『大正天皇』は-
 о明治天皇の唯一成人した皇男子(三男)
 -であり、
 оヒロヒトのような木偶の棒
 о(ヒロヒトはただのぶりっ子のカッコマン)
 -ではなくて、
 о天才
 -であり、いわば現在の、
 о高機能自閉症
 -とか、
 оアインシュタインのような学習障害者
 -であったとか、
 о21世紀日本
 -では精神異常者のレッテルが貼られるが、
 оノーベル賞受賞者
 -など、
 о高度な知的優越者たち
 -に見られる、
 о天才
 -であったと思われる。明治帝は、
 о近代立憲君主
 -として、
 о明治維新を為した元勲と言われた勝者たち
 -に伍して、
 о側近を組織して叛乱を企てた(具体的には天皇親政)
 -が、
 о明治憲法を作り帝国議会をなし歴代内閣総理大臣
 -となった伊藤下忍博文に、
 о〔機務6条〕(1886年9月7日 - 33歳)明治帝が親政の可能性を自ら放棄
 -という煮え湯を呑まされ、その後は、
 о夜毎の後宮の『絹のハンカチ』に励んだ
 -のは、
 о伊藤博文のロボットと化した
 -からであった。ヒロヒトは、
 о寡黙
 -であり、
 о丸で東條秀樹のような出来の悪さ
 -であり、
 о4兄弟の中では最劣等者
 -が長兄であった。なっちゃおらんとされた、
 о平成天皇
 -は、
 о結婚後
 -に人間(ひと)が換わって、
 о歴代天皇有数の事績
 -を成し遂げたのは、
 о絶世の美才女・正田美智子との結婚
 -以降であった。
 о令和帝は凡愚
 -であり、
 о皇后はきちがい
 -であり、
 о皇嗣(次期天皇)
 -から、
 о皇孫
 -へとの継承が決まっている。
★大正天皇(嘉仁(よしひと),1879年-1926年(47歳没))明治天皇の唯一成人した皇男子(三男)
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大正天皇
第123代天皇
在位期間
1912年7月30日 - 1926年12月25日
諱:嘉仁(よしひと)
称号:明宮(はるのみや)
印:壽(じゅ)
父親:明治天皇
母親:柳原愛子
皇后:貞明皇后(九條節子)
1900年(明治33年)5月10日 結婚
子女:昭和天皇(迪宮裕仁親王)
秩父宮雍仁親王(淳宮)
高松宮宣仁親王(光宮)
三笠宮崇仁親王(澄宮)
皇太子裕仁親王
大正天皇(たいしょうてんのう、1879年〈明治12年〉8月31日 - 1926年〈大正15年〉12月25日)は、日本の第123代天皇(在位:1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日 - 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日)。諱は嘉仁(よしひと)、称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。
崩御
1924年(大正13年)1月26日の裕仁親王の婚礼の宴席に出席せず、1925年(大正14年)5月10日に行われた銀婚式も、大正天皇は非公式な祝賀を受けただけで、午餐会に出席することができなかった。1925年12月19日には脳貧血を起こしトイレで倒れ、その後熱が続く。翌1926年(大正15年)年初からは風邪を引き、5月に完治したものの再び脳貧血を起こし、ほぼ歩行が不可能になった。8月に車椅子に座ったままの状態で、原宿駅の皇室専用ホームから鉄道に乗り、葉山御用邸へ移住した。この時に天皇は「イヤだイヤだ」と駄々をこね、目撃した人々は「狂人になった天皇が葉山に監禁されたと思った」といわれる
ラジオは1926年12月16日以降、娯楽放送を中止し、宮内省からの発表があれば随時病状を報道。1926年12月14日から死去までの宮内庁発表は61回行われ、ラジオでの放送は計433回に達した。これを受けてラジオの加入申込者数が急増し、翌年2月の大喪までに36万件に達した
