橋本遊郭跡をゆく ∼その2 目抜き通り∼ | 京都はんなりロマンチカ

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橋本は、元は京街道の宿場町だったらしく(正式なものではなかったそうですが)
宿泊客の多くは男山・石清水八幡宮の参拝者でした

精進落としの遊里として数十件の妓楼があったそうですが
明治5年に娼妓解放例が出されたことと
更には明治10年に対岸に国鉄・東海道線が開通して
繁栄を奪われたことで大打撃を受け、そこから一気に衰退していきます

そこで再び街を復興させるために京都府の認可をもらい
明治20年に正式な遊郭として登録されます

この時は娼妓9人、芸妓9人というたった18名でのスタートでしたが
明治43年に京阪電車が開通し、石清水八幡宮への参拝者の増加に加え
第一次世界大戦による好景気も追い風となって、大正11年には
娼妓127名、芸妓60名が在籍する規模にまで成長を遂げます


この頃が橋本に最も多くの芸妓が居たことで
前ブログの検番兼歌舞練場の『天壽荘』が建てられたみたいです

最盛期だった昭和12年、再復興50周年を迎えた橋本遊郭には
675名もの娼妓が在籍していましたが、この頃には芸妓は僅か3名だったそうです

天壽荘建設後、ほどなくして始まった世界恐慌により

娼妓より芸を磨くための費用がかかる芸妓は、激減していったのです

前置きが長くなりましたが、ここから橋本のメインストリートの写真を載せていきます

前ブログの1階が駐車場になっていたおうちを右折しました
この目抜き通りには左右に多くの郭だった建物が残されています

曲がってすぐ右手の家
 
玄関タイル
 
その向かいの家


玄関タイル


さらに右に進んでいきます


間口の広さからしてだいぶ立派な妓楼だったんでしょうね
内部がむっちゃ気になります


正面からも1枚
よく見ると、二階の窓ガラスの下が4色の色ガラスになってます


透かし彫りは鯉でした


鯉の妓楼から二軒隣
売春防止法の後、転業されたのかな~という感じです


スナックと書かれた扉の奥


壁のタイル




スナックの左の家は改装されてたので、タイル写真のみ


スナック右横に、これまた素敵な家


これは渡し船の透かし彫りだろうか





小さいながらもいたるところに素敵な装飾が施されていて
意匠を感じます


エメラルドグリーンのタイルが可愛い


その向かい側にも立派な妓楼跡


黒壁にピンクとブルーのタイルを合わせるなんて、モダンですよね~


勝手口のような扉を下から覗き込むと、石原楼と抜かれていました

角の鍾馗さん


蜘蛛の巣だらけだったけど、灯ればさぞかしロマンチックなんだろうなと思わせる
入口の照明


二階の窓

今来た道を振り返る


どの家も、内部もさぞかし素敵なんだろうなと想像してしまいます

新しく建て替えられてしまっている家の前は、どんなだっただろうと
なんの資料もないので、もどかしい気持ちでいっぱいです

次のブログは、橋本遊郭跡で唯一今も営業を続けられている
多津美旅館の写真を載せていきます