両親を見送りつつ、いつしか自分も68歳になっていた昭和の若き日を思いながら、下山を楽しむ日々である座敷童をはじめ,いろいろな不思議体験を織り交ぜながら,自分史をまとめていきたい
10月16日、1週間の節制生活を経て運命の血液検査のためにMメディカルセンターへ向かった数値の改善に期待が膨らむ一方前日から胸やけがしておりどこか嫌な予感も抱いていた朝7時過ぎに自宅を出発し9時過ぎに病院に到着すぐに血液検査を済ませた診察が始まる10時半まで2階のコンビニ裏にある広めのイートインスペースに陣取りおにぎり2つを平らげる待ち時間中、68歳の自分が「いつから年金をもらい始めるべきか」をスマホで切実に検索していた理由は至極シンプルで「受給する前に死んでしまったら元も子もない」からである。診察室での朗報?11時近くになり、ようやく名前が呼ばれ診察室へ入った先生は開口一番「また数値がよくなっていますよ」と検査結果を見せてくれた注目のγ-GTP(ガンマGTP)は「825」まで低下していた前回の数値から約3割減少したとはいえ、基準値の上限は「70」であるつまり、基準値の約12倍という圧倒的な高数値に変わりはない先生からは「A型やE型の肝炎ではなかったわ」「胆石の可能性が高いわね」「でも、なんとなく治ってしまう人もいるのよ」「あと2週間様子を見ましょう」「それだめなら胆のうのMRIをということで」との方針が示された胆石の場所を尋ねると先週撮影したCTスキャン画像を見せてくれた胆管にはつまっていないものの袋の中に大きめの石がいくつか存在しているのが見えた画面を占領する「暗黒の物体」「やはりお酒や油物を断ち さっぱりした食事を続けるべきですか」と質問すると先生は「そうね」と頷きながらCT画像を操作した画面に現れたのは、お腹の断面図皮下脂肪はほとんど見当たらない皮下には「芋虫のようなもの」が数匹画面の大部分は真っ黒に染まっている「この芋虫みたいなものは何でしょう?」と問うと、先生は「ああ、それは小腸よ」と一言「では、この大部分の黒い部分は……?」と尋ねると、「あ、それね、全部脂肪よ。内臓脂肪」自分の腹の中が「内臓脂肪の暗黒物質」で満たされていた衝撃……「これでは内臓も圧迫されますよね」と漏らすと「そうね。まず痩せることが先決かもね」と先生も同意したぐうの音も出ないとはこのことであるまさに「ごもっとも」としか言いようがない2週間後の再検査に向けて病院をあとにした自分はこのまま禁酒・節制生活を徹底し本気で減量に取り組むことを固く決意した次回は、さらに改善した数値を報告できることを願うばかりである
「得たいがしれないもの」の話を続けよう…と思っていたのだが,そうはいかない事態が発生したしばらく自分史から離れようと思う健康診断日常というものは往々にして前触れもなく崩れ去るものである9月24日、毎年恒例の健康診断そこで下されたのが,己の目を疑うどころか老眼を疑うレベルの惨憺たる数値であった肝臓の悲鳴の指標「γ-GTP」が跳ね上がりを見せていたのだ正常上限値は50 ~これは人類の平和な世界線昨年の数値は約70 「若干オーバーだが、酒飲みの勲章だ!」とタカをくくっていたところが今年の数値は「690」桁が暴れ馬である!二度見を通り越して三度見案件!「とにかく早く病院で診察を!」とのアドバイスを受け以前,内視鏡検査でお世話になった「O内視鏡クリニック」へ連絡を入れ10月7日(水)の15時に受診予約を取り付けたこれでひとまずプロの手に委ねられる…と胸を撫で下ろしたのも束の間この衝撃の数値ですら,直後に訪れる「地獄の幕開け」に過ぎなかったのである激痛の徹夜劇10月6日(火)、運命の歯車が狂い始めるランチにエスニック風のカレーを摂取美味しくいただいたのだがこれが悪夢のトリガーとなる15:50からの授業が終わり次の授業に向けて10分休憩に入ったその瞬間、胸に刺すような激痛が走る!「いつもの胸焼けか…?」