1926年12月24日午後から肺炎が悪化し、午後7時に危篤となった。そして、翌日の1926年(大正15年/昭和元年)12月25日午前1時25分、皇后や皇太子夫妻、皇族、柳原愛子が見守る中、心臓麻痺により崩御。宮内庁からは天皇崩御後の午前1時45分に危篤になったこと、午前2時40分にようやく崩御が発表された。宝算47
皇子
妻の貞明皇后との間に、4人の皇男子を儲けた。皇女子はなかった1947年(昭和22年)に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令によって伏見宮系の皇族と宮家が皇籍離脱した際、昭和天皇と弟宮の三男子及び各妃とその子女が皇室に留まった。また、貞明皇后は次男の淳宮雍仁親王出産後の1903年(明治36年)夏に流産している
人物像
皇太子時代に富士山麓の愛鷹山御狩場で狩猟中に一人はぐれた際、通りかかった青年に道を尋ね、そして立ち寄った家でお茶漬けを勧められたり、陸軍の演習に参加した際に、突然旧友宅を訪問したり、当時上品な場所でないと見られていた蕎麦屋に入るなど、気軽で奔放な性格であった梨本伊都子は『三代の天皇と私』で「明治天皇と違って大正天皇は大変親しみやすいお気軽なお方でした」と評している
趣味は極端な洋風で、和服より洋服、日本酒よりワインを好んだ。娯楽は側近たちとビリヤードや将棋を楽しんだほか、皇太子時代には運動のため自転車に乗り、三菱財閥から献上されたヨット「初加勢」でクルージングを楽しんでいた
乗馬も嗜み、行幸時に話し相手となった原敬が大正天皇の馬の鑑識眼に驚いているほか、名和長憲らの指導を受けた乗馬の腕は優れたものがあった
また愛煙家で、自分が吸うたばこの香りや辛さについて注文を付け、東宮太夫がたばこの本数を減らすよう進言すると、通常より長い約11.5センチメートルの特製紙巻たばこを生産させている。また、梨本宮が参内した際に自分の煙草入れから葉巻を鷲掴みにして「持って行け」と渡したり、九州行啓時に鉄道に同乗した福岡県知事に「汝は煙草を好むや」と言ってたばこを差し出し、知事が驚いたエピソードがある
詩人として
『西瓜』
濯得清泉翠有光
剖来紅雪正吹香
甘漿滴滴如繁露
一嚼使人神骨涼

三島中洲の指導を受け漢詩を始めた大正天皇は和歌より漢詩を好み、昭陽の雅号を名乗った1896年(明治29年)から1917年(大正6年)の22年間に1367首の漢詩を創作し、その数は歴代天皇の中で突出している
人間関係
明治天皇(父)

貞明皇后(妻)と4人の息子たち
4人の皇子(1921年)。左から裕仁親王、崇仁親王、宣仁親王、雍仁親王
夫妻で側近とともにダンスを楽しんだり、漢詩を62首創作するなど、貞明皇后は大正天皇の趣味に合わせようとしていた。しかし夫婦仲は必ずしも良好だったわけではなかった。大正天皇は新婚早々に、同じく日光で避暑中の鍋島伊都子を頻繁に訪問しては、飼い犬を預けるなどの行動をとった際には、怒った節子妃が一時帰京したこともあった。そして、伊都子には梨本宮との結婚後も会いに行っており、東宮侍従長の木戸孝正に嘆かれている。
公式に側室制度(一夫多妻制)は廃止されていなかったが、大正天皇は側室を持たなかった。しかし他の女性への興味を隠そうとはせず、戯れて女官を追い回しては手を掴んで離さなかったり、女官に肖像写真を求めたりした。また、女官に手を付けていたとの噂が世間に広まっており、徳富蘆花がその日記に遺している。
山縣有朋
