『ミッドウェー島』は-
о環礁
-であり当時は、
о要衝
-であった。
★ミッドウェー島(ミッドウェー環礁,ほぼ平坦)
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ミッドウェー島
ミッドウェー島(ミッドウェーとう、Midway Atoll)、ミッドウェイ島は、北太平洋のハワイ諸島北西にある環礁で、ミッドウェー諸島やミッドウェー環礁とも呼ばれる。位置は北緯28度13分 西経177度22分。 アメリカ領太平洋諸島に属し、標準時はUTC-11。
地理
ミッドウェー島のパノラマ写真。島はほぼ平坦でサンゴ礁質の石灰岩からできている。
ハワイ-天皇海山列の北西ハワイ諸島に属する火山島。ハワイから東京への距離の1/3ほど、ジョンストン島から北に約1,000キロの位置にある。
約2,800万年前にハワイ・ホットスポットでハワイ諸島のラナイ島とほぼ同程度の火山島を形成したと考えられ、プレート運動により移動しながら活動を休止、徐々に沈降しながら環礁を形成した。礁湖は2つの大きな島(Sand Island 0.49km2、Eastern Island 0.14km2)といくつかの無人島で囲まれ、陸地面積は6.23km2、礁湖の面積は60.1km2、これに砂州が加わる。西に隣接するクレ環礁とともに、環礁形成の北限とされる。
北米大陸とユーラシア大陸の中間点に位置、「ミッドウェー」の名称はこれに由来している。北西ハワイ諸島のなかでは、ほぼ唯一の有人島で人口60人ほど(2014年)を有するが、ミッドウェー島だけがハワイ州に属していない。
歴史
1859年7月5日に Captain N.C. Middlebrooks(Captain Brooksとして知られる)によって発見され、「Middlebrook Islands」と命名された。1867年8月28日に Captain William Reynolds が米軍艦 USS Lackawanna で訪れ、アメリカ合衆国による領有を宣言し、ミッドウェー(Midway)島と改名した。
1871年3月24日、議会から資金を得た Pacific Mail Steamship Company のUSS Saginawが、ラグーンへの水路建設事業に着手した。ハワイ王国の港湾使用料を避ける給炭所を建設する計画だったが、10月29日に船が立ち寄ったクレ環礁で座礁し、事業は失敗した。
1897年前後からアホウドリ捕獲を目的として日本人が北西ハワイ諸島に進出。日本政府内ではミッドウェー島の借り入れ問題が検討された。1900年、海底電線敷設敷設調査のために派遣されたアメリカの調査船がイースタン島に日本人が居住しているのを発見。これを受けてアメリカ政府は日本に対して島の主権確認の申し入れを行い、日本側は主権を主張する意思はないと回答した。
1903年1月20日、アメリカ海軍管理下に置かれた。この年開通したサンフランシスコ-マニラ間の太平洋海底ケーブルを敷設中だった Commercial Pacific Cable Company の要請に応じたもので、21人の海兵隊員が駐留した。工事に伴い、多数の外来種が持ち込まれた。
1935年に、パンアメリカン航空の飛行艇がアメリカ-支那航路を開設すると、その中継地となり、太平洋を横断する航空機の給油地となった。軍事面の要衝であり、1940年頃よりハワイ防衛の拠点として基地化が進んだ。
第二次世界大戦中の1942年6月4日には、この環礁を巡り、近海で日本海軍とアメリカ軍との海戦が行われアメリカ軍が勝利した(ミッドウェー海戦)。日本は海戦に勝利した場合、ミッドウェー島を『水無月島』と改名して領土化することを予定し、直ちに占領体制を敷けるよう郵便局長など多数の文官を艦隊に帯同させたが、敗退によってその試みは潰えた。
