ちょっと気になるタイトルの論文があって、インターネットでダウンロードできたので、読んでみた。
(山本忠行、2013、「日本語直接教授法再考--創造的日本語教育をめざして--」『通信教育論集』16号、69-89頁.)
・日本語教育(あるいはより一般に外国語教育)における直接法の意義を改めて説き、直接法によせられる誤解や批判に対し、改めて直接法を擁護する論文。ただし、直接法と言っても媒介言語を全く使ってはいけないというものではないので、直接法ベースで教えるか、媒介語ベースで教えるか、というものと考えておいた方がいいかもしれない。
しかし、著者の考え方は、文法訳読法に代表されるような媒介言語を使って行われていた知識重視・理解重視・受容偏重の教育に対し、直接法は「使える」ようになる教育を目指す、というもので、知識重視か運用重視か、あるいは理解か産出かという論点と、媒介語で教えるか、直接法で教えるかという論点がまざっていて、媒介語を使って「使える」をめざした教育をすればいいじゃん、と思ってしまった。
なぜ直接法なのかというのは、多くの日本語教師が一度は考えてみたりすることだと思うけど、今の日本語教育では、「使える」を目指すというのが大前提になっていて、その上で直接法と媒介語使用とどっちがいいのか、ということになると思う。そういう意味では、アテが外れた。
・直接法にまつわる「誤解」というのも、「使える」が大事だということが理解されていないというのが著者の基本的な立場で、「使える」ためには媒介語よりも直接法の方がいいという主張もいくつかなされているが、それにはあまり説得力を感じられなかった。
例えば「〜に〜がある」というのと「〜は〜にある」というのの違いを知識として理解しただけでは使えるようにならない、それぞれの場面に結びついた練習が必要だという例を出しているが、「両者の使い分け度習得させるには、媒介後を用いて説明する時間のほうが無駄とも言える。なぜなら、直接法では導入そのものが使用場面と不可分であり、そのまま練習に移行できるのに対して、媒介語による説明をすると、理解-場面-練習と3段階に分けざるを得ないからである。」(81頁)と言っているが、媒介語を使って場面と文型を結びつけながら導入し、そのまま練習に移行すればいいだけの話で、媒介語を使った導入ではそれができないとは思えない。
直接法に対して「分かったつもりで、実はよく分かっていなかい」という事態が発生するという批判に対しては、外国人の子供で生活上の日本語には慣れても教科学習にはついていけなくなったり、英語を学んだ日本人が留学先で講義についていくのに苦労するとかいう話と一緒にして触れ、「目標言語による講義や授業と、直接法による語学教育を同一視している」という誤解だと述べているが、直接法に対して「分かったつもりで、実はよく分かっていない」ことが起きるというのは、語学教育の話であり、語彙や文法が「分かったつもりで、実はわかっていない」という事態のはずである。それを筆者が社会や理科、あるいは大学で学ぶ専門科目の「講義や授業の理解」と一緒にするのは、筆者にとって、「語学教育」ないし「言語教育」とは、表現力をつけることであり、学習者が何かを言えるようになること、話せるようになることであるからである。語彙や文法の「理解」は語学教育の”目的”ではない、ということなのだろう。
「教授法が重要なのは学習者の表現力向上を目的とする場合である。…新聞の経済欄を教材とする場合、学習者が日本語でそれについて語ったり、論文を書くような場合は、それに必要な語句や表現および談話展開の型などを取り上げ、類似のテーマ、あるいは異なる視点や立場から論じることができるように発問や練習を工夫しなければならない。もし授業が内容の理解にとどまるなら、知識や語彙を教える以上の効果は上がらず、表現力を伸ばすことはできない。」(83)
・しかし、とりもなおさず表現力を伸ばすことが語学教育(ないしは語学学習)なのだというのは、それほど自明なことではないと思う。
・今まで(あるいはかつて)教室では語彙や文法の知識を教えるだけだった。でも「知っている」ことと「使える」ことの間には乖離がある。旧来の教育では教室で知識を教えるだけで、「使える」の部分は学習者一人一人の経験や自助努力に丸投げしてきた、という著者の指摘は心に留めておいてよいことだろう。つまり、教室、あるいは授業というのを何をする場所だと考えるのか。
今の日本語教育は、欧米の言語教育のあり方を積極的に取り入れ、「使えるように」というのが大前提となっている。欧米の言語教育だって、最初から「使える」に合わせた言語教育だったわけではなく、さまざまな人たちの苦労や教授法の開発があってできあがったものだ。そういう教授法を開発した人の一人(フランソワ・グアン)が、教授法の開発に先立って、自分自身、一生懸命勉強したドイツ語が全然話せなかったという経験があったというのは、興味深かった。進んでいるように見える欧米の外国語教育だって、挫折しながらやってきたんだな、みたいな。
しかし、直接法なり「使える」ための学習なりは当時よりずっと浸透しているはずで、文法中心の教科書だって昔とはずいぶん違っているはず。あんまり目の敵にするのはどうなんかなぁとも思う。