と己を騙し額に脂汗を浮かばせながら21:40まで授業を完遂した帰宅後〜10月7日(水)朝5:00帰宅するも胸焼けと激痛は治まらず翌朝の5時まで一睡もできず床をのたうち回るなんとか痛みは治まったが絶食のまま、予約していたクリニックへ15時にクリニックに着き,血液検査を実施10月19日(月)にエコー検査の予約を入れる依然として腹膜あたりに不快感があるが出勤して最後まで授業をして帰宅するこうして満身創痍のまま迎えた10月8日事態は予測もしなかった展開を迎える急展開ようやく痛みが引いたため朝食をとろうとするが身体が受け付けず,大半を残す午前中に授業準備を進めているとクリニックから一本の電話が入った「昨日の血液検査について お知らせしたいことがあります 今日来られませんか!?」「お知らせ」という婉曲表現が、ジワリと私の恐怖の神経を逆なでした15時にファミマの小さなうどんを公園のベンチで胃に流し込み16時にクリニックに着くと医師から信じがたい言葉が飛び出した「γ-GTPの値が1000を超えています。 明日の朝、できるだけ早く 大きな病院で検査を受けてください!」そ……そんなに悪いのか?体調自体は回復傾向にあったため私は絶句した紹介状をもらうために待機しているとこれから診てもらえる総合病院があるという「今日の授業は18時50分からだ…… 今すぐタクシーに飛び乗れば 病院で検査した後でも十分間に合う!」この無謀かつ超絶ポジティブな思考のもと17時15分にメディカルセンターへ到着しかし、待っていたのは甘い見通しを打ち砕く医師の言葉だった「検査が終わり次第入院になります よろしいですね?」 どうやら,やばいらしい…… もしかして……死ぬのかな……怒涛の検査ラッシュであった・エコー検査・造影剤CT検査・心電図検査・レントゲン検査・血液検査徹底的な検査が終わると時刻は18時私は教室へ電話を入れた急に入院することになったので今日の授業を止めて欲しい明日もおそらく無理だろう……と検査の合間に調べた急性肝炎での入院で、退院までの期間は2〜3週間から数ヶ月!入試に間に合わないどころか仕事をやめなければならないレベルである教室側もパニックになりながら迅速な休講対応へと動いてくれたすべての検査結果が出揃ったのはそれから約40分後そこで劇的な奇跡が起こる急転直下検査結果を見た医師がつぶやく「あれ……? 数値が下がってる…… 劇的によくなっていますよ これなら,入院の必要はなさそうだ」「(……はい!? 入院撤回!?) あの、先生?それなら帰宅できますか?」「ええ、大丈夫ですよ。 その代わり明日の朝一番で再検査をして その結果が悪ければ入院ということで 一応支度をしてきてください」まさかの40分での入院撤回!会計を済ませた私は病院を出るなり再び教室へ電話を入れる「入院しなくてよくなりました 今日の4限の授業はできます! 休講対応を撤回してください!」こうして私は奇跡の生還を果たし、勤務を終え,無事帰宅したのである再検査10月9日(金)、朝6時半に自宅を出て8時半にメディカルセンターへすぐに採血したあと、10時15分に診察すると「昨日に比べて、数値はさらによくなっています ……γ-GTPは高いですがね」とりあえず、これで通院治療が決まった医師から言い渡された絶対遵守の鉄則は以下の3点である・禁酒(酒を断ち、肝臓を休ませること)・油ものの禁止(脂っこい食事を排除する)・安静(無理な運動を控え、身体を休めること)医師の表現は「控えてください」だったがすでに断崖絶壁で恐怖を味わった私は「禁酒」「禁油」を決めたのであった万が一、急性肝炎が劇症化すれば文字通り命に関わるそのため、立ち仕事が基本である職場に以下の特別な安全対策を講じてもらった椅子の使用と,椅子が置けるブース使用であるジェットコースターのような事態の変化に教室スタッフの手を煩わせたうえにこんなわがままを言ってはとも思ったのだが「まずはお身体を第一に」という,教室責任者のやさしいお言葉に甘えることにした真犯人は誰だ?では,今回の肝臓破壊の原因は何なのか私には大量飲酒の習慣もなくジビエ肉などを食した記憶もないでは、なぜ突如として異常値が出たのか?10月16日(金)の診療で判明する見通しだが医師の指摘から浮上した2大容疑者をここで告発しておきたい容疑者A「加熱不十分な豚こまハンバーグ」 最近マイブームだった豚肉料理 特に「豚こま肉」で作ったハンバーグ 中心部まで火が通っていなかった可能性大 自炊の油断が生んだ刺客か!?容疑者B「暴れん坊の胆石」 以前から体内に保有している胆石 胆石が何らかの弾みで暴れだし 肝臓や胆管を物理的に傷つけた可能性大いずれにせよ、日常の油断が招いたであろうことは間違いない会社の健康診断は大きらいであるでも,そのおかげで今回は命拾いをした明日の検査結果はまた書き込みしたいと思う