冷戦期もアメリカ海軍の基地が置かれ、ベトナム戦争中の1969年6月8日にはベトナム共和国のグエン・バン・チュー大統領とニクソン大統領の会談の場となった。
冷戦終結後、島は自然保護区(ミッドウェー環礁国立自然保護区)となることが決定され、軍事基地は1996年に閉鎖された。その後はエコツーリズムの場として観光客の受け入れが行われていたが2002年に中止された。
合衆国魚類野生生物局の管理下、担当官が数十名駐在して野生生物の保護、汚染の調査などにあたり、2012年まではボランティアの受け入れも行われ、Google ストリートビューも撮影されたが、2013年以降は予算削減により無人化した。
一般人の立ち入りは制限されているが、その地理的環境から、稀に太平洋を横断する航空機が緊急着陸することがあるほか、島内にミッドウェー海戦の慰霊碑がある関係から、日本の海上自衛隊の艦船が立ち寄ることがある。
自然
ミッドウェー諸島には数々の海鳥が生息する。なお、クロアシアホウドリの世界最大の繁殖地であり、旗になっているコアホウドリも非常に多い。特に、カモメ科の海鳥ではセグロアジサシ、クロアジサシ、ナンヨウマミジロアジサシ等のアジサシ類が多数生息している。その他、レイサンガモやレイサンヨシキリ等の固有種も数々存在するが、外来種の侵入や狩猟によって、その多くが絶滅したり、または絶滅危惧種になっている。2011年、2012年、2014年にはイースタン島でアホウドリの繁殖が確認されている。
自然保護政策の一環として、2006年にアメリカ合衆国ナショナル・モニュメントとなる、北西ハワイ諸島海洋ナショナル・モニュメント(後にパパハナウモクアケア海洋ナショナル・モニュメント)が設置され、ミッドウェー島もそれに含まれている。
カテゴリ:
合衆国領有小離島
太平洋の島
アメリカ合衆国の環礁
アメリカ合衆国の野生生物保護区
-『ミッドウェー島』は、
о“ハワイ諸島北西にある環礁”
о“ミッドウェー環礁”
о“ほぼ平坦でサンゴ礁質の石灰岩からできている”
о“ハワイ-天皇海山列の北西ハワイ諸島に属する火山島”
о“プレート運動により移動しながら活動を休止、徐々に沈降しながら環礁を形成した”
о“環礁形成の北限とされる”
о“北米大陸とユーラシア大陸の中間点に位置”
о“ミッドウェー島だけがハワイ州に属していない”
о“1867年8月28日に Captain William Reynolds が米軍艦 USS Lackawanna で訪れ、アメリカ合衆国による領有を宣言し、ミッドウェー(Midway)島と改名した”
о“ハワイ王国の港湾使用料を避ける給炭所を建設する計画だったが、10月29日に船が立ち寄ったクレ環礁で座礁し、事業は失敗した”
о“1897年前後からアホウドリ捕獲を目的として日本人が北西ハワイ諸島に進出。日本政府内ではミッドウェー島の借り入れ問題が検討された。1900年、海底電線敷設敷設調査のために派遣されたアメリカの調査船がイースタン島に日本人が居住しているのを発見。これを受けてアメリカ政府は日本に対して島の主権確認の申し入れを行い、日本側は主権を主張する意思はないと回答した”
о“1935年に、パンアメリカン航空の飛行艇がアメリカ-支那航路を開設すると、その中継地となり、太平洋を横断する航空機の給油地となった。軍事面の要衝であり、1940年頃よりハワイ防衛の拠点として基地化が進んだ”
о“第二次世界大戦中の1942年6月4日には、この環礁を巡り、近海で日本海軍とアメリカ軍との海戦が行われアメリカ軍が勝利した(ミッドウェー海戦)”
о“軍事基地は1996年に閉鎖された”
о“2013年以降は予算削減により無人化した”
