父が亡くなる一週間前、母は病院からよく呼び出された。私も、父が亡くなる2日前は行かなかったが、前日、既に危ないという事で、仕事を抜けて会ってきた。

毎日これだと疲れるから、危ないと言われた時は、家族で順番で行こうと言ったが、母は、私は奥さんだから呼び出されたら行くと言っていた。病院も危なくなれば、ご家族が来ようと来まいと連絡するとの事だった。実際、危篤でも来ない家族もいるとの事。

 

既に父は意識がなく痛みで苦しそうだった。看護師に痛みを抑える薬は射ってるんですかと聞いた所、これがそうですとベッドの上の黒い箱を指さされた。

 

父が亡くなる数日前、私は5時頃には起きていた。

父が亡くなる朝、母は、4時頃病院から呼び出されたそうだ。父は6月30日8時15分に息を引き取った。私が会社の朝礼中、会社に電話があり、母がお父さん息を引き取っちゃったよとの電話があった。

 

月末で会社はしばらく忌引でお休みになりそうだったので、1時間程パソコンの締めをしてから、病院に向かったが、受付ではもう父は出たとの事だった。私が着いたのはまだ午前中だったのに、そんなに病院ってドライなの❓とにかく、家族を探さなければならなかったので、母が高架下の葬式屋に頼もうかしらと言っていたので、そこに向かう事にして、バスに乗って駅に戻ったら、弟から電話があり、今、病院の霊安室にいるとの事だった。霊安室は、携帯の電波が入らないらしい。まったく、使えない田舎の病院の受付。ここで怒ってもしょうがないので、再び病院に行くためにバスに乗った。

 

父は霊安室で横たわっていた。おでこは、黄疸で黒くなっていた。家でゴロゴロするのが好きな父だったけど、死んで寝ているのは、全然違っていた。もう、起き上がる事はなかった。

 

霊柩車が来た時、病院のスタッフが見送りに来てくれたけど、主治医の医者達は居なかった。そりゃ、忙しいもんね。

 

母は、父と一緒の車で葬儀屋へ、私と弟はタクシーで葬儀屋へ向かった。

 

実家のまわりを車で移動するなんて事は、今までなかった。そして、そこでなんとオリンピックのロードレースの会場になっているという事も初めてタクシーの中から知った。

 

私が生まれた時も、ローマオリンピックの真っ最中、父はオリンピックが観たくて、母が病院にいる時に初めてのテレビを母に黙って買ってしまった。そして、その大好きなテレビに今は騙されワクチンを射ち、ターボ癌で死んでしまった。私が、ワクチンは射たないでとメール等で何度も言っていたが、私のいう事は聞かず、テレビを信じた。テレビとの皮肉な運命だった。

 

 

父が入院した週末、既に抗がん剤は手遅れという事で、緩和寮棟へ父を移すということで、緩和ケア医からの説明があった。

 

この医師は、初めて私と意見のあった医師だった。最近、萬田緑平先生という緩和ケア医の話を聞いてきたが、緩和ケア医というのは、人の死を見つめているので、先に会った外科医とは雲泥の差だった。

 

私達は、既に父が危なかったので、病院でコロナで面会できない中、度々呼び出された。

 

ワクチンを射った後は、黄疸のため、ポンポコお腹がまるで黄色いペンキを塗ったように真っ黄色だった。それを見た弟は、僕はワクチン射たないと言った程だ。

 

見舞いに行った時、父の言ってる事は、訳の分からない事が多かったが、もともとよく訳の分からない事を言って家族を笑わせていたので、皆んな病気のせいとは思ってなかった。

 

父からは、入院してる事は誰にも言うなときつく言い渡された。

 

また、あのドケチの父が母に銀行の暗証番号を教えたりしていて、危篤になるまで、頭はハッキリしていた。

 

緩和ケア医に、リトリアージの夢を見たという話をしていた。リトリアージって何❓緩和ケア医の先生も、病人が言ってる事だったので、謎だったが、多分父は、トリアージの話をしているようだった。

 

 

きっと、天国の門まで行って、こっちに来いとか帰れとか言われるのを、リトリアージっていうんだね。

次の週、父は抗がん剤の為入院する予定だったが、2回目ワクチンの為、入院は、6月の3週目となった。

 

父は、もう立っているのも精一杯の状態だったので、母は、芝居を打ち、私は看病でもうクタクタで、あなたの注射に付き添えないから行くのやめてと言ったが、父は、歩くのも不安な状態なのに、バスで一人で注射を射ちに行ってしまった。

 

父は、タカオという名前だったから、親戚からはタカちゃんといわれていた。タカちゃんは、石橋叩いて石橋割っちゃう性格だからね〜とよく言われていた。私にはどう意味かその当時は分からなかったが、後々、分かるようになった。

 

恐怖に煽られた行動には、恐怖しか返って来ないのだ。

 

私はというと、次の週末はコロナの回復中、体力温存の為、実家には帰らなかった。実家に帰っても、父は私の部屋に寝ていて、鏡台ダンスさえ使えない状態になって、とても私が生活できる状態ではない。

 

3週目父が入院した後、母から絶叫の電話がかかってきた。86歳の母にはもう体力の限界だったのだ。父は、2泊3日で退院する予定で、退院後もう、母では対応できないという事だった。その年の3月に仕事を辞めてしまった弟がいるが、あいつだけではどうしようもなかったのだろう。会社に相談するからと言っているのにもう、心中するしかないという事だった。この極端で話し合えない性格。私達家族は一度たりとも冷静に話し合ったことがない。後々この事に私は苦しめられる事になる。

 

絶叫の電話の後、また、母から電話があって、お父さんは、2泊3日の入院ではなく、しばらく入院する事になったと電話があった。医者の予想を超えて、進行の速い癌だった。