お金がとかく必要なくなる世界を考える。
いや、お金にとかく
「あくせくしなくてもいい」世界を考えてみる。
その条件は?
1、食べなくても生きていけるようになる
もし、水と空気だけで生きていけるように
なったら、だいぶ不安は減るだろう。
衣食住の衣と住居だけ確保できれば、あくせく
お金に振り回されることも減るのではないだろうか。
ただ、人間の活動は今ほどアクティブではなくなるのかも。
2、寿命が例えば1000年になる
平均寿命が80年ではなく、
例えば1000年くらいあれば、
色々余裕も生まれるのではないか。
ただ、「生きているという事への貴重性」
のような感覚は、減るかもしれない。
人間の活動は今ほどアクティブではなくなるかも。
3、死の概念が明確に変化する
2とダブる気もするが、
死というものが、無に帰す喪失、永遠の別れ、
といった恐怖を伴う悪しき事態という解釈から、
全体的に見れば単なるエネルギー状態の変化、
一つのゲートをくぐるような体験、
とった解釈に変われば、不安はなくなるかもしれない。
しかし、人間の活動は今ほどアクティブでは
なくなるかもしれない。(死と対の生の概念も変わる)
4、自他の境界の曖昧化
一切諸法、すべてが宇宙の根源より分かれ出た
同胞であるという感覚を明確に持つと、
とかく奪い合ったり、貯め込んだりすることなく、
分かち合う世界になり、そもそも貯蓄とか資本、
という観念は無くなるかもしれない。
5、人が自分の想像と創造の中で、
リアルにやりたいことが出来る能力を得る
これは究極だが、人が何でも自分の思い通りに
創造できるようになれば、他から何かを欲する
必要もなくなるだろう。
しかしそうなると一体この世界に生きる意味は?
お金に振り回されなくなる条件を取り敢えず
1から5まで挙げてみたが、どうだろう。
それは気づけば
自然と人間から不安や欲望が無くなること
について言及していることになっていた。
それならばつまり、
お金の世界、資本主義経済社会は、
不安を煽る社会体制、とも言えるだろうか?
上述した1から5の条件、
たしかに不安はだいぶなくなると思うが、
その代わり、生の貴重性の感覚と、生命活動
を促す条件はだいぶ減って、生のアクティブさは
今よりだいぶ減ってしまうのかもしれない。
(⇒「主よ、人の望みの喜びよ」という曲名に注目)
この地球という星で人間を生きるにあたって、
「生を生きる」には、生命を生へと促す、
ある種の仕掛けというものが必要なのかもしれない。
それは、お金(金融資本)というものが発生するような、
何かしらの未知や不安を孕んだ世界が、
ある程度前提されうるのかもしれない。
(それはまた自由という感覚の条件でもある)
食べなければいけない。
思い通りにはいかない。
死の恐怖がある。
という世界は、我々をアクティブに動かかす為の、
つまり「生きる」という概念を発生させるための
仕掛けなのだろうか?
だとすれば、我々は甘んじて不安で回る世界を
許容しなければならいのだろうか。
地球で生きるにあたっては。
「不安は自由の眩暈」でもある。

つまり、これらは我々が人間を生きるために、
仕掛けとして設けられている。
それがこの地球で生きるという事なのだと。
ある種の未知と不安は、生命を生へと促すための要素
だとすると、
ある意味我々は「縛りプレイ」を楽しんでいるのだろうか。
さらに痛みや恐怖が無くなったら、、
それは夢の世界と同じようなものかもしれない。



