がつけば,40歳で来たこの職場も28年目だ高校受験の専門が,今では中学受験もやり最近は大学受験にも手を出しててんてこ舞いになっている💦しかし、日曜日の早朝から机に向かって問題を解くのは,案外面白いものであるこれから先何歳まで働けるかわからないがなるべく細く長く続けられたらいいなと思う年金もほとんどもらえないからねぇ(>_<)
大正生まれのI教授は戦後のフルブライト留学生の一員でアメリカの大学院で学んだ方である日本に「カウンセリング」という言葉を初めて持ってきた人だった。若い頃に結核を患って、片方の肺がなく もう一方の肺も病に犯されており薬を吸入する大きな機械をキャスターで転がしながら講義をしていた眉毛が太くて、毛量も少ないがちょっと垂れた目でいつも静かに微笑んでいるそんな好々爺であった(今,私はそのときのI教授と同年配だ……)研究室に飛び込んできた私の話を聞き終えると教授は,すぐに事務局に電話を入れてくれた「数学科から教育学科に移りたい という学生が来ているのだが どのようにしたらいいですか?」 ……「はい、なるほど、はいそうです」 ……「はぁそうですか、わかりました」教授は私に振り向いてこういった「あなたは数学科ですから、 音楽・体育とか技術系を除くどの学科にも 無試験で移動することができるそうです」驚いた 適当に受かってしまった大学だが案外成績はよろしかったらしいしかも,今ではなく入学時の点数で決まる…と思うのもつかの間,教授が続けた「ところが,残念なことに 手続きは先週で締め切ったそうです」はあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!教育機関であるとはいえ国立大学の事務方は,まさに役所であるとにかく法律と規則が最優先されるどんなに土下座をして頼んだとしても期限が切れてはどうしようもない「転専攻は来年まで待たなければなりませんね それでもいいですか?」「一度家に持ち帰って,相談します」はたして両親は喜んでくれた息子が大学で学びたいことに出会えたのだ学費も安い年間の授業料は96,000円!月額8000円だったこれは,入学時の授業料のままなのである授業料は私の翌年から144,000円にその後,昭和の終わりには30万円今では50万円を超える私は授業料を自分で払うことにした交通費だけ(年間12万円)は親が負担する「待ちます」と教授に返事をしたその間に取り損ねていた単位を集めておけばいいさらにI教授の研究室の鍵を渡され自由に出入りすることを許された私はとうとう自分の居場所を見つけたのである
図書館通いを始めて1週間ほどたったころ赤い背表紙の小さな本に出合った分厚い教育書の中で,あまり目立たない本だったしかし,そのサブタイトルが目を引いた「教師のためのカウンセリング入門」と書いてある私たちの教区のキャンプでは,「リーダー」のことを「カウンセラー」と呼んでいたどうして「カウンセラー」というのかそれを説明できる人間が誰もいなかった「カウンセリング」を日本語にすると「相談」とか,あるいは「助言」とかになるがどうもしっくりこなかったこの赤い本に,謎を解くカギがあるのだろうか?本を開いてみる……すると,その第1ページ目から,私の目は釘付けになったそれは現在の教員養成制度はおろか日本の教育そのものの欠点を鋭く指摘する文面だった「教科を教える教師はたくさんいる しかし,人間の教師は一人もいない」まさに私が考えていたのは,そこだった夢中になってページをめくっていくと次から次へと私と同じ疑問が書いてある「いったい誰が書いたんだ?」裏表紙をたぐって筆者の経歴を見ると,なんとこの大学の教育学科のI教授であった「こんな人が同じ大学にいたんだ」と感動するより早く私はその本を携えて教授の研究室に走っていた数学科と教育学科は別の棟にあったので気がつくことができなかった側面もある初めて「人文棟」と呼ばれる棟の5階に行きI教授の研究室を見つける部屋の前には,なぜかたくさんの靴が散乱しており訪問者を拒むかのようだったが私の勢いはそれを超えていた入ると,何人かの学生の向こうに痩せ細ったおじいさんが机に向かっている「先生! 先生のカウンセリングが受けたいのです」ちょっと気持ちと違うが,そう叫んでいた「どうしたのですか?」とI教授「私は先生のところで学びたいのです!」「では,問題は既に解決していますね」と,にっこり微笑んだハッとした 既に解決している…そのとおりだ!研究室のドアを叩いたその瞬間から私はすでに新しい道を歩み始めていたのである