のちにわかったことなのだがW進学教室を新築したとき「地鎮祭」をしなかったのである「地鎮祭」とは,工事中に不慮の事故がないようにと土地の神様に祈りを捧げるものだ神主さんが祝詞を上げて盛り土に鍬を入れるそれなりに費用がかかるので、今ではやらない人も多いようだしかし、地鎮祭という名が示すように地面を鎮める祭りなのである地面の 何を鎮めるのか一般的な解釈ではその土地に住む神様に対する敬意を表す祭りなのだが土地とは地面のことであるもちろん地面は土である土は岩石が細く砕かれたものでそこに動植物の死骸が腐食して混ざったものであるすなわち無数の生命たちの痕跡であるこれらの無数の魂を沈めるのが地鎮祭ではなかろうか……私は勝手にそう思っているガラスに押し当てられた手形や押し入れから出ていた足跡はこれらの魂の為せるわざではないかそんな自分勝手な考えを後押しする出来事が起こるのはそれから約1年後の年末だった塾は順調に成長し生徒数は100人を突破して手狭になってきたのであるそこで塾を増築することになった私はその年に結婚しアパートから一軒家に移り住んだそれがあの「わらしの家」であるその家は、塾から自転車で2分住職接近の模範であった塾は,年末年始の休みに入ったそのときに驚くことが起きたのである
もともと得体の知れないものに遭遇することはよくあったでも,そんなことにかまっていられない…仕事が忙しかったのだこれは開校当時の教室の平面図である開校半年ぐらい経ったある日国語の授業が終わった生徒が私のところにかけてきてこういうのである「窓のところに右手が! 誰かがそこにいるのかなと思って 窓を開けて見たんだけど 誰もいなかったんだ」人通りの少ない田舎道だが通りがかりの人とかあるいは同じ学校の仲間がふざけて窓に手を押し当てて走って行ったのだろうと返しておいた私もすぐにその場所を確認したがその手があった場所は教室の看板があるところで人が入るには狭すぎたのであるまぁ、そんなこともあるだろうとしばらくその言葉を忘れていたすると、しばらくして今度は英語科の教室で異変が起きた最後の授業が終わったき「先生、足跡が出てる! 押し入れから足跡が出ているんだ」と、生徒がかけてきた「どういうこと?」と生徒と見に行く確かに、押入れから大人の大きさの足跡が3つ出ているのだその足跡は緑色をしていて苔が生えたような感じだった掃除機で吸ってみると跡形もなく消えてしまった押し入れには,使わない机や椅子がぎっしりと入っているため人が入る隙間は一寸もなかったきっと,生徒がいたずらしたのだろうそう思っていたのだがその塾を経営した12年間の間に5回ほど起きたのであった当然,生徒の世代は変わっている同じいたずらを違う生徒がしているとは思えなかった実は,塾を建てるときにちょっと気になることがあったのである
我ながらよく働いたまさに雨の日も風の日もそして雪の日も天気のいい日も朝8時から夜の10時まで掃除して,手紙を配り夜は授業をやる一心不乱だったその当時を思い出すたびに今の会社員たちの姿に情けなさを感じてしまうのである……これも自分が歳をとった……ということだろうか(>_<)私の仕事に対する原動力は自分の27歳という出遅れ感とあとは、どうしても結婚しなければならないという気持ちだった昭和60年、その当時は男性は結婚していないと一人前とはみなされなかった教会の先輩の一人は銀行に勤めていたが結婚していないが故に支店長になれなかったのである……必死だった生徒はじりじりと増えていった説明会に来る人数も2桁が当たり前になってくるそして開講して4ヶ月とうとう損益分岐点を突破したのである社長は喜んだ「よくやった!」