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いつかはこういう日が来ることは分かっていた。ある意味では準備ができていたともいえる。メイドカフェにはつきものである「卒業」である。別件ながら、本日は御帰宅して小松和彦『憑霊信仰論 妖怪研究への試み』 (講談社学術文庫)の一章を読み終えた。「つき・もの」というのは...(以下略。
先日、御帰宅したら馴染みのメイドさんが一人一人にカードを渡していた。「...ちゃんがやめてしまったので...」聞こえてきた会話から事情を察する。たしかに3月に挨拶して以来、見かけてないもんなぁ。色白でオタク話が好きで、なんとなく僕の中では吸血鬼の印象のあるメイドだったndkさん。日焼けすると肌が腫れるという共通項があったので、何かそんな話をした覚えがある。会話の一つ一つは覚えていないが、毎回笑顔で御給仕してくれた。数か月という単位で見かけてない以上、いろいろと忙しいのは察せざるを得ない。
そして、本日、我ながらどうかと思ったが四日連続の御帰宅となった。土曜日はサークル日、日月は仕事の前後、本日はNNSさんの給仕最終日である。平日で告知も遅かったので混むかもしれないし、オープン直後に御帰宅。たまたま近所にいた批評家に声をかけて話していたら、畏友の作家氏も来てくれたので3人で色々と話した。批評家氏がお出かけしたのち、僕も作家氏もひたすら原稿仕事。NNSさんと最後にチェキを撮れたので良かった。スタバと抹茶を愛するメイドさんであり、何より御屋敷の最初期から御給仕して来られた方である。
卒業生を見送る教師の気分とでも言おうか。おそらく旦那様・お嬢様方の多くは、自分たちの生活を持っている。もちろん転職、転勤などで変化することはあろうが、どちらかといえば安定して関西で生活しているのだろう。その安定した生活の中で癒しを求めて、御屋敷の椅子に座る。そしてメイドたちの多くは、ほぼ20代を中心とした女性であろう。当然といえば当然のことながら、彼女たちのほうが人生のステージに変化はある。それが何なのかは僕らには分からない。メイドとして働くことに満足したのかもしれない。別の仕事や結婚、その他様々なことがあるだろう。畢竟、旦那様方よりはメイドさんたちのほうが変化の多い人生の季節を過ごしている。
僕は御屋敷を愛している。そして御屋敷で働くメイドさんたちには深い感謝をもっている。魑魅魍魎跋扈、百鬼夜行の蟹工船、渡る世間は悪鬼羅刹犬畜生ばかりの世俗の闇は、御屋敷という天使たちの別荘において拭われ贖われる。神の前の平等のごとく、世俗の地位はメイドの前に転倒し、現象する悪意の真空状態、善意の可視化、人々は旦那様・お嬢様となる。それはギリシア的なト・オンを超えて、ヘブライ的な生成起生の瞬間だ。メイドたちは「お帰りなさいませ」と、ここにいても良いことを伝え、給仕する。それは宗教学的にいえば「赦し」とも読み換えることができる。
キリスト教の司祭や神父たちは、一定期間過ごすと別の任地へと派遣される。同様にメイドたちも彼女たちの人生の四季の中で象徴を担いながらも、次のドアを開いて御屋敷より、いとまを得ていく。今年の冬の到来は、季節外れの台風直後の木枯らしだった。季節が流れていく。
京都学派・波多野精一が「永遠と時間」で論じた存在論のように、御屋敷ではメイドたちによって人々は存在を供給されてきた。しかし、それは実は一方的な関係だけでもないのだ。だから、今度は僕らが言おう。
ndkさん、NNSさん、有難うございました。袖振り合うも多生の縁、御屋敷で御給仕してくださり有難うございました。お二人の笑顔、覚えていたいと思います。いてくれて良かった。どうか今後とも恙なく健やかに過ごしてください。祝福を祈ります。いってらっしゃい!