妙心寺塔頭
妙心寺でも10月2日まで特別公開をしています。
春日局ゆかりの麟祥院
あとのみどころは、海北友松の息子友雪の描く襖絵
雌雄の龍が見られます。
私はわりと好きなのですが、父ほど名をなすことができませんでした。
あとは小堀遠州(伝)の春日局像があります。
海北友松と斉藤利三(春日の父で明智光秀家老)は親交が深かったようで、
その関係で襖絵を描いたのでしょうね。
メトロポリタン美術館にある狩野山雪の襖絵の複製画を展示している
天祥院です。
以下コピペ
1645年に松平忠弘が、父忠明の菩提を弔うために開創した。
1878年に慈性院を合併し、1886年に土蔵と門を除いて焼失、1889年から再建に着手
1976年(昭和51)に本堂の再建がなった。
廃仏毀釈で寺宝は散逸して
めぐりめぐって襖絵がアメリカにあるようです。
ここは保育園のある塔頭
妙心寺は京都のお寺の中でも1番塔頭の数が多く広いです。
ほとんど非公開ですけれどね。。。
ちなみにこの画像は1週間ほど前のものです。
春日局ゆかりの麟祥院
あとのみどころは、海北友松の息子友雪の描く襖絵
雌雄の龍が見られます。
私はわりと好きなのですが、父ほど名をなすことができませんでした。
あとは小堀遠州(伝)の春日局像があります。
海北友松と斉藤利三(春日の父で明智光秀家老)は親交が深かったようで、
その関係で襖絵を描いたのでしょうね。
メトロポリタン美術館にある狩野山雪の襖絵の複製画を展示している
天祥院です。
以下コピペ
1645年に松平忠弘が、父忠明の菩提を弔うために開創した。
1878年に慈性院を合併し、1886年に土蔵と門を除いて焼失、1889年から再建に着手
1976年(昭和51)に本堂の再建がなった。
廃仏毀釈で寺宝は散逸して
めぐりめぐって襖絵がアメリカにあるようです。
ここは保育園のある塔頭
妙心寺は京都のお寺の中でも1番塔頭の数が多く広いです。
ほとんど非公開ですけれどね。。。
ちなみにこの画像は1週間ほど前のものです。
御霊神社の銀杏
今日は本当に寒い日でした。
これ、しぐれではなく
みぞれちゃうん?
というよな雨のような、雪のようなものが降っていました。
まだ11月でしょ
そして、なかなか風邪の抜けきらない我が家です。
こんこんこんこん
かわいそうなことに
寮に帰ったジロがもらって帰り、発病したようで、
「しんどいよ~」
と、メールが来ました
ジロは中学3年間無欠席だったのですが、
やっぱりこういうときは心配です。
昨日の雨風で先日の並木道もすごいことになってました。
一夜でハゲボーズになった木もあります。
御霊神社の本殿裏にある銀杏の木です。
(少し前の画像ですが。。。)
菊花展もしていました。
私の祖父がいつも大輪の菊を育てていました。
素人にはむずかしいようで、
祖父が亡くなると菊もなくなってしましました。
菊を見るたびに
祖父を思い出します。
これ、しぐれではなく
みぞれちゃうん?
というよな雨のような、雪のようなものが降っていました。
まだ11月でしょ

そして、なかなか風邪の抜けきらない我が家です。
こんこんこんこん
かわいそうなことに
寮に帰ったジロがもらって帰り、発病したようで、
「しんどいよ~」
と、メールが来ました

ジロは中学3年間無欠席だったのですが、
やっぱりこういうときは心配です。
昨日の雨風で先日の並木道もすごいことになってました。
一夜でハゲボーズになった木もあります。
御霊神社の本殿裏にある銀杏の木です。
(少し前の画像ですが。。。)
菊花展もしていました。
私の祖父がいつも大輪の菊を育てていました。
素人にはむずかしいようで、
祖父が亡くなると菊もなくなってしましました。
菊を見るたびに
祖父を思い出します。
雲ケ畑の神社
鴨川源流の雲ケ畑です。
ウィキペディアに雲ケ畑のことが詳しく書かれていますので、
一部抜粋します。
雲ケ畑は賀茂川の水源地である。従って、この地が汚染されると、下流の京都御所、ひいては京都の街一帯に幅広くその影響が及ぶ。そこで、雲ケ畑の住民はこの水をけがさないように心得て生活をしてきた。昭和30年代までは、死者の埋葬(穢れとされていた)に際しても、この地を避けて持越峠 を越えた真弓集落まで運び、そこで埋葬の段取りを済ませていた。かつては、おむつをゆすぐこともできなかったという
上記の惟喬親王をお祀りした惟喬これたか社
第一皇子だったにもかかわらず、
藤原家の血を引く清和天皇が皇位をついだので、皇位につけませんでした。
惟喬親王をお祀りする大徳寺南側の玄武神社HPに
親王のことが詳しく載っています。コチラ
親王の可愛がっていた雌鳥をここに埋めたとかで、雌宮と書かれています。
こちらは何のお社でしょうか。中には祠が2つありました。
こちらは厳島神社
式内社だそうです。
(歴史が計り知れますね。)
残念なことに雲ケ畑の小学校は今年の春で廃校になりました。
小野郷小学校もなくなったし、少子化の波がどんどん押し寄せています。
ウィキペディアに雲ケ畑のことが詳しく書かれていますので、
一部抜粋します。
賀茂川の源流域に沿い広がる雲ケ畑は、近世まで朝廷との結びつきが強固だった。平安京 造営に際してはこの地の木材 が用いられた ほか、仙洞御料(せんとうごりょう、上皇の所領地)として、木材や鮎などを始め、端午の節句にはしょうぶを献上する「菖蒲役」を務めていた。薪炭や鮎などを朝廷に献上する供御人の活動地でもあった 。
平安時代前期に、時の権力者の圧力で皇位継承から遠ざけられた惟喬親王が、隠棲して出家した場所としても有名である。雲ケ畑の村人に慕われた彼にまつわる話が数多く伝えられている 。
略雲ケ畑は賀茂川の水源地である。従って、この地が汚染されると、下流の京都御所、ひいては京都の街一帯に幅広くその影響が及ぶ。そこで、雲ケ畑の住民はこの水をけがさないように心得て生活をしてきた。昭和30年代までは、死者の埋葬(穢れとされていた)に際しても、この地を避けて持越峠 を越えた真弓集落まで運び、そこで埋葬の段取りを済ませていた。かつては、おむつをゆすぐこともできなかったという
上記の惟喬親王をお祀りした惟喬これたか社
第一皇子だったにもかかわらず、
藤原家の血を引く清和天皇が皇位をついだので、皇位につけませんでした。
惟喬親王をお祀りする大徳寺南側の玄武神社HPに
親王のことが詳しく載っています。コチラ
親王の可愛がっていた雌鳥をここに埋めたとかで、雌宮と書かれています。
こちらは何のお社でしょうか。中には祠が2つありました。
こちらは厳島神社
式内社だそうです。
(歴史が計り知れますね。)
残念なことに雲ケ畑の小学校は今年の春で廃校になりました。
小野郷小学校もなくなったし、少子化の波がどんどん押し寄せています。