一方で、天皇がひどく嫌っていたのが山縣有朋である。1896年(明治29年)に山縣が沼津御用邸滞在中の皇太子を訪ね、君主のあるべき姿を説いた。このとき、皇太子は「山縣が酒に酔い、暴言を吐いた」と言いふらしたが、問題とならず済んだ。そして山縣は、天皇即位後も大正天皇に、父親の明治天皇を模範にした苦言を呈した。これに対して、大正天皇は山縣が拝謁を求めても直接会わず女官に対応させたりした。さらに、1916年(大正5年)12月に山縣が「枢密院議長を辞任したい」と漏らしたときには、結果的に留任したものの、大正天皇は辞任を認めただけでなく、いつ辞表を出すのか尋ね、その後も山縣に辞表提出を問うていた。そのほか、大正天皇は寺内正毅(初代朝鮮総督)に対し「山縣の人望のなさ」について言及している
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大正天皇
日本の天皇
第一次世界大戦期の君主
明治天皇の子女
日本の大元帥
日本の漢詩人
20世紀日本の詩人
大勲位菊花章頸飾受章者
大勲位菊花大綬章受章者
功三級金鵄勲章受章者
ガーター勲章金羊毛騎士団員
聖マウリッツィオ・ラザロ勲章受章者
1879年生
1926年没
19世紀日本の人物
20世紀の君主

 -『大正天皇』は、
 о“諱は嘉仁(よしひと)”
 о“明治天皇の唯一成人した皇男子(三男)”
 о“九条節子と結婚”
 о“4人の皇子(皇男子)をもうけた”
 о“、皇太子時代には沖縄県を除く各道府県を巡ったほか、1907年(明治40年)には史上初の皇太子の海外渡航として大韓帝国を訪問した”
 о“1926年(大正15年/昭和元年)の暮れの12月25日、肺炎に伴う心臓麻痺のため、47歳で崩御”
 -と、
 о暗殺の気配濃厚
 -の、
 оご最期
 -であったが、
 о初代明治王朝中興の祖
 -であった。
 о“天皇としては稀有で漢詩を趣味とし、歴代天皇の中で最多の1367首の漢詩を詠んでいる”
 о“明治天皇の第三皇子(皇男子)として誕生。生母は権典侍・柳原愛子”
 о“出産時に体調が悪かった柳原愛子はヒステリーを起こし、かつ難産となり、嘉仁親王は全身に発疹がある虚弱状態で生まれた”
 о“忠能とその妻・愛子は嘉仁親王の養育に全く役に立たず、実の祖母であり、当時中山邸に住んでいた中山慶子を中心に親王の養育が行われた”
 о“主治医となった浅田宗伯と慶子が相談し、強い漢方薬を頭に貼る荒療治を行った結果、体調が改善し、3歳になりようやく歩けるようになった”
 -と、
 оおしろい
 -の、
 о鉛害
 -による、さらなる、
 о毒殺
 -説濃厚。
 о“1883年(明治16年)から勘解由小路資生を宮内省御用掛として『幼学綱要』などの購読や習字を開始”
 о“規則に縛られることを嫌う性格から、授業の内容が気に入らないと授業そのものを投げ出してしまうことがあった”
 о“1887年(明治20年)8月31日、満8歳になったのを機に儲君かつ、美子皇后の実子と定められる”
 о“1888年(明治21年)は病気がちで、4月から百日咳にかかり学校を3ヶ月休み留年した。この頃の学業成績は、修身・読書・作文・実物(理科)・習字・遊戯(体育)が概ね良好だった”
 -この学習障害は、
 о凡人には理解されない天才
 -から来たものだったと思う。
 о“1889年11月3日に立太子礼が行われ皇太子になる”
 о“立太子後、皇太子の教育体制は軍事色が強まり、1891年(明治24年)には東宮武官長が設置され奥保鞏陸軍少将が就任”
 о“身の回りの世話から女官が排除された”
 о“軍人に囲まれる生活で皇太子は次第に精神的・肉体的に不安定となっていった”
 -天才には不幸なことに、
 о大元帥
 -が、
 о世界の列強国
 -となった、
 о日本帝国
 -にのしかかった。
 о“1894年(明治27年)8月、病弱で勉学が遅れている皇太子をそのまま進学させると劣等感が強まり、君主にふさわしい性格を育成できなくなると判断され、中等科1年修了をもって学習院を退学した”
 о“1895年5月には、風邪、腸チフスに罹り、さらに軽い肺結核で重体になり、11月まで寝込む。なお、この頃、柳原愛子を乳母だと思っていた皇太子は彼女に厳しくあたり、実母であると明かされても、なかなか信じようとはしなかった”