о“クロアシアホウドリの世界最大の繁殖地”
-という。
★ミッドウェー海戦(南雲忠一,1942年)
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ミッドウェー海戦
戦争:第二次世界大戦(太平洋戦争)
年月日:1942年6月5日 - 6月7日
場所:ミッドウェー島周辺
結果:アメリカ軍の勝利
日本海軍機動部隊の壊滅
交戦勢力
大日本帝国
:
アメリカ合衆国
指導者・指揮官
日本 山本五十六
日本 南雲忠一
日本 近藤信竹
日本 山口多聞
† :
アメリカ合衆国 F・J・フレッチャー
アメリカ合衆国 R・A・スプルーアンス
戦力
航空母艦4
戦艦2
重巡洋艦2
軽巡洋艦1
駆逐艦12
艦載機248
水上機16
MI作戦戦力
:
軽空母2
戦艦5
重巡4
軽巡2他
:
航空母艦3
重巡洋艦7
軽巡洋艦1
駆逐艦15
艦載機232
基地航空機101
飛行艇31
水上機1
潜水艦20
ミッドウェー島守備隊
:
3,000人
損害
航空母艦4沈没
重巡洋艦1沈没
重巡洋艦1損傷
駆逐艦1損傷
戦死3,057名(航空機搭乗員の戦死者は110名)
:
航空母艦1沈没
駆逐艦1沈没
戦死307名(航空機搭乗員戦死者は172名)
ミッドウェー作戦
K作戦 ミッドウェー海戦
ミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん、英語: Battle of Midway)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の1942年(昭和17年)6月5日(アメリカ合衆国標準時では6月4日)から7日(6月3日から5日とする場合もある)にかけて、ミッドウェー島付近で行われた海戦。同島攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で発生し、日本海軍機動部隊とアメリカ海軍機動部隊および同島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は投入した空母4隻とその搭載機約290機の全てを喪失した。ミッドウェー海戦はMI作戦の一部であり、この敗北で同作戦は中止された。
背景
すなわち相当の危険性を承知でアメリカに対し、戦争で勝利するためには積極的な攻勢しかないと考えていた。アメリカ海軍は、1941年(昭和16年)12月の真珠湾攻撃で米太平洋艦隊主力の戦艦部隊が行動不能となった後、稼動状態にあった機動部隊を中部太平洋方面に出撃させ、日本軍拠点に対する一撃離脱戦法による襲撃を繰り返した。その度に日本軍は来襲の企図や方面の判断に悩まされた。
ドーリットル空襲
1942年4月18日、米空母ホーネットはミッドウェー近海で僚艦エンタープライズと合流し、第16任務部隊として日本に向けて進撃した。エンタープライズは航空支援を、ホーネットは日本本土に接近してジミー・ドーリットル中佐率いるB-25ミッチェル双発爆撃機で編成された爆撃隊を発艦させる役割分担である。爆撃隊はホーネットから発進後、東京を筆頭に日本の主要都市を攻撃する予定であった。
B-25爆撃隊は、東京、名古屋、大阪を12時間かけて散発的に爆撃。支那大陸に脱出後、不時着放棄された。
空襲による被害は微小であったが、日本本土上空にアメリカ軍機が侵入したことは日本に大きな衝撃を与えた。またアメリカ軍が航続距離の長い双発爆撃機を用いたために対応策が考えられず、陸海軍はより大きな衝撃を受けた。
参加部隊の状態
山本長官の意気込みとは反対に、4月下旬に日本本土に戻った第一航空艦隊(南雲機動部隊)は問題を抱えていた。開戦以来、ドック入りや長期休暇もなく太平洋を奔走したため、艦・人員とも疲労がたまっていた。さらに「相当広範囲の転出入」という人事異動のため、艦艇と航空部隊双方の技量が低下していた。
