もしも言語が無かったら。
我々は流れては消えゆく世界表象を
繋ぎ止めることは困難だろう。
言語は想起のよすがであり、
また想像のよすがである。
また、その想像は新たな創造へとつながる。
言語は言わば、無常無我なるこの世界で、
世界をつなぎとめるための、また創造の為の
ツールであろうと言える。
いわば「創造の種子」なのだ。
(自我というペルソナの創造の種子でもある。
またそれが集まり、集合意識(時代の精神)を形成するのだ)
五大に皆響きあり。
ソースは既に与えられている。
我々がどうしようとも、感覚と意識を開けば、
動き出す世界がある。
世界は現れ出ている。
「何なんだこれは!」ここ、実は驚くとこ。
世界には存在の驚きだけがある。
それは密教的に言えば、
大日如来(根源)からの「加」である。
(加持の「加」で、「持」は我々がそれを受け取ること。)
「世界を自由に表象していいよ♪」
と、宇宙には情報が響き渡っており、
我々はそれを受けて自由に
意味付けすることが出来ている。
十界に言語を具す。
六塵(感覚や意識の対象)はことごとく文字なり。
と空海の言葉にある。
あらゆる生命が、その生命の生活様式に合わせて、
世界を解釈することが可能であるという事だ。
我々の目の前には、驚くべき世界が現れ出ている…。
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五大に皆響きあり
十界に言語を具す
六塵ことごとく文字なり
法身はこれ実相なり
・声字実相義 空海
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世界は仏の智慧の広がりである。
それは遍く世界に響き渡っている。
我々は与えられた情報を主観で自由にとらえることができ、
ゆえに、覚れば仏、迷えば凡夫である。
意識と感覚を開けばそこは動き出す世界。
世界は仏の姿そのものである。
(私の意訳)