禁断の扉? | POLITE an EARTHLING

POLITE an EARTHLING

次元コーディネイター
ぽらの軌跡

いやそこまで言う事も無いとは思いますが(;´∀`)

明日休みなので和布刈様に伺いたいと思っているのですが、昨日からすごい嵐。雷は鳴るし雨はひどいし。

今も雨が降り続けているので、どうなることやら。

 

それにしても、やけどの跡が超絶痒くて!!それに腕を降ろすとジンジンする。手をずっと上げておかないといけないし、痒さから気を紛らわせないといけない、ということで、ブログを書いています(爆)

 

なぜ和布刈様かというと、そこに両親の墓碑(海洋散骨)があって、名前を刻まれているから。

言わばお墓参りです。定期的な慰霊祭もコロナや天候の状況(今回は大雨)でなかなか行くこともままならないので

行ける時に行くスタンスではありますが。

 

そんなこんなで、自分にとっては身の毛もよだつ?母親への禁断の扉を開けざるを得ない状況になりました。

そうしないと自分を赦せないということが分かったからです。

これはホントに覚悟がいりますね・・・

 

母親は7人兄弟の5番目で、下の2人が幼くして亡くなったので、末っ子として甘やかされて育ちました。両親(祖父母)は共働きで、当時、重工業で栄えていた北九州市は夜も町の灯が消えない、めちゃイケイケだった時代でもあります。母代わりの姉に育てられ、30才までずっと家暮らしで働きもせず、甘やかされ放題、好きなようにし放題だった母親は、何でも自分の思うようにならないと気が済まない(実際何でも思うようになっていた)人でしたが、そんな母が最初にぶち当たった壁がケッコンだったようです。

(物心ついた頃からずっと母の話、愚痴を聞かされまくっていて、それを素直に何時間も聞いていた私だった)

母にはけっこう長くお付き合いしていた方がいて(父ではない)自分はその人とケッコンするんだと信じてやまなかった。だがしかし!長男だった彼氏さんのご実家から「こんな我儘なお嬢さんはうちの嫁にはもらえん」と断られたらしいのだ!

そこで気づけば良かった!恐らくショックだったとは思うが、自分の否を認められず、恐らく逆上して、そしてまた周りにちやほやされて、そしてその辺でウロウロ(失礼)していた父を紹介されて、ケッコンしたらしい・・・

 

父親は鹿児島の山奥から集団就職で出て来た、6人兄弟の4番目。竹藪の中で牛と一緒に住んでいて(←)高校に通うのすらままならない、貧しい家庭で、それでも兄弟の中で、なぜかずば抜けて頭の良かった父を高校に通わすために、両親(祖父母)はもちろん親族一同、力を合わせたのだそうで。一族の期待を担って、(それでも高卒だけれど)新日鉄に就職した父は、とにかく優秀で、独学で電気技師の免許を取り、日本国内の製鉄所から世界中の製鉄所建設に携わった日本の重工業の第一人者の一人とも言えるわけなんです(テレビにも出たらしい)

父が重んじられたのは、もちろんエンジニアとしての戦力もあっただろうけど、あの世代にしては珍しく英語が堪能だったこと。英語以外の言語についてもすぐに習得して現地で使いこなせる力と、温厚な人柄があったのだと思います。

だがしかし!お金と女性に関するトラブルが絶えず、とにかくお金には無頓着で、それこそ好きなようにやってきた(やらせてもらえた)一族のホープ様、お坊っちゃまだったので、その辺が母との相性が良かったのもあったのか、ともかく父も、付き合っていた女性との金銭問題に追われ、そこから逃れるべく母とのケッコンに走った、ということらしい。

 

そして生まれた第一子が障害児だった、という点については、様々な意味があると感じるのですが、とにかく当時サリドマイド等の薬害の問題もあったように、妊娠中の母に薬を処方した医者、そして勝手に薬をガブ飲み?した母の責任は大きいわけでもあり。そこには母の無知と欲が顕著に表れているのであった!