ミッドウェー海戦後の戦闘詳報では「各科共訓練の域を出ず特に新搭乗員は昼間の着艦ようやく可能なる程度」と評している。雷撃隊は「この技量のものが珊瑚海に於いて斯くの如き戦果を収めたるは不思議なり」と講評されている。
日本軍の撤退
戦艦大和以下、主力部隊は夜戦を企図し東進していたが、飛龍を失い、再考して翌0時に夜戦の中止を決定し、3時頃には作戦自体を中止。主力部隊は結局ミッドウェー島の遥か数百キロ後方におり、本海戦には参加できず、駆逐艦が救出した生存者を医療設備の整った戦艦で手当てを行ったに留まる。赤城の生存者達は、大和以下本隊が戦闘に全く関与しなかったことをののしったという。
影響
日本
この作戦後、山本連合艦隊長官やその幕僚の責任は問われず、一航艦も長官南雲忠一、参謀長草鹿龍之介は一航艦の後継である第三艦隊の指揮をそのまま受け継いだ。しかし、それ以外の一航艦の幕僚は全て降ろされ、また士官も転出させられた。
開戦時山本長官は「日本は開戦から半年、もって1年は優勢を維持できるが、それ以降はアメリカ(と連合軍)の国力が日本を圧倒する」と述べ、短期決戦早期講和を目指していたが、当作戦の失敗、大敗北により発言力を失い、また実質短期決戦は不可能となったため、軍令部、大本営は長期戦を主軸とした戦略への転換せざるを得なくなった。
国力で圧倒される以前に、戦略、戦術、用兵など全ての拙劣さにより喫した敗北だったにも拘らず、事後に作戦戦訓研究会は開かれず、国民にもこの敗北は伝えられなかった。唯一上記のように参謀本部(陸軍)に対してのみ迅速に伝えられ、ミッドウェー海戦の実態については海軍内はもとより陸軍内でも情報統制がなされた。これは前陸相の畑俊六にさえも真相は伝えられていなかったほどである。
珊瑚海海戦の大本営発表から戦果の大きな水増しが始まった。
本海戦で空母4隻とその搭載飛行機全てを失ったことは大きな痛手であった。すでに珊瑚海海戦で祥鳳を失い、第五航空戦隊も多数の機を失っていた。艦上機は戦闘機会が少ないので生産要求が小さく、この損失はすぐに補填できないものであった。
アメリカ
ミッドウェー海戦で多数の航空機と200名の航空兵が犠牲になるという決して軽くない損害を受けるも、真珠湾を攻撃した空母6隻のうち4隻を葬りさってその報復を果たし、半年に及ぶ日本機動部隊の快進撃をついに食い止めたことはアメリカ軍にとって非常に大きいことであった。また、アメリカ海軍情報局の暗号解読が今回の勝利の大きな要因となったことから、以後アメリカ海軍は暗号解読にもより力を入れており、戦争でそれなりの成果を見せた。
しかし、1942年8月に行われたガダルカナル島の戦いで日本海軍潜水艦の雷撃によってワスプが沈没し、サラトガも損傷を受けて修理のために戦線離脱する状況が生じた。さらに、1942年10月に行われた南太平洋海戦で空母ホーネットが日本海軍に沈められて、エンタープライズに損傷を与えた。それにより、アメリカ海軍は一時的に太平洋戦線での稼動空母が0になるという危機的状況へ陥った。
勝敗の要因
南雲忠一(第一航空艦隊長官)
指揮官の資質
連合艦隊の幕僚たちは南雲中将に批判的であり、交代を要望しており、草鹿参謀長にも批判的であった。
攻撃の判断
攻撃隊半数待機の解除
南雲長官は、敵機動部隊の出現に備えて攻撃隊の半数を雷装で待機させることを連合艦隊と約束したが、ミッドウェー基地攻撃が不十分であるとの報告を受け、その攻撃隊を陸用爆弾に兵装転換するように命じ、敵機動部隊出現の際に攻撃できなかった。