「これから社員を増やすが、 創業の君たちがやったことは 永遠に評価される。 どんなに業績が下がっても 君たちの給料、昇給を保障する!」天にも登る気分だった新しい社員は二人入ってきたもともとM学習館に勤めていた講師たちである私の役職は、開校当初から「教務部長」だったが、部下は一人もいなかっただが、ここに来てやっと部下ができたのである仕事に熱中しながら結婚の準備も進める公私ともに充実した日々が訪れていた仕事は順調だったしかし、何かがおかしかった何かの気配が教室の中にうずまきはじめているある日それは意外な姿で現れたのである
入塾説明会は金曜日の夜7時半新しく印刷したパンフレットや入塾関係の資料をとりあえず30人分ぐらい用意するAさんと私は,その瞬間を緊張しながら待っていたそして、7時半…………誰も来ない5分が過ぎる…………誰も来ない10分が過ぎる外では、秋の虫が鳴いているそして8時になる…………誰も来ない私たちはとうとう1時間待ったすべての家庭を回り切れたわけではないが、この1週間で2000軒の家に案内を巻いたのだその結果が……これである一生懸命話を聞いてくれたお母さんたちこれも期待外れだったこれが現実なのだったしかたなく撤収しようとしたそのときである……外で物音がした入り口のドアを開けて見るすると、20メートル位離れた電柱の影に、中学生らしき3人の姿が見えた「説明会に来たのかな?」と声をかけるとすごすごと姿を現した制服を着た中学2年生の女の子たち3人だったとりあえず、中に招き入れ「お母さんたちは?」と聞くと自分たちだけできたというそれでは契約にはならないがとりあえず中に入れて説明をするそして私が数学の授業を試しにやってみせることにした中2の2学期なので、1番わかりにくい「証明」の話をして帰らせる結果,第一回の入塾説明会での成果は0名であったこの結果は、Aさんのおじさんすなわち社長のM氏の逆鱗に触れたAさんが電話で報告をしていると電話口の向こうから社長の怒鳴り声が聞こえてくる「何をやっているんだ!」「失敗は許されないんだぞ!」「生徒数が目標に達するまで休むな!」Aさんは「大丈夫!がんばれっていってた」と私に話していたが私にはすべてが聞こえていたのだった出資したのに成功しない経営者はたまったものではないお怒りごもっともである私はがむしゃらに働き始めたI教授の研究会の事務は放ったらかし月月火水木金金の毎日が始まった翌週の説明会では3人が来てくれた先の3人の女子中学生も翌週母親と来塾して入会した生徒は少しずつ増えていったがクラスに一人でも生徒がいれば授業をやらなければならない営業活動をしながら,授業もする勤務は午前8時から午後10時までに拡大していくもちろん残業手当など支給されない今では信じられない労働条件だしかし,経営者からすれば「ないそでは触れない」のである
毎日の仕事の流れは,こうだった出勤は午前8時 まず役場に行って「住民基本台帳の写し」の閲覧を申請すると,テーブルの一隅が与えられそこで住民の氏名、住所、生年月日が書いてある台帳が見られるこれをメモしてくるわけだ朝から役場が閉まるまでひたすら該当学年の生徒のデータを写すシャープペンを持つ手が痛くなる今では個人情報保護の観点からこの閲覧自身ができなくなっているデータは貴重な「名簿」になる今では信じられないことだが教室に戻って,データを一つ一つ手書きで整理するPCが十分に普及する前だったこの名簿をもとに、一軒一軒勧誘する最初に試みたのは,M学習館で使った「テスト戦略」であるしかし,それが無意味であることがすぐにわかったこの地域の人々は、呼び鈴を押すと,もれなくドアを開けてくれるのであるそして話を始めると……終わらない(>_<)!一軒あたり30分ぐらいかかることもあった一日10軒回るのが精いっぱいだ舗装されていない道がある茶畑の中の小径を子供たちが登下校するそんなのどかさが残る田舎だが人口増加中のテリトリーの中には約3000軒の対象世帯があったこれではすべて回るのに1年かかるそこで戦略を変えることにした学年ごとにB4両面1枚の手紙を書き封筒に親と子供の名前を書いて各家庭のポストに投函する入塾説明会の日程を告知するのだ役場から帰ると手紙の用意手紙の封入と宛名書きができると地図に対象世帯をマークして効率のよい回り方を考える午後,いよいよ出発である2時間で200軒くらいの家を回った活動すること,ほぼ一週間8割がたのテリトリーを回りきるそして初の入塾説明会の日がやってきた