今ではちょっとありえないことだろう大学に行っていなければ当然,家に連絡がくるのではないか?毎年どの科目を何単位取ったのかを記した履修簿のようなものが送られてこないのか?しかし,あの時代,全くそういう報告は家に送られてこなかったのである国立大学だったからなのだろうか全ては学生自身に委ねられていた留年しても普通に5年目になるだけで特別な手続きがあるわけでもなかったさて,授業に戻った私だったがやはり予想通り困ったことになった数学がまるでわからないのである数学というのは最も役立たずの科目だ使わなければ使わないで生活には困らない算数は必要だ でも数学は必要ないだから,使わないとどんどん忘れていくのである中学生に数学を教えることはあったが2年間大学の数学から遠ざかっていた「ダメだ! 何を言ってるのか全くわからん」目の前にまた大きな壁が立ちはだかった負けじとわかるところから復習しでやる!そう思えるほど,数学に興味を感じてもいなかった1ヵ月もたたないうちに私はまた授業に出なくなってしまったのである仲間は全員卒業している知り合いは一人もいなかった自然豊かなキャンパスだったので散策して時間を潰すこともできたがまもなくそれにも飽きてしまったロビーでぼんやりしていると声をかけてくれた人がいた教材研究のサークルをやっているという暇だから,ついていくと「ごんぎつね」の研究をしているサークルだっただが,このサークルはある学生運動と関係していたもちろんサークルとは爆速で縁を切ったいよいよ居場所がなくなった私は一計を案じた「図書館通い」である大学にはかなり立派な図書館があるもちろん利用は無料だ「よし!せっかく教育学部に入ったのだ! ここにある教育書を,全部読み尽くしてやる!」私はそう決意したのだった。自習用のデスクはかなり整備されていたので私はそこに陣取り,片っ端から本を読み始めたその決断は,全く予想もしなかった道を切り拓くのである
実家を出る前,離婚騒動を起こしていた両親だったがいざ息子がいなくなると,元の鞘に収まるもので一戸建ての家を買って転居して,庭の手入れなどして楽しそうに暮らしていた子供がいつまでも親もとにいるのは動物の本性に反しているのだと思う野生の動物は,ある程度まで子供を育てると逆に子供を巣から追い出すだから子供は自立するし,親も子離れするのだその日,どうやって家に帰ったのかそして,どうやって話を切り出したのか今では思い出すことができないただ,私の告白を受けて両親はパニックになり母は,自分の姉である私の伯母に連絡をした私はそれを一番して欲しくなかった「人の不幸は蜜の味」やってきた伯母夫婦は,喜び勇んで居間に入ってきたそして会うやいなや「ほら,見たことか!」と勝ち誇ったように言い放ったのである順風満帆に育ってきているようで実は大学に行っていなかったいう話を聞いて二人は,まさに「狂気乱舞」したこの話は親戚一同に,あっという間に広がりほとんどの人間が馬鹿にしてきたのである唯一,母の姉の娘である従姉妹が「〇〇ちゃん,きっと苦しかったんだよ」と言っていたという話を聞いて,涙があふれた本当に苦しかった自分を自分以上のものに見せようとする性分人から期待されると,その期待に応えようとする苦しみや悩みがあっても,誰にも相談できないそんな状態がずっと続いていたのである告白から一両日が経ったときやっと気持ちが落ち着いてきた両親は私にこう告げた「とにかく,大学だけは出なさい」「交通費は出すから,家から学校へ通いなさい」本当は勘当されても当然と思っていた2年間休んだ大学に戻るのは,気が引けたが自分でもどうしていいかわからなかった私はその条件を飲むことにしたそして大学5年目の4月私は大学に帰って行くのであった