 о“皇太子の勉強の遅れを取り返すため、1895年以降、国学(和歌・作文・歴史・地理)を担当する本居豊穎、漢学(漢詩・漢文)を担当する三島中洲が東宮職御用掛、次いで東宮侍講となった”
 о“ほぼ休みなく詰め込み教育が行われたが、それが皇太子の健康を悪化させるという悪循環が繰り返された”
 -天才は、
 о詰め込み教育
 -には耐えられぬ。
 о“1898年(明治31年)、第3次内閣を組閣した伊藤博文は、皇太子に関し、健康増進を最優先としながらも政治や軍事などの見識を持たせるため、適当な人物を監督役や側近とするよう明治天皇に進言した”
 о“大山巌が東宮職監督に、明治天皇の信任が厚かった有栖川宮威仁親王が東宮賓友に任じられた”
 о“1899年(明治32年)5月、有栖川宮威仁親王は東宮輔導となり皇太子養育の全権を与えられると、それまでの詰め込み教育を改め健康第一へと転換させた”
 о“皇太子妃選びには明治天皇の側近であり、昌子内親王、房子内親王の養育主任であった佐々木高行が大きくかかわっていた。1891年頃から皇太子妃選びが始まり、妃候補となる皇族や公爵の娘が昌子内親王、房子内親王の遊び相手として赤坂離宮に招かれた。なお、明治天皇は皇太子妃をできれば皇族から選びたいと考えていた”
 о“まもなく、伏見宮禎子女王が有力候補となり、1893年春、佐々木は禎子女王が皇太子妃に相応しいと土方久元宮内大臣に伝え、華族女学校学監の下田歌子も推薦。これを受け、明治天皇は同年5月に禎子女王を皇太子妃に内定した”
 о“1898年(明治31年)になると、天皇の侍医である橋本綱常や池田謙斎が「禎子女王に肺病の疑いがある」と発言し出し、岡玄卿侍医局長も結婚中止を具申。これを受けて、1899年(明治32年)1月から2月に宮中首脳が協議を行い「皇統継続」を考えれば禎子女王を皇太子妃にすることは問題であると結論付け、3月22日に婚約内定が取り消された(大正天皇婚約解消事件)”
 о“体が丈夫で性格も悪くないという理由で消去法により九条節子が妃候補に浮上。1899年8月、九条節子が皇太子妃に内定した”
 о“1900年(明治33年)2月11日に皇太子嘉仁親王と九条節子の婚約が正式決定し発表されたが、皇太子の健康に不安を持つ声があったため、この時点では婚礼の日程は未定であった”
 о“皇太子が結婚前に他の女性に手を付けられないようにし、これ以上婚礼を延ばすことができないとして、婚礼を5月とすることが内定した。そして4月27日になって5月10日に婚礼を行うことが発表された”
 о“挙式は皇居の賢所で神式により行われた。皇居から青山御所への帰路は大勢の市民で埋め尽くされ、皇太子夫妻が乗った馬車の列が皇居正門で十数分間停止を余儀なくされる有様だった。結婚を祝して各地から多くの品々が献納され、その中には、東京市内の政治家・財界人を発起人とした東宮殿下慶事奉祝会による募金で建設された「東京国立博物館表慶館」やサンフランシスコの日本人移民から贈られたアメリカ製の電気自動車もあった”
 о“皇太子夫妻は5月23日から6月7日にかけ、三重県、奈良県、京都府の各府県を巡啓し、伊勢神宮や神武天皇陵、泉涌寺などを結婚報告のため参拝した”
 о“地方巡啓により皇太子の健康が回復した”
 о“これらの巡啓時に皇太子と皇太子一家の写真を下賜したり、地元新聞社が写真を発売したことは、皇室を国民に身近な存在とすることに大きな効果があった”
 -廃帝ヒロヒトは、
 о敗戦後(敗戦責任)
 -に、
 о臆面もなく日本中を渡り歩いた
 -というが、
 о天才は先駆者
 -であった。
