きょうだい児としての自分 | POLITE an EARTHLING

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次元コーディネイター
ぽらの軌跡

ここ最近もドタバタしてブログが書けなかったのですが、どうしても整理しなければならない内容が出てきてしまい、時間的体力的不安もあり、簡単な内容ではないので、何度かに分けて考察する必要があると感じますが、ひとまず内容の性質上、独白形式?で書いてみたいと思います。

 

(以下引用)

きょうだい児とは、病気や障がいのある兄弟姉妹を持つ子どものことを呼びます。

これまでの日本は、障がい者本人への支援は少しずつ充実してきているものの、それを支える家族には支援の手が行き届いていませんでした。しかし昨今、「ケアする人にもケアが必要」という考え方が広がってきたことにより、きょうだい児にも焦点が当たるようになってきました。

きょうだい児は、兄弟姉妹のことを直接的にケアする身体的・心理的負担に加え、その後の人生にも影響する孤独や辛さを抱え込みやすい傾向があるといわれています。

きょうだい児と同様に、家族をケアする役割として近年「ヤングケアラー」※にも関心が高まっており、どちらもケアする側の過重な負担が問題視されています。

 

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「きょうだい児」という言葉に出会ったのはごく最近のことである。

以前別府で弟と飲んだ時、その話をしたので、だいたいその頃だったと思う。

その時は「そういう考え方もあるのか、いい時代になったな」くらいの感じだったのだが

ここに来て、それが自分の人生にこれほど大きな価値観の変化をもたらすとはちょっと意外な気もしている。

 

 

それまで、何となく感じてた「きょうだい児」という概念について、深めたいと思ったきっかけは

今回の娘との別居と、それにまつわる事件?だった。

兄は私との約束を破り、ガメにこっそり手紙を出していたのだ。

偶然(なのか必然なのか?)ガメんちに行った時、私が先に郵便受けの手紙を見つけ事なきを得た(と思った)

一応、手紙の内容は、大したものではなかったのだが、それが兄貴の「手法」であることは長年の経験から分かった。

(セクハラ・モラハラ関連)

私は兄に「二度と私に無断でガメに関わらないように」と忠告したのだが

それで逆ギレし、「自分を粗末に扱うやつとは縁を切る!」とたいそうお怒りだったのである。

とりあえず、一人暮らしでもっぱら求職中のプー兄貴に対して、一応弟との合意の元に経済的な補助をしている。

障害年金をもらえるようになったことで気を良くし、会社を早期退職して、しばらくは退職一時金、失業保険でまかなえていたが、結局足りないので「金をよこせ」と言ってきたのだ。

お陰様で身の回りのことは行政がやってくれているので、私は極一部の「行政では介入しない」とされている部分のみ、援助すればよいことになっている。

 

言い過ぎたと思ったのか、それとも送金をやめられると困ると思ったのか、その後謝罪とともに身元引受人は今後も私にやってほしいとの連絡がきた。

送金の件、そして身元引受人の件についても、いずれまた弟と会って話し合いたいとは思っているが。

 

それが今回「きょうだい」について深めたいと思ったきっかけだ。

「きょうだい」という概念、そして「きょうだい」の声が世の中に出るようになったのはSNSが普及したごく最近のことだと言われている。

 

ある「きょうだい」関連の弁護士の言葉で記憶に残ったのが「一般に社会的弱者とされる人々が家庭でもそうであるとは限らない。逆のことも多い。その陰で存在を消され声を上げれずに来たきょうだい(等)の姿が見えて来つつある」というものだ。まさしくその通りだと感じる。

一般的に見ると社会的弱者である障害者(兄)は、家庭内においては神の様に祀り上げられ、家族を振り回す独裁勢力であった。

 

ちなみに、「きょうだい」の中には「光属性」と「闇属性」とにおおまかに分かれるらしい(今時の言い方だなぁと思う)

「きょうだい」であることを強みにした社会的立場を確立し(福祉関係の仕事に就くなど)「きょうだい」であること、そして自分たちの両親に感謝している人(きょうだい)のことを「光属性」と呼ぶらしい。

そして逆に、「障害者である兄弟姉妹を〇して自分も〇のう」と思うくらいまで思いつめた、深刻な闇(病み)の中で喘ぐ「闇属性」だ。私はもちろん後者側である。

兄に対して〇意を抱いたことは今のところ無いのだが、母に対して抱いたことはある。そういう自分が許せずに、蓋をして生きてきたと思う。ここに来て、母と同じような態度で猛威を振るう兄に対して自分がそのような思いを抱く可能性もないこともないが、自分もいい歳なので、諦めの方が勝つだろう。

 

 

きょうだいに対する見識を深めて行くうちに、「ああ私はここに居たのだ」と感じた。

長年の自分探しがここに帰着するとは思いもよらない部分でもあった。

 

すべての「きょうだい」に対して「あれ、これって自分のことじゃない?」という新鮮な驚きと共に

安直に「理解できる」とは言えない部分がそこにある。まさに心臓をえぐられるような思いで読み進めるしかなかったのだが

障害の種類や重さ、そして両親の在り方、その他の育った環境を含めて、実に様々な様相に分かれるのが「きょうだい」なのだ。そこには共通する部分、共感する部分が大きいがゆえに、そうでは無い部分、異なる部分に対する違和感・反発というものが大きくなるような気がする。一部には自分が「きょうだい」と呼ばれることを嫌がる人もいる。それほどに一筋縄ではいかない、一括りにできないのが「きょうだい」であるが、共通の課題を持ちケアを必要とし、それが成されているかいないかで、人生に大きな違いが出てきてしまうのが「きょうだい」なのかもしれないと思う。

 

きょうだいについて共通する部分というものが

全般的に「親に迷惑をかけてはいけない」「親の期待に沿ったいい子でなければいけない」という、

親や周囲の大人による洗脳と脅迫観念であると思う。

生まれながらにして一般的な子供らしさを許されず、機能不全家庭の中で育つことが大半である。

中には最初から障害児のケアを目的として弟妹を産む親もいるという。ひどい話だ。もちろん、そういうつもりでは無かったとしても現実的にそうなることは明白だ。それは障害児が年下である場合も同じだし、なおさらそうなのだろうと思う。

 

今こうして「きょうだい児」そして「おいめい児」(要するにガメたち)に関する概念と実態を知ることができたことが

今の自分、そしてこれからの自分にとって大きな意味を持つと感じると同時に

「今さら言われても・・・」というところが本音でもある。

確かに、私個人の人生においては今更どうしようもないし、これから大きく変わることも無いかもしれない。

ただ現実に向き合い、その都度対処していくしかないのだ。

 

ただ、これからも生まれてくるであろう障害者、きょうだいについて、

私の生きた人生が、何かの意味を持ち支えとなり癒しとなる部分があるとすれば

それがごく限られた狭い範囲のものであったとしても

それが自分が今生を生きた意味につながるかもしれないと思ったりもする。