人はその生涯のうちで何度か何かから卒業する。
日本では多くの人が高校くらいまでは卒業を経験するのだろう。
僕も卒業した。苦い記憶としては米国での学位授与である。為すべきを成さず、到達すべきに届かないまま、つまり内実が伴わぬままに看板を得たことによるどうしようもなさ、ありていに言えば、強烈な恥の感覚とでも言おうか、そういう卒業が僕にはあった。誇りではなくレッテルまたは烙印としての卒業だった。しかし、帰国後の京都で改めて別の卒業を得ることで、その感覚は雪がれた。ありふれた称号が履歴書に一行加わっただけ。でも僕にとっては自信となり、新たな一歩を踏み出すのに十分な卒業となった。
約一年半前に入ったメイドのSyさんが、今日、御屋敷を卒業した。一年半前といえば、僕もまだ新人の訓練の足りない旦那様だった。だから、あまりSyさんの初期の頃を覚えてはいない。いつのまにか彼女はいて、御屋敷の風景の一部になっていた。小さな体で大きな笑顔が印象的な、元気のよいメイドさん。物怖じせずに、多くの旦那様お嬢様方と楽しそうにお給仕している姿を鮮明に思い出す。
そして本日。卒業式当日である。
開館前に待機列が出たとの連絡があり、急ぎ御帰宅。友人たちと座り話していると、横手でチェキ撮影。羊の女王さまと撮影するとき、Syさんが「いや、いい、あたしが背伸びしたい」と言ったのが聞こえてきた。彼女の前向きな人となりを表すような、色んな姿勢を垣間見るような言葉であり、つい応援したくなるようにさせる、そんな言葉だ。「顔をぎゅって近づけてくれて、え?え?え?好きになりそう…///」と撮影後、少々興奮気味に語ってくれたのは羊の女王さまである。
友人作家は、最近研修から外れたメイドさんとSyさんのユニ・チェキを撮影した際、そのあまりの尊さのゆえに、この場面を最後に網膜剥離してもかまわないと語っていた。おそらくテーブルごとに、旦那様お嬢様ごとに、またお給仕したメイドごとに、そんな小さな物語があったのだろう。
最近、メイド研究者の久我真樹氏が上梓した「日本のメイドカルチャー史」を読みながら、メイドの本質は見えないところにあるなと考えている。メイドはあくまで目に見えないところでのサービスが求められる仕事だからだ。人知れず苦労があっても、旦那様お嬢様の前では、つねに笑顔で丁寧に働く。そういう仕事なのだ。その意味では、卒業式というのは、本来目に見えないメイドが前面に立つ稀有な機会でもあった。
卒業式前に戻ってくることにして、一度外に出て、ガルパンを観終えた。劇中でも時間が過ぎていくことを知る。タイムフライズ、光陰矢の如し。少しずつ僕らは何かから卒業していく。
再び御帰宅、開式まで座る。卒業式が始まった。Syさんいわく、中学生頃からメイドへの憧れをもち、やがて働くようになったとのこと。人の目を気にし過ぎで、臆病な自分を受け入れてくれたメイド仲間と旦那様お嬢様、つまりは御屋敷への感謝を滔々と述べた。言葉にはならない様々な思いが、誰を問わず皆の胸に去来している。ときに目を拭う旦那様もみえた。なぜか僕も、眼鏡をかけているのに少し風景が滲んだ。旦那様は泣かないものなのだ。
最後、サプライズでサイリウムと色紙が旦那様お嬢様の有志から送られた。Syさんを推してきた旦那様が最後にオタ芸を捧げた。突如として館内に燈った灯は、その場のみなの思いを映すように温かい色合いだった。送る方も送られる方も幸せだな。良い花道である。
卒業というものは、色んな形でやってくる。僕が、経験したようなネガティブなものもある。しかし、のちに別の形で積極的な意味を持つようになることもある。未来は開かれている。未来は、その可変性のゆえに、不可視性のゆえに、過去という物語を改変するように機能する。Syさんだけでなく全てのメイドたちにいえることであるが、彼女たちが紡いだ物語は、彼女たちの予想をこえて歴史を形成していく。そして、彼女たちの歩みにとっても、たとえば十数年後に、または数十年後に、少しの意味、傾きを持つかもしれない。それが何かは誰にも分からない。しかし、その意味の傾きが良いものであることは信じてよいのだ。メイドとしての彼女の物語は終わり、別の扉が開かれて、何か新しいことが始まっていく。時間が過ぎていくというのは、そういうものである。
ある場所から卒業することで見えてくるもの、気付くものがある。Syさんは僕にとって喜ばしい御屋敷の風景だった。そして、僕が、彼女にとって大切な場所の、一風景であることができたならば、この上ない幸いである。旦那様冥利に尽きるといえる。
Syさんが今後もつつがなく健やかにあることを祈る。他者にはどこまでもポジティブなのに、自分のことについてはネガティブになりがちなSyさんにとって、御屋敷での時間が自信となったならば、素晴らしいことだと思った。深々と頭を下げて見送り、そして僕も見送られた彼女に感謝を送りたい。お疲れさまでした。今まで大変お世話になりました。どうか、今後ともお元気で。神様の祝福を祈ります。
いってらっしゃいませ、と見送ってくれた彼女に僕もいった。そして旦那様お嬢様も思っただろう。
Syさん、いってらっしゃい!
https://twitter.com/GoeKuro/status/941322317719732225 様より引用。