 о“日露戦争時には皇太子は大本営付の大佐であったが、1904年(明治37年)11月頃、児玉源太郎参謀次長を中心に皇太子を大総督とする陸軍大総督府を大陸に設ける案が立てられた。皇太子も大陸への出征に積極的であったが、指揮が混乱するとの桂太郎首相や寺内正毅陸軍大臣の反対を受けて実現せずに終わった”
 о“皇太子は少なくとも1899年(明治32年)には外遊を希望しており、同年作の『夢遊欧州』と題する漢詩でロンドンやベルリンを訪問する夢を謳ったり、『遠州洋上作』では「一躍雄飛五大洲」と書いていた”
 о“明治天皇は西洋一辺倒になる懸念があるとして皇太子の洋行を認めない”
 -明治帝は、
 о子どもなどに興味はない
 -のであり、
 оおかしな干渉
 -である。
 о“1907年(明治40年)9月、伊藤博文韓国統監は、純宗の即位を機に日韓親善を名目として、英親王李垠が日本に留学し、代わりに皇太子が大韓帝国を訪問することを提言。明治天皇は韓国の治安が義兵運動で悪化していたことから難色を示したものの、伊藤が説得して韓国訪問が決定した”
 о“皇太子には有栖川宮威仁親王のほか、東郷平八郎、桂太郎前首相、花房義質宮内次官らが随行。10月10日に東京を鉄道で出発し、宇品港から戦艦香取に乗船、10月16日に仁川に上陸して、純宗や李垠の出迎えを受けた。10月17日から19日まで漢城に滞在し、韓国駐箚軍司令部、倭城台公園(現・南山公園)、昌徳宮、景福宮などを巡ったほか、統監官邸で高宗と面会した。10月20日に漢城を出発、鎮海の視察を経て帰国”
 о“このとき皇太子は李垠を気に入り、彼が日本に留学した後、朝鮮語の学習に熱意を見せるようになった。この朝鮮語学習は天皇即位後も続き、侍従に時々朝鮮語を話していた”
 о“1908年9月から10月にかけては東北6県を行啓した。その後、まだ行啓していない地域からの請願を受けて、1909年9月から10月に岐阜および北陸3県、1911年8月から9月に北海道、1912年に山梨県を訪れ、これで沖縄県を除く全国を訪問した”
 -という名君。
 о“1909年(明治42年)11月、陸海軍中将に昇進するとともに参謀本部付となり、1910年(明治43年)5月からは週2回参謀本部に出勤した”
 о“1912年7月29日夜、明治天皇が崩御。皇太子は7月30日午前1時に践祚”
 о“11月には貞明皇后とともに伏見桃山陵を参拝。京都へ向かうお召し列車の中で大正天皇は原敬内務大臣を呼び雑談をするが、以後も原は行幸や大演習の際に話相手として再三呼ばれる”
 о“1914年4月に昭憲皇太后が崩御した”
 о“大正天皇は即位礼の準備委員長である原敬に儀式の簡素化や日程短縮の希望を伝えていた”
 о“貴族院書記官長の柳田國男が莫大な労力と経費をかけ前代未聞であると評した儀礼が行われた”
 о“皇后は「『女性が政治に関わるべきではない』という明治天皇の意思を守りたい」として断った”
 о“第一次憲政擁護運動”
 о“桂内閣の倒閣”
 о“1913年(大正2年)5月、風邪をこじらせ体温39度を超える肺炎となる。肺炎は同月末に治癒する”
 о“1914年(大正3年)3月、シーメンス事件により第1次山本内閣が総辞職した際には、大正天皇は後継総理の選定を元老に委ねたにもかかわらず、昭憲皇太后危篤の報を受けて沼津御用邸へ向かう車中で山本権兵衛に留任を求める不用意な発言を行う。しかし、以前から大正天皇の政治能力に疑問を持っていた山本はこれに取り合わず山縣有朋を推薦。天皇は直ちに山縣を呼び組閣を命じたが、山縣にも断られ、かつ諫言を受ける有様であった”
 о“1934年には波多野敬直宮内大臣が井上馨に、大正天皇は元老に「何を諮問すべきか否かの事の軽重や、職務権限を理解していない」と愚痴をこぼしている”
 о“1915年(大正4年)、第2次大隈内閣の大浦兼武内務大臣の汚職事件が発覚すると、7月に大隈重信は「事件の責任を取る」として全閣僚の辞表を天皇に提出した。大隈を信頼していた大正天皇は辞表をその場で却下しようとしたが大隈の要請で留保され、元老に対応を協議した。山縣有朋は大隈留任の方針であったが、軽率な判断をしないよう天皇に諫言している”