電話をかけてきたのは海千山千の先輩の一人AさんだったAさんは山形県あたりで靴屋さんを経営していたが事業に失敗して東京に戻ってきた人だった二人のお子さんがいるが奥さんとは死別自分自身も数年前にくも膜下出血で倒れ現在もリハビリ中であった都内の有名大学の出身で安保のとき国会議事堂に突入したデモ隊の先頭にいたとかまぁありがちな武勇伝ではある駅の地下街の居酒屋で再会さたAさんが 話す内容はこうだった叔父さんが持っている土地で新しく塾を開くことになった手伝ってくれる人を探しているだれかいないだろうか?基本給は月給20万円日祭日が休み、昇給賞与ありただし勤務地は埼玉のN 郡T町通うのは難しいから引っ越してきてくれる人がいい新規で塾をつくるそれは魅力的だでもリスクも高い慎重に考えなければ!と思いつつ、初任給20万円に私の心の振り子はほぼ振り切れていた「うーん」と悩むふりをしつつ「それなら、僕が行きますよ!」「ほんとに?それは助かる!」と、一気に話がまとまった開校は11月1日。今月中に引越し。そして10月は生徒を集める。I教授の研究会の事務の手伝いそのときの塾の引き継ぎのため週4日勤務で始めることになったAさんのおじさんというのはAさんと同じく都心で靴店を経営している方で私の父と同い年であったその方との面接も無事に終わり私は正式に社員として採用された人より何年も遅れた船出だが人生が大きく変わり始めたなんとしてでも成功させる!大きな期待と決意を胸に私は未知の土地へと帆を上げたのであった
M学習館の親会社は、自動販売機の設置契約をする会社だった全国的に自動販売機の普及が進んだ時代自動販売機を置いておくだけで利益が出る160万円の初期投資だけで後は何も必要ないという嘘の話で契約を進めるこうした無理な営業がたたって訪問販売法違反や詐欺容疑などで社長が摘発されたのであるこの影響は塾部門にも広がり他の塾へ移る社員が増えていった私もその1人だった決断は早いほうがいいだろうと入社後、ほぼ3ヶ月で退職したのである海千山千の先輩たちはしたたかでまったく違う業界の仕事を見つけてそこで営業活動をしているようだった中規模の塾で事務のバイトをしていた彼女から(今の家内である)「空きがあるから、社員講師として働かないか」と誘いを受けた一度遊びにいらっしゃいということで話を聞いてみると初任給は14万円、なんと定年は40歳だという大学の教授とルームシェアをしていた月に6万円のマンションの家賃は教授が部屋を出てしまった ため私の全額負担となっていた水道光熱費や必要経費を除けばほとんど手元に残らないその塾は1回だけ試しの授業をした後やはりお断りをしたその後、小さな塾を点々としながらお先真っ暗な状態で半年が過ぎていく彼女はいても、結婚できる経済力がないどうにかしなければと思っている矢先海千山千の16歳年上の先輩から1本の電話がかかってきたのであるときは昭和60年の9月になっていた
戸別訪問は,そう簡単なことではなかった知らない家の呼び鈴を鳴らすことへの抵抗これは基本的にあったしかしもともと人見知りをしない私はその点についてはだんだん慣れていっただが,どうにもならないことがあったまず,家に人がいないのである学齢期の子どもをもつ親は大概が共稼ぎなのだったいても簡単にはドアを開けてもらえない「塾のご案内です」とでも言おうものなら「間に合っています」「もう通っているので」と,インターホン越しに瞬殺される「引っ越しのご挨拶に参りました」という技も教わったドアさえ開けてもらえれば……しかし,ウソをつくのは躊躇われた初対面で印象を悪くするのではないか26歳の私は,まだ純粋であった事業部の面々は,中年男性一色である20代の社員は私しかいなかったみんな転職,あるいは事業に失敗したいわゆる「