同様の兵装転換作業がミッドウェー海戦の2か月前のセイロン沖海戦でも発生しており、その戦訓を生かせなかったという批判もある。ただ、セイロン沖海戦では1時間半では済んだものがミッドウェー海戦では2時間でも完成しなかった。敵襲を考慮しても2時間あれば十分で、原因としてミッドウェー海戦では直掩戦闘機の補給も同時に行っていたことが挙げられる。
艦隊構成
南雲機動部隊は赤城、加賀、蒼龍、飛龍の空母4隻に対し、護衛艦は霧島、榛名の戦艦2隻、重巡2隻、軽巡1隻、駆逐艦12隻、油槽艦8隻であった。
機動部隊の300浬(約550km)後方に、大和、長門、陸奥の戦艦3隻、空母鳳翔、特殊潜航艇母艦千代田、水母、軽巡各1隻、駆逐艦22隻の主隊、および伊勢、日向、扶桑、山城の戦艦4隻、軽巡1隻、駆逐艦12隻の警戒部隊からなる、山本五十六率いる主力部隊、そして、金剛、比叡の戦艦2隻、空母瑞鳳、千歳含む水母2隻、重巡8隻、軽巡2隻、駆逐艦21隻、輸送艦12隻の攻略部隊が続くという編成であった。この編成では当初の予定通りミッドウェー攻略作戦を行っていたとしても機動艦隊のみで戦うことになってしまい、後衛の主力艦隊はまったく役に立たない。
空母の集団使用は、指揮運用が容易でしかも攻撃力の集中が可能である利点があるが、攻撃を受ける際に一挙に損害をこうむる危険性があることが最大の欠点である。
南方作戦
マレー作戦 真珠湾攻撃(ニイハウ島事件)マレー沖海戦 タイ進駐 シンガポールの戦い フィリピンの戦い(バターン死の行進)香港の戦い グアムの戦い ウェーク島の戦い 蘭印作戦 ビルマの戦い セイロン沖海戦
アメリカ本土攻撃
アメリカ本土砲撃 ロサンゼルスの戦い フォート・スティーブンス砲撃 アメリカ本土空襲 日系人の強制収容 風船爆弾
ソロモン諸島の戦い
FS作戦 ウォッチタワー作戦 フロリダ諸島の戦い ガダルカナル島の戦い(イル川渡河戦 - ヘンダーソン砲撃 - ケ号作戦)第一次ソロモン海戦 第二次ソロモン海戦 サボ島沖海戦 南太平洋海戦 第三次ソロモン海戦 ルンガ沖夜戦 レンネル島沖海戦 ビスマルク海海戦 ビラ・スタンモーア夜戦 ニュージョージア島の戦い い号作戦 クラ湾夜戦 コロンバンガラ島沖海戦 ベラ湾夜戦 第一次ベララベラ海戦 第二次ベララベラ海戦 ラバウル攻撃 ブーゲンビル島の戦い ブーゲンビル島沖海戦 ろ号作戦 セント・ジョージ岬沖海戦
インド洋・アフリカの戦い
アンダマン・ニコバル諸島占領 クリスマス島占領 マダガスカルの戦い 柳船 ストーンウォール作戦 遣独潜水艦作戦 モンスーン戦隊 コックピット作戦 オンボード作戦 ペナン沖海戦
オーストラリア攻撃
オーストラリア空襲 ダーウィン空襲 シドニー港攻撃
ニューギニアの戦い
珊瑚海海戦 ポートモレスビー作戦 ラビの戦い ビスマルク海海戦 カートホイール作戦 ラエ・サラモアの戦い フィンシュハーフェンの戦い アドミラルティ諸島の戦い ホーランジアの戦い 竹一船団 ビアク島の戦い 渾作戦 アイタペの戦い
ミッドウェー攻略作戦
K作戦 ミッドウェー海戦
アリューシャン方面の戦い
アリューシャン攻略作戦 アッツ島沖海戦 アッツ島の戦い キスカ撤退 コテージ作戦
ビルマの戦い
南機関 日本軍の進攻 第一次アキャブ作戦 泰緬鉄道 チンディット 第二次アキャブ作戦 フーコンの戦い インパール作戦 ミイトキーナの戦い 拉孟・騰越の戦い イラワジ会戦 シッタン作戦
中部太平洋の戦い
マキン奇襲 マキンの戦い タラワの戦い ギルバート沖航空戦 マーシャル沖航空戦 クェゼリンの戦い -トラック島空襲 エニウェトクの戦い
マリアナ諸島の戦い
絶対国防圏 パラオ空襲 松輸送 サイパンの戦い(バンザイクリフ)マリアナ沖海戦 グアムの戦い テニアンの戦い ペリリューの戦い アンガウルの戦い
フィリピンの戦い