 о“大隈は翌1916年(大正5年)6月に内閣総辞職を決断。大正天皇は山縣有朋ら元老に後任選考を委ねたが、山縣が推薦する寺内正毅に反対の大隈は辞意を取り消す内奏を行い、天皇もこれを受け入れてしまう。面子を潰された山縣は今度も天皇に軽率な判断をせず元老に任せた筋を通すよう諫言”
 -大正天皇の治世は、
 о前弩級戦艦の日露戦争
 -後、
 о大正天皇訪韓(1907年 - 27歳)
 о日露協約(1907年7月30日 - 1916年7月3日)
 о英露協商(1907年8月31日)露仏英三国協商
 о伊藤博文没(1909年10月26日 - 68歳)
 о満州鉄道中立化提案(1909年)
 оサウス・コリア併合(1910年8月22日)
 о辛亥革命(1911年10月10日 - 1912年2月12日)
 о明治天皇没(1912年7月30日 - 59歳)
 о大正天皇践祚(1912年7月30日 - 32歳)
 о〔大正政変〕
 о軍部大臣現役武官制廃止(1913年6月13日)
 о桂太郎没(1913年10月10日 - 65歳)
 о外電によりシーメンス事件発覚(1914年(大正3年))
 о〔第1次世界大戦〕(1914年7月28日 - 1918年11月11日)連合国(第1次大戦)
 оパナマ運河(1914年8月15日 - )
 о日本帝国が中華民国の袁世凱政権に対華21ヶ条要求(1915年1月1日)
 о大正天皇の即位の礼(1915年(大正4年)11月10日 - 35歳)
 о大正天皇大嘗祭(1915年11月14日 - 35歳)
 о超弩級戦艦(1915年 - 1941年)
 оトルキスタン・シベリア鉄道(1915年 - 1930年)
 о〔ユトランド沖海戦〕(1916年5月31日 - 6月1日)
 о〔ロシア革命〕(1917年(大正6年)10月25日)
 оロシア内戦(1917年 - 1923年)
 о大正天皇病(1917年 - 37歳)
 оシベリア出兵(1918年(大正7年)8月 - 1922年10月)
 о米騒動が発生(1918年(大正7年)- )
 о〔禁酒法〕アメリカ合衆国における禁酒法(1919年 - 1933年3月23日)
 оパリ講和会議(1919年(大正8年)1月18日 - )
 о戦間期(1919年 - 1939年)
 о朝鮮半島で3・1独立運動(1919年(大正8年)3月1日)
 оモスクワでコミンテルン創立大会(1919年(大正8年)3月2日 - 1935年)
 о中華民国で5・4運動(1919年(大正8年)5月4日)
 оヴェルサイユ条約(1919年6月28日)
 о尼港事件(1920年(大正9年)3月 - 5月)ロシア内戦
 о国際連盟設立(1920年(大正9年)6月28日)
 оヘンリー・フォードの著書『国際ユダヤ人』が発売された(1920年)
 оバーデン・バーデンの密約(1921年10月27日)
 о原敬没(1921年11月4日 - 65歳)東京駅で暗殺された
 оワシントン会議(1921年11月11日 - 1922年2月6日)
 о山縣有朋没(1922年2月1日 - 83歳)
 о〔ワシントン体制〕(1922年2月6日)ワシントン海軍軍縮条約
 о日英同盟破棄(1902年1月30日 - 1923年8月17日)
 о関東大震災が発生(1923年(大正12年)9月1日)
 о排日移民法が米国連邦議会で成立(1924年(大正13年)7月1日)
 о高校野球のメッカの甲子園球場が完成(1924年(大正13年))
 о〔日ソ基本条約締結〕日本政府がソビエト連邦を承認(1925年(大正14年))
 оラジオ放送開始(1925年(大正14年))
 о大正天皇崩御(1926年12月25日 - 47歳)