海千山千」であるそういう人たちにとって私のような人間は新鮮に映るのだろうたいそう可愛がってもらった上司がいないときは同僚が仕事の手の抜き方を教えてくれたどうせ親には会えないのだから午前中は喫茶店でのんびり過ごすなんなんらスーパーで食材を買って教室で調理なんかしてしまう昼食後ものんびり過ごして午後3時頃から動き出す実際に,その方がはるかに在宅率が高く体力も温存できたしかし,楽な生き方というのは「生きがい」も「やりがい」も失うものであるこんなことをやりながら人生がすりつぶされていくことに私は徐々に焦りを感じて始めていくそんな時であるとある事件が発生した
1985年の3月私はM学習館という会社の事業部部員として働き始めた26歳のときである事業部というと語弊があるようするに内容は営業部である生徒を勧誘し塾に入れるのが仕事だその方法はこうだった多種多様な名簿が出回っていた個人情報保護などない時代である① まず渡された名簿にしたがって 一軒一軒を訪問し 学年に応じたテストを置いていく② 1週間後に,そのテスト採点しながら 教育的アドバイスをする 優しい問題の中にも、 多少難しい問題が混ざっており、 子供が引っかかりやすくできているのだ③ 間違いがあれば、それを理由に うちでは個別に対応しますよ という具合に入会を勧める④ もし、全て正解していた場合でも 式の乱雑さや,字の乱れなどを指摘して 保護者の危機感を煽っていくその塾は1クラス6名生徒はラーメン屋さんのカウンターのように講師のまわりにコの字型に並び一人一人が別の学習をする授業という形ではなくあくまでも自習形態のなのだが適宜,講師からのアドバイスがもらえる一方通行の講義ではないのでなかなかいいシステムだと感じられた事業部の給料は,基本給プラス歩合うまくいけば高級取りになる仕事は朝早くから始まった本部朝礼から始まり社是を大声で叫び各教室に散らばり,活動を始めるしっかりと研修を受けた私は夢と希望を胸いっぱいに膨らませ社会という海原に帆を上げたのである……しかし,現実はそう甘くはなかった
サラダ前菜プレート 生ハム パテ チーズの盛り合わせ オリーブとトヴォローク チーズ用クラッカー ナッツカプレーゼサーモンのカルパッチョラタトゥイユキャロットラペ黒毛和牛のステーキ水ようかん8月15日(土)に,家族全員が集まった以上はその持ち寄りのメニューである去年から始まったイベントである家族といっても,私たち夫婦と息子,それに娘の夫婦の5人だけ家族同然の,我が家の元家庭教師はコロナのため,今年は不参加まだコロナは健在なのだ会場は私のアジトのマンション早めに始めて早めに終わりたいというので朝一番に買い物に行ってカルパッチョとカプレーゼなどつまみ系をつくっていると11時半ぐらいに全員が集合してしまったテーブルのセッティングしながら持ち寄った料理を皿に盛ったりチーズを切ってもらったりいろいろと準備をしてもらった娘の夫は,もとパスタ屋さんのシェフなので肉も焼いてもらうことにした何もできない息子は,洗い物担当だがこれもなかなか助かったなんだかキャンプみたいねといってみんなではしゃいで飲み始めたのが12時どの食材もおいしい買っておいたワインも進む娘の夫の焼いた肉がまたうまい焼き加減もミディアムレアからミディアムまで,変化をつけ塩も凝っていて,実においしかったところが3時くらいから息子の様子がおかしくなったもともと寡黙な息子なのだがこの日だけは気分がよかったらしくどんどんアルコールがすすみとうとう義理の弟に絡み始めた気がつくと,その話し方が私の父にそっくりになっている………憑依?息子は私譲りの霊感体質である奇しくもその日は8月15日盆の明けである息子の後ろで,父の遺影が微笑んでいたその後,息子はダウン翌日の昼頃,ふらふらと帰宅していった昨日で長い夏期講習も終了した久しぶりに自分のための時間を楽しもうと思う