 

幸い、薬害を免れた第二子の自分は、母にとっては着せ替え人形であり慰み者でした。

障害児である兄を家に置き、私を飾り立ててデパートに通い、ちやほやされて悦に入っていた、と言う話を聞いて、同じ母親としては許しがたい思いが湧くが、やっぱり帰りには兄のことが心配で急ぎ足になっていたという。

というより、そういう話をなぜ自分にしたのかが理解できない。

要するに、自分は母の全てを受け入れて許さなければならない存在であったのです。

当時は素直だった自分は、何とかして母を慰めようと必死でした。あのまま家にいたら、恐らく、まぎれもなく一生ケッコンせず、兄と母の面倒を見ることになっていたでしょう(大して変わりませんが)

 

そんな自分の転機は紛れもなく某教会への献身(家出)でした。

「私を捨てるのか!!」と半狂乱になり、娘の話は一切聞かず、頑なに拒んだ母に、実は私が捨てられたのでした。

そんな中、忙しい合間を縫って教会に足を運び、話を聞いてくれた父。教会のことはよく分からないが、お前のことを信じる、と父兄会員になってくれた父はずっと大きな支えでした。

 

韓日のことも喜んでくれた父。2年弱の闘病を経て、私が渡韓する前に亡くなってしまいました。

孫の顔見たさに韓国にやってきた母と和解(ではない)して話せるようになってしばらく、離婚、帰国、離教。

そこでまた「自分の思い通りになった」とふんぞり返った母親との対立が始まり。

母となった自分にとってはますます理解できず、許しがたい存在でもあり。母が亡くなるまで、否、亡くなった後も、こうして確執が続いているのでありました・・・

 

私自身は、確かに女ではないけど、紛れもなく母親なのだな・・・と思う瞬間がよくあり。

確かに女ではないけど、女としての痛みは全て味わっている、という点では、

恐らく前世で相当女性をいじめて、虐げてきた男だったのだろう、とか思わんでもない節もあり。

 

なので、天才的、宇宙人的、能力者でもある父が、女性に翻弄され、金銭問題に見舞われていたという点はなぜか理解できるし赦せる。私の事を奴隷扱いし、他の女性に走った元夫のことも、まぁそうだろうな~と理解はできるし、赦せないこともない(というかどうでもいい)

「男は劣っている。女性には敵わない」と現実に打ちのめされ諦めている(悟り?)弟の言う事も理解できるし感心する。

 

でも、自分には理解できず、恐怖すら覚えるのは女性の嫉妬なのでした・・・

父との関係が良好だった自分を拒絶した母の心には私への嫉妬が渦巻いていたように思います。

30才を過ぎてから、ケッコンを通じて思うようにならない現実を知り、それに抵抗し、心を病んで老後を過ごした母でした。一般的にみれば、時間もお金も十分あって、親兄弟家族にも恵まれ、人生における苦悩のほんの一部しかしらない母親は、ものすごく恵まれているが、無知であるがゆえに、知ることを拒んだがゆえに、自分の殻に閉じこもって、不幸を演じる人になってしまったのだと思います。

 

謝罪して跪くなら金銭的な援助をしてやってもよいと、私の仕事を「飯炊きオバサン」と下げずんだ母親の言葉を聞いて

「この人は母ではない」とそこではっきり自分の中で決着がついたような気がします。

でも最低限の援助には感謝しないといけないと思う。子供たちに服やおもちゃを送ってくれたり、ガメのランドセルを買ってくれたり・・・それはもちろん、私たちのためではなく自分がやりたかったからでもあるのですが。そこにはいつも自分(母)の権威?がありました。

 

・・・そろそろ出勤時間なのでまとめないといけないのですが(◎_◎;)

とにかく、母のことを思い出せば出すほど、赦せない思いが強くなります。

もう亡くなって10年も経つのに。

そうして母にこだわり続ける自分は、母から本来の愛を受けれなかった自分と、母を愛せなかった自分への執着があるような気がしますね。

 

そんな自分の思いに向き合って一つ一つ整理しながら、

今回私がガメの元を自ら離れる決断をしたのは自分にとって大正解だったし、それを後押しして下さったご神霊には感謝に尽きませんm(__)m

 

要は現実と真摯に向き合って、自分の中のこだわりを一つ一つ解消して行くことが、本当の意味での先祖供養となるのかもしれないと思っています。

世界平和は自分から。それは現在に広がる世界でもあり、過去に連なる世界でもあるのかもしれません。

 

お読みくださいましてありがとうございますm(__)m