僕は2011年3月11日、日本にいなかった。確か米国東部標準時ではド深夜で、2chに入り浸っていたら「地震だああああああああああああああ」という書き込みののち、消えたIDがいくつかあったような気がする。3日間ほど眠るに眠れなかった。韓国人夫妻が「おまえ食べてないだろう、妻がつくったんだ、食え」と弁当をくれて、軽く笑顔で肩を叩いてくれたとき、泣きそうになった。
話が逸れた。同年6月13日だか14日に帰国した。期せずして今日前後、6年も前の話である。そのあと、一ヶ月ほどだろうか。僕は兵庫県の大阪よりの地域に居を構えた。ふと思い出して探してみると、当時の日記が出てきたので記す。
6/10(金) 11時半にセミナリ出発。よく晴れた日。TOKYOで昼食後、空港へ。Rと別れた後にパソコンを忘れたことに気付く。あまり感慨もなく、また疲れていたり、パソコンのことで気が気でもなく、さらに、何かまた戻ってきそうな感覚もあり、約3年を過ごした街を後にする。飛び立つ瞬間だけ目が覚めた。シャーロット経由でシアトルへ。クタクタになりつつ、現地時間11時半、僕の時間で2時半に合流。
6/11(土) 午前中はゆっくりさせてもらう。午後から水門橋?やら何やら。マイクロソフト本社群、スタバ一号を見て来た。観光地のところも面白かった。魚もうまかった。
6/12(日) 一日教会。いい時間だったし、レターも渡すことができた。
6/13(月) 朝、10分遅れでシャトルバス到着。さようなら、アメリカ。13:08離陸。
6/14(火) 北米東部標準時で23:45、日本時間夕方の4時過ぎに到着。荷物のことなどあるが無事について感謝。友人宅で休む。コンビニでラーメン、ジュース、あぁ日本。
6/15(水) 朝、転居先へ到着。クタクタだが部屋も片付けていてくれて感謝。昼食は上司夫妻と回転すしへ。夜、職場の方がおでんをくれた。
6/16(木) 古道具屋を見てまわる。コーヒーメーカーを購入。
日記を改めて読むまで、シアトル経由で帰国したことさえ忘れていた。そういえばシアトルの写真はなぜか消えていた。SDカードを紛失したのだと思うが、見つからなかった。消えた200枚以上の記憶と瞬間。ともあれ、金はないが時間だけは大量にある仕事だった。だから、ちょっとした気まぐれで2ch仲間にきいて、日本橋のメイドカフェへ初めて案内してもらった。日本語に餓えていた僕の慰めとなったアニメ「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」で触れて知りつつあったオタク文化を体現した町、ポンバシ。米国東北部では決して味わうことのできないカオスがそこにはあった。帰国後、嬉しさのあまり携帯の新規契約を日本橋でした。いまでは、その携帯屋はなくなっている。
しかしながら初のメイドカフェは、その日「ナースデイ」だった。だからメイドカフェにいくも全員が看護師然としており、お出かけの際には「お大事に」と言われる始末。つまり、もっとも僕が明確に覚えているメイドさんから頂いた最初のことばは「お大事に」である。「いってらっしゃいませ」でも「おかえりなさいませ」でもないが、まあ良い思い出である。その後、あのメイドカフェには行っていない。名前も思い出せないが、なんとなく目星がついている。
同日だったか後からだったか、同じ2ch仲間よりあの駐車場から少し離れた有名な御屋敷を紹介された。おおおと思った。当初、恥ずかしくて何ともいえなかった。しかし、今思えば、この一歩が僕の人生に僅かな傾きを与えたのである。この僅かな差が、数年後、今のような形で花開こうとは夢にも思わなかった。人生、多くのことに可能性があるものである。デュナミスからエネルゲイアへ、そして、エンテレケイアへ。
のちの3年間、僕はあの御屋敷に海外や県外からの来客の多くを観光として案内することになる。そして、何の因果か、僕の御帰宅先のオーナー氏と出会うことになる。そして、彼を含む様々な人々との出会いが、予定していた人生航路から僕を少しずつ引き離し、セカイという大海へとつづく流れへ押し出して、羅針盤はくるくるとあらぬ方向を指さすようになるのである。しかし、帰国当時はそのようなことは微塵も思わず、「この仕事で一生やっていこう」という青年らしい決意の中で、祖国と故郷の大地を踏んだのだった。