26歳の後半であるだんだん30歳が見えてきた調査官の試験に落ちた私はとにかく「何か」にならなければならなかった私はどうして塾人生を選んだのか今では思い出すこともできないがただなんとなく,デモシカでそうなったそんな感じがする20歳で初めて塾の講師になった実家の自分の部屋で4人の中学生と塾の真似事をしていた時期もあった生麦で小さな塾に雇われたこともある魚河岸の風情が残る旧東海道の路地で子供たちとキャッチボールをした懐かしい想い出であるだが,生活は苦しかった塾講師は今も昔も時間給が基本だ社員として働いた場合の初任給は当時,平均14万円ほどしかし,時間給よりはまだましだったきちんと社員として働こう東京の新宿に「M塾」という塾があったそこに社員として採用してもらおうと思い面接を組んでもらったどうせやるなら,本格的に一から始めようと教える側ではなく,経営側の募集に応募したすなわち営業マンになろうとしたのだ面接では,人事担当のTさんが待っていたところがTさんは,私の顔を見るなり怪訝な顔をするのであるやはり留年していると厳しいのかな…などと考えていたときTさんがこういった「〇〇君だよね」「……?」「覚えていませんか?Tです」私は必死にTから始まる苗字の記憶を辿った40代半ばか,やややつれた感じがする……わからなかった「申し訳ございません。思い出せません」「あなたが小学校1年生のときに教育実習に来たTですよ」はっとした「T先生!どうしてこんなところに?」T先生は,確か公立の学校の先生になったはず先生は私を題材に卒業論文を書いたのである論文の内容は知りようもないが私が大学に入るまで,年に数回文通を続けていたしかし、会うことは全くなかったのである先生の人生にもいろいろなことがあったのだろうT先生はそのことについて語ることはしなかった私は大学に入ってからのことを話した「文通が途絶えてどうしてるのかなと思ったら こんなことになっていたんだね」「教える側でなくて,営業部でいいの?」「はい,塾経営を一から学びたいんです」採用はあっという間に決まった人生とは不思議なものである唐突に訪れる別れもあればびっくりするような再会もある今月は初めて高校の同期会が開かれる幹事には懐かしい名前が連なっていたぜひ行ってみたいと思ったが8月は仕事が忙しくて行けそうにないでも,またきっと偶然の再会があるだろうそんな想いを胸に,今週もまたがんばろう!
自分の生い立ちをたどって学生時代までを書き綴ってきたがいよいよ社会人時代が始まるしかし,その前にもう一つのしくじりについて話そうそれは年金である私は26歳まで学生だったので年金保険料の払い込みを猶予されていたしかし,私も私の両親も全く無知で「猶予されている」ということは「払わなくていい」と解釈していたのだそうではなかった「払わなくても督促がない」だけで払えるようになったら猶予された分を払わねばならなかったのだそうしないともらえる年金が減ってしまうそんなことを考えたこともなかったある日,晩年を迎えた母が言い始めた「あなたは年金がもらえないから…」少しボケ始めた母の言うことだったが年金事務所を訪ねて愕然とした(え…これしかもらえないの?)私は会社員時代の10年間は「厚生年金」個人事業者となってからは「国民年金」に加入していた未納は「国民年金」の部分である借金返済の目途が立っていた私は「未納部分を払います」 というと「払うことはできません」ときた「時効だ」というのだいやいや,「時効」は罪を犯しても捕まらなくなる期限のことではないのか?「国民年金保険料を払う義務は 2年で時効となります!」……知らなかった2年を過ぎると,過去にさかのぼって保険料を納めることができなくなるのだこちらに払う余裕が出てきても受け取ってもらえない私は年金について,習ったことがないというか,お金に対する教育をほとんど受けたことがない年金保険料の納付は義務であるその義務を怠ると何が起きるのか?それを義務教育で教えるのは当たり前ではないか!借金をするとどうなるのか?サラ金でなくても,多くの人が使う住宅ローンを組むとどうなるのか?失敗談を織り交ぜながら語り伝えるそういうう教育を受けたかったしかし,もはや手遅れである私は数年前に,会社の厚生年金に入った焼石に水ではあるがとにかく私は働けるだけ働いて会社にしがみつくつもりださぁ!夏期講習は2週目だ!今週もがんばろう!