 -に加えて、
 о1918年-1921年のスペインかぜのパンデミック
 -という、
 о難しい時代(2019年11月17日-2023年4月のコロナ・パンデミック)
 -が、
 о大正帝の治世
 -であったのは偶然ではない。
 о“1918年米騒動(大正7年)”
 о“大正天皇は1918年(大正7年)末に風邪を引き、帝国議会開会式を欠席。翌1919年(大正8年)正月の儀式はほぼ予定通り行われたが、風邪が長引き1月末から3月まで葉山で静養する”
 о“言語障害や身体の傾斜といった真の病状は公表されなかった。なお、大正天皇本人は自身の病状を認識しておらず、「普通である」と考えていた。その後は必要最低限の面会以外は静養に専念し、行事への参加等は皇太子裕仁親王や貞明皇后が代行することになる”
 о“1920年(大正9年)から1921年(大正10年)2月にかけ皇太子妃の内定取り消しをめぐる宮中某重大事件が発生する”
 о“1921年3月、皇太子裕仁親王は懸案だった欧州訪問に出発”
 о“1921年11月4日に原首相が暗殺された”
 о“1921年12月には侍従に対し「己れは別に身体が悪くないだろー」と何度も話しかけたりしていた”
 о“1924年(大正13年)1月26日の裕仁親王の婚礼の宴席に出席せず”
 о“1925年12月19日には脳貧血を起こしトイレで倒れ、その後熱が続く。翌1926年(大正15年)年初からは風邪を引き、5月に完治したものの再び脳貧血を起こし、ほぼ歩行が不可能になった。8月に車椅子に座ったままの状態で、原宿駅の皇室専用ホームから鉄道に乗り、葉山御用邸へ移住した。この時に天皇は「イヤだイヤだ」と駄々をこね、目撃した人々は「狂人になった天皇が葉山に監禁されたと思った」といわれる”
 о“1926年10月末から38度を超える高熱が続いた”
 о“1926年12月8日に呼吸困難に陥り、急遽取り寄せられた酸素吸入器が使われた”
 о“ラジオは1926年12月16日以降、娯楽放送を中止し、宮内省からの発表があれば随時病状を報道。1926年12月14日から死去までの宮内庁発表は61回行われ、ラジオでの放送は計433回に達した。これを受けてラジオの加入申込者数が急増し、翌年2月の大喪までに36万件に達した”
 о“1926年12月24日午後から肺炎が悪化し、午後7時に危篤となった。そして、翌日の1926年(大正15年/昭和元年)12月25日午前1時25分、皇后や皇太子夫妻、皇族、柳原愛子が見守る中、心臓麻痺により崩御。宮内庁からは天皇崩御後の午前1時45分に危篤になったこと、午前2時40分にようやく崩御が発表された。宝算47”
 -と、
 оラジオNHKの成立
 -とも合う。
 о“大正年間に日本の国際的地位が高まったこと、政治制度や文化など近代化の一層の進展が大正天皇の功績として挙げられていた”
 -わが国は、
 о列強国入り
 -してしまったのは、
 о大正帝最大の不運
 -であった。
 о“大正天皇精神病者説”
 о“大正天皇が、あるとき勅書が逆に巻いてあったため、その次の際、巻き方が間違っていないか遠眼鏡のように覗き込んで確認したという話を大正天皇から直接聞いた”
 о“妻の貞明皇后との間に、4人の皇男子を儲けた。皇女子はなかった”
 о“1947年(昭和22年)に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令によって伏見宮系の皇族と宮家が皇籍離脱した際、昭和天皇と弟宮の三男子及び各妃とその子女が皇室に留まった。また、貞明皇后は次男の淳宮雍仁親王出産後の1903年(明治36年)夏に流産している”
 -という。
 о“皇太子時代に富士山麓の愛鷹山御狩場で狩猟中に一人はぐれた際、通りかかった青年に道を尋ね、そして立ち寄った家でお茶漬けを勧められたり、陸軍の演習に参加した際に、突然旧友宅を訪問したり、当時上品な場所でないと見られていた蕎麦屋に入るなど、気軽で奔放な性格であった”
