不完全なる者の完全を求める愛求心 | ☆ 俺たちにはつきがある!☆彡

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  ~ The Moon is always with us ~

 

不完全なる者の、完全を求める愛求心。

 

何のことかと言うと、

我々のエロースのことである。

我々はニンゲンであり、また男とか女とか、

半端な状態で生まれており、

その「半端」が、完全性を求める欲求がエロースである。

我々は未だ見ぬ善美に恋い焦がれている。

 

しかしここで、完全性を求めることが出来る

ということは、

実は我々自身の中に完全性(宇宙)を内在していて

いるからこそ、

それを頼りにそれを欲することができるのだ、

ということ。

それが生を生へと動かす動力となっている。(=エロース)

 

 

プラトン的に言うと、

我々は宇宙の全イデアを既に分有していているからこそ、

何かに興味を持てるし、何かに気づいたり、

分かったりできる、ということである。

 

すなわち、理解とはイデア想起の事である、と。

これがプラトンのイデア論のコア。

 

本質が無ければ現象世界から諸物を抽象できない。

いや、それ以前に世界を表象できないのだ。

 

(今風の言葉でいえば、

あらゆる可能世界を想定して

プライミングができるのは、

その可能世界がすでにあるからなのである。)

 

その「現象世界」は、主観である以上、

「イデアの似像」でしかないのだが、

それでも心を純化し、

真実在を求めんとする愛知心こそが、

フィロソフィー(愛智の精神)である、

というのがプラトンとソクラテスの哲学論。

(智ある無知)

 

 

完全性を有しながら、半端な状態で生きている

我々は果たして、完全性に近づけるのだろうか。

これはゲームを楽しんでいるのだろうか。

できないとしても、それを追い続けるのが

ソクラテスの言うフィロソファーである。

 

ところで、密教的には

空海の「即身成仏」の考えがある。

宇宙のすべてである、宇宙(大日如来)になれる、と。。

その身そのままで仏である、と。

西洋の哲学は我があることを前提して哲学するわけだが、

東洋の仏教哲学では、その我をこそ、とことん滅して、

心身脱落、生滅滅已、一なる縁起世界に帰すことを彼岸、

無我の境地とする。

 

すべては幻想であり、意味などない、ということを

思い知るのだ。

しかしまた、それを知りつつ、煩悩を生きるのも、

煩悩即菩提、生死即涅槃で、

官能という涅槃世界をエンジョイしていい、

というのが密教の懐深いところである。

 

 

あくまでそれを知りつつね。