面接室は法廷だった小さな法廷だったが,面接官が判事席に私は5メートルほど離れたそう、「被告席」に座らされたそして第一問面接官の声が反響するそれは法廷の天井が高いためだ「◯◯さん、……おからだ,大丈夫ですか?」頭の中で何かがプツッと切れた(ば…ばれた~~~(>_<)!)血の気が失せ,全身に冷や汗が浮く私は被告席で,どんどん小さくなっていったそれから30分,何を聞かれ、何を答えたのかほとんど覚えていない小学校の入試以来,得意とする「面接」で最も後味の悪い面接になった悪い予感は,このときに芽生えたのである実は,二次試験に受かってから間もなく私の実家の近所に,黒い服を着た数名のグループが訪れた「あそこの〇〇さんはどういう人ですか?」「何か問題を起こしていませんか?」などと,聞いてきたらしい地域でどのように捉えられているかも大切な面接の資料となるらしかったなにしろ裁判所に勤めるのであるちょっとでも危ない人物は排除される顔の痣は、私が何かのトラブルを起こしたあるいは巻き込まれたことを証明していた私の人生最大のチャレンジはこうして幕を下ろしたのであった後日,私を殴った人から謝罪があったと教官を通して聞かされたその方は,その後中部地方の女子大の先生になったらしいこの話は,今でも生徒に話すことだ「いったい誰が悪かったと思う?」「殴った人が悪い」生徒はそう反応するもちろん暴力はいけないでも、私は一番悪かったのは、「私自身」なのだと教えている面接を二日後に控えた日になぜ飲みに行かねばならなかったのか本当なら「今日は失礼します」と先に帰るべきだった心に隙があったのは私の方なのだ「最後の最後まで気を抜くな」生徒に伝える教訓であるさて,季節は秋になっていた大学にはこれ以上残れない社会に出なければならない人生の分水嶺は目前に迫っていた…
時系列は少しだけさかのぼる教育学科の教官のお父様が亡くなったうちの学科からも、何人かの学生が葬儀の手伝いに行くことになり私もその一人だった葬儀が終わって、手伝いのお礼にと金一封を渡された私たちはせっかくだからということで東大近くの居酒屋で飲むことにした葬儀で懇意になった,他大学の院生方といっしょだったので,交互に座って情報交換をしつつ酒を酌み交わしたしばらくは楽しく歓談していたのだが右隣りの方が酒乱であることは知らなかった酒乱とは、飲酒によって理性が麻痺し人格が変わったように暴言や暴力を振ったりする人のことをいう右隣の方に酒を注いでいたときである私の顔面に、突如としてグーが飛んできた不意を突かれた私はもんどり打って椅子から転げ落ちるすると,その方は私の体に馬乗りになり往復で私の顔を殴ってきたのである飲んでいると,それほど痛みを感じないしかし5,6発殴られたあとようやくこれはまずいと思いその人の両腕を掴んで絞り上げたまだ植木屋をやっていた名残りで私は筋肉質だったので,すぐに暴行はやんだそのとき,やっと仲間たちがその人を羽交い絞めにして,私を助けようとした…………が、遅かった私は顔面や口から血を流し敗北したボクサーの顔になっていた店主からからは「喧嘩をするなら外でしろ!」と怒鳴られる私は喧嘩をしていたのではないのだが…踏んだり蹴ったりとはこのことであるその日は家に帰らず、I教授の別宅の無人のマンション(アジト)に転がり込みみんなで泊まった起きたときに、真っ先に心配になったのは翌日に控えた面接のことである…………恐る恐る鏡を見るなんと,昨日の傷はそれほど大きくなく痣もできていなかったこれなら行けそうだ!元気を取り戻して帰宅し,再び面接の準備そして,当日を迎えた朝起きて鏡を見るびっくりした!顔が痣だらけなのである一日おいて出てきたのである面接は,東京高等裁判所向かいながら顔を冷やす面接は,1人30分ぐらいかかるのでかなりの時間待たされたその間も何度もトイレで顔を確認する腫れがだんだん引いてきた……「よし!これならいける!」と思ったときに,名前を呼ばれた
二次試験の発表がどこであったのかそれは,はっきり覚えていないしかし,今回も左上隅の特権ですぐに合格したことがわかった一次試験で4人に1人二次試験で10人に1人約40倍の関門を突破したのだった私はよろこんだよろこんだのは私だけではない両親はもちろんのこと大学の仲間もよろこんでくれた心理学科の大学院生 も受けていてその人も二次試験を突破していた大学では私とその人のためになんと祝賀パーティーを開いてくれたお祝いというよりは、大学8年生の私の行き場が決まってホッとしたといったところだろう「ここまで来たらもう大丈夫だよ」「君は印象がいいから、決まったな」「ありがとうございます 先生方のおかげです」と,なかば有頂天になっていたところで,私は今,塾講師として半世紀…………その通りである!私は落ちるはずのない面接で見事に落ちたのだ!最終発表は、東京高等裁判所のロビーだった左上隅の特権は、落ちたときにも絶大な効果を発揮する掲示板の20m位手前から「1番」がないことがわかったA3サイズの紙きれなのにである私は膝から崩れ落ち呆然とした何も考えられなかった…………2年間の努力が水泡に帰した瞬間である年齢制限で,もうやり直せないふらふらとトイレによって帰路についた……そのことだけ覚えている実は,悪い予感が私にはあったのだそれは面接の2日前……あってはならないことが起きたのである