クリスマスがやってきた教会のクリスマスというとすごく華やかな感じがするかもしれないしかし、実際はそうでもないイヴの礼拝は夕方の6時ごろから始まるがその準備が大変であるたくさんの信徒や地域の人が来られるので礼拝堂の整備が大変である細かい担当も決まっていてまさに分刻みで動かねばならない私は教会のオルガンも弾いていたイブ礼拝は聖歌をたくさん歌うのでこれまた忙しい礼拝前の食事は,全員握り飯1個ほぼ戦闘配食である七面鳥など,どこにもいないのであるイヴ礼拝が終わるとやっと一息である会館でのパーティーになるアルコールも出ていたので,結構な大騒ぎになるもちろん台所は戦場だそして,深夜12時の深夜礼拝実はこれがメインの礼拝で真面目な信徒,明朝仕事がある人はこれに出るもちろん私たち若者は,いい気分で会館でダウンするそして25日朝6時と10時の礼拝が終わると祝会である目まぐるしく回るイベントで,心身はへとへとになる午後は日曜学校の祝会 そして夜は飲むやっとクリスマスは終わることになる25日の午後は,教会委員の選挙の開票も行われる私は12人中11番目の得票で,委員に選出された史上最年少の教会委員の誕生だったこの記録は,今でも破られていない私は「選ばれた」というより「選ばれてしまった」というのが本心だったなにしろ,春からの進路がいまだに定まっていない母は「一番正しい道が与えらますように」と祈るその優しさが,さらに私を苦しめたそして3月がやってくるいよいよ下宿を出なければならないそして,親に大学に行っていなかったことを告白しなければいけない3月の半ば、私は意を決して実家に向かうのであった
教会での活動は,どんどん加熱していった自分の教会だけではなく、教区の中学生たちを束ねる中学生会事務局の局長を拝命し,さらに教区の宣教担当として日本管区の大きな会議にも出席するようになった教会の中では、私の活動が評価され毎年12月に選挙で選ばれる教会委員の候補になった教会委員は全部で12名、イエスの弟子の人数であるその他に長年委員を勤められた方による「名誉委員」という方々もいらっしゃった委員会は毎月第1日曜日,密室で行われその詳しい内容が外に出ることはほとんどなかったもちろん重鎮たちの集まりであり、若者の入る余裕はないそこに私を入れようというのである私はまだ若干22歳であった日曜学校や若手の意見を教会運営に取り入れようとうのが目的だったが,私はあまりにも若すぎた私の他にもう1人、年配の女性が候補に上がった私の家庭教師先のお母さんである私の母の知人であり、婦人会の中心人物でもあったそんな流れの中で、私は思うようになる「これは牧師になるしかないな…」牧師になるには、高校卒業以上の学歴が必要であり大学を出たものは、東京の神学院に高校卒業の人間は,京都の神学館に配属される資格は、自分の教会の教会委員の承認を得ることだけだった夏の帰省時に,「牧師になりたいかも」と話したところクリスチャンである両親は,やむなしという感じだっただが、猛反対した人物が一人いたのである私の祖母(=父の母)である私の祖母と父は、戦前から沼津の教会の近くに住んでおり私の母は,その教会で幼稚園の先生をしていたそれが父との出会いにつながったのであるそのときの牧師に対する印象が悪かった祖母は「あんなものになるくらいなら、私は首を吊って死ぬ」といい始めたのである私は3歳まで祖母に育てられた大のおばあちゃんっ子であったその祖母が首を吊ると言い出したのである私のテンションは一気に下がってしまったもともと牧師になろうというのは一種の逃げだったやはり現実の社会に目を向けねばならない「さぁ、どうしたらいいんだ?」私は祈った しかし,神は沈黙を守っていた再び悩みが深まる中,選挙の年末が近づいていた