モロタイ島の戦い 台湾沖航空戦 レイテ島の戦い レイテ沖海戦 多号作戦 薫空挺隊 ミンドロ島の戦い 礼号作戦 ルソン島の戦い マニラの戦い(マニラ大虐殺)セブ島の戦い ビサヤ諸島の戦い ミンダナオ島の戦い スールー諸島の戦い 南号作戦 北号作戦 ボルネオの戦い
仏印の戦い
明号作戦
沖縄戦
十・十空襲 天号作戦 九州沖航空戦 沖縄戦 菊水作戦 坊ノ岬沖海戦 嘉数の戦い シュガーローフの戦い 義烈空挺隊 鉄血勤皇隊 ひめゆり学徒隊 白梅学徒隊 集団自決
日本本土の戦い(内地での戦い)
ドーリットル空襲 日本本土空襲 硫黄島の戦い 東京大空襲 沖縄戦 飢餓作戦 日号作戦 日本への原子爆弾投下(ヒロシマ ナガサキ)樺太の戦い 占守島の戦い
ソ連対日参戦
ソ連対日宣戦布告 樺太の戦い 牡丹江の戦い 麻山事件 葛根廟事件 占守島の戦い 三船殉難事件 敦化事件 真岡郵便電信局事件 北方領土問題
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太平洋戦争の海戦
日本の海戦空戦
1942年の戦闘
1942年のアメリカ合衆国
1942年6月
山本五十六
-『ミッドウェー島』は、
о“日本海軍は投入した空母4隻とその搭載機約290機の全てを喪失した”
о“開戦前、日本海軍は対米作戦の基本的な方針として守勢の邀撃作戦を採っていた”
о“爆撃隊はホーネットから発進後、東京を筆頭に日本の主要都市を攻撃する予定であった”
о“4月下旬に日本本土に戻った第一航空艦隊(南雲機動部隊)は問題を抱えていた”
о“人事異動のため、艦艇と航空部隊双方の技量が低下していた”
о“戦艦大和以下、主力部隊は夜戦を企図し東進していたが、飛龍を失い、再考して翌0時に夜戦の中止を決定し、3時頃には作戦自体を中止。主力部隊は結局ミッドウェー島の遥か数百キロ後方におり、本海戦には参加できず、駆逐艦が救出した生存者を医療設備の整った戦艦で手当てを行ったに留まる”
о“赤城の生存者達は、大和以下本隊が戦闘に全く関与しなかったことをののしった”
о“山本連合艦隊長官やその幕僚の責任は問われず、一航艦も長官南雲忠一、参謀長草鹿龍之介は一航艦の後継である第三艦隊の指揮をそのまま受け継いだ。しかし、それ以外の一航艦の幕僚は全て降ろされ、また士官も転出させられた”
о“作戦の失敗、大敗北により発言力を失い、また実質短期決戦は不可能となった”
о“国力で圧倒される以前に、戦略、戦術、用兵など全ての拙劣さにより喫した敗北だった”
о“大本営発表”
о“アメリカ海軍は一時的に太平洋戦線での稼動空母が0になるという危機的状況へ陥った”
о“連合艦隊の幕僚たちは南雲中将に批判的であり、交代を要望しており、草鹿参謀長にも批判的であった”
о“ミッドウェー基地攻撃が不十分であるとの報告を受け、その攻撃隊を陸用爆弾に兵装転換するように命じ、敵機動部隊出現の際に攻撃できなかった”
о“敵襲を考慮しても2時間あれば十分”
о“機動部隊の300浬(約550km)後方に、大和、長門、陸奥の戦艦3隻、空母鳳翔、特殊潜航艇母艦千代田、水母、軽巡各1隻、駆逐艦22隻の主隊、および伊勢、日向、扶桑、山城の戦艦4隻、軽巡1隻、駆逐艦12隻の警戒部隊からなる、山本五十六率いる主力部隊、そして、金剛、比叡の戦艦2隻、空母瑞鳳、千歳含む水母2隻、重巡8隻、軽巡2隻、駆逐艦21隻、輸送艦12隻の攻略部隊が続くという編成であった。この編成では当初の予定通りミッドウェー攻略作戦を行っていたとしても機動艦隊のみで戦うことになってしまい、後衛の主力艦隊はまったく役に立たない”
-という、
о愚将五十六+南雲忠一のコンビ
-が、
оまた、やってしまった
-という東郷平八郎の海軍の虚像が為した、
о当然の結果
-であった。(つづく)<記2020年12月24日>〈19,812Byte〉