 о“梨本伊都子は『三代の天皇と私』で「明治天皇と違って大正天皇は大変親しみやすいお気軽なお方でした」と評している”
 -という、
 о天才の気さくさ
 -は得難い。
 о“趣味は極端な洋風で、和服より洋服、日本酒よりワインを好んだ”
 о“運動のため自転車に乗り、三菱財閥から献上されたヨット「初加勢」でクルージングを楽しんでいた”
 о“乗馬も嗜み、行幸時に話し相手となった原敬が大正天皇の馬の鑑識眼に驚いているほか、名和長憲らの指導を受けた乗馬の腕は優れたものがあった”
 о“愛煙家で、自分が吸うたばこの香りや辛さについて注文を付け、東宮太夫がたばこの本数を減らすよう進言すると、通常より長い約11.5センチメートルの特製紙巻たばこを生産させている”
 о“梨本宮が参内した際に自分の煙草入れから葉巻を鷲掴みにして「持って行け」と渡したり、九州行啓時に鉄道に同乗した福岡県知事に「汝は煙草を好むや」と言ってたばこを差し出し、知事が驚いたエピソードがある”
 -など、
 о多才さ
 -が漂う。
 о“詩人として”
 о“『西瓜』”
 о“濯得清泉翠有光”
 о“剖来紅雪正吹香”
 о“甘漿滴滴如繁露”
 о“一嚼使人神骨涼”
 о“三島中洲の指導を受け漢詩を始めた大正天皇は和歌より漢詩を好み、昭陽の雅号を名乗った”
 о“1896年(明治29年)から1917年(大正6年)の22年間に1367首の漢詩を創作し、その数は歴代天皇の中で突出している”
 о“古川隆久は「心の鋭敏さの点では明治・大正・昭和三代の中で一番鋭い感じがする」”
 -と、
 о天才
 -を匂わせる見解。
 о“明治天皇”
 о“皇居に参内してもなかなか天皇に会わず、会っても会話が弾まなかった”
 о“夫妻で側近とともにダンスを楽しんだ”
 -など、
 о父子の不仲
 -が臭う。
 о“公式に側室制度(一夫多妻制)は廃止されていなかったが、大正天皇は側室を持たなかった”
 о“他の女性への興味を隠そうとはせず、戯れて女官を追い回しては手を掴んで離さなかったり、女官に肖像写真を求めたりした。また、女官に手を付けていたとの噂が世間に広まった”
 -明治帝は、
 о後宮
 -を次代に送らなかったようだ。
 о“皇太子が突然皇孫仮御殿に立ち寄って鬼ごっこに加わったり、少なくとも週一回は家族団らんの時を過ごすなど、子煩悩な父親ぶりを示した。家族団らんの場では、皇后が弾くピアノに合わせて子どもたちと軍歌や唱歌を歌ったりした”
 о“天皇がひどく嫌っていたのが山縣有朋”
 о“1916年(大正5年)12月に山縣が「枢密院議長を辞任したい」と漏らしたときには、結果的に留任したものの、大正天皇は辞任を認めただけでなく、いつ辞表を出すのか尋ね、その後も山縣に辞表提出を問うていた。そのほか、大正天皇は寺内正毅(初代朝鮮総督)に対し「山縣の人望のなさ」について言及している”
 -誰もが嫌う、
 о元勲山縣有朋
 -が残った。
 о“「脳病」について”
 о“当時、白粉を使う女性は鉛中毒を患っていたが、その白粉を乳幼児が吸ったり、母乳から摂取すると鉛中毒による脳膜炎を引き起こすことがあった。大正天皇の病気の原因も乳母が使用した白粉の可能性があると考察されている”
 о“1920年3月に三浦謹之助東京大学教授、池辺棟三郎侍医頭は、大正天皇は即位後の多忙により神経過敏となったうえ、2年前から内分泌臓器のいくつかが不調となり、幼児期の脳膜炎の影響から心身の緊張を要する儀式の際に体が傾くなど平衡を失うようになったため、政務を見る以外には儀式に出ず静養することが必要である、との診断書を出している”
 -実際、
 о暗殺か
 -と、
 о病気か
 -は分からない。(つづく)<記2020年12月31日>〈25,769Byte〉