「悲劇の主人公」でい続けるのはもうやめにしよう | ☆ 俺たちにはつきがある!☆彡

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  ~ The Moon is always with us ~

 

「悲劇の主人公」でい続けるのは

もうやめにしよう、というお話。

 

なぜなら、「被害者意識」でい続けると

被害者色でしか世界が見えないし、

そして、それを踏まえた行動しかとら(れ)ないから。

その意識を抜けないと、

新しい世界は切り開かれない。

 

だから、その

「甘き絶望のポジション」から、

いつかは立ちあがなければならない。

いつまでもしがんでいてはならない。

そのガム、もう味しないんじゃないの?と。

 

貴方が大変だったのは分かる。

非常によくわかる。

でも、あなたもどこかで、今のままでい続ける事が、

決して最善ではない、ことは分かっているはずじゃない?

いつかはその椅子から立ち上がらなければならない、と。

 

 

 

実は、「悲劇の主人公という椅子」は、

実に居心地がよいのである。

言い訳ができるし、かわいそう、

と言ってもらえるから。

 

言い訳ができる。

 

だから、その居心地のいい椅子から離れたくない。

・・・そう、かくいう私もそうだ!

どうも、まだ世界に対して恨み節がある。

「こんな世界に投げ出しやがって!」と。

鬼束ちひろの「月光」をよく聴くタイプの人よ!

 

しかし、いつまで続けてんだ、と。

どこかで踏ん切りをつけなければならないよね。

 

 

打開策としては、自分の人生は、

自分で選んだものだ、どこかで納得するしかない。

哲学思想の世界で、「運命愛」という考えがあるが、

そう、自分の人生は自分で選んだ、

これは自分特有の苦悩である、と、どこかで

引き受けて、前に歩み出さなければならないのである。

 

「俺が選んだ?んなバカな。ふざけんな!」

 

と思うかもしれない。うん、私もそう思う。

 

しかしあなたの体験は、あなたの性質と、

切り離すことはできない。

環境が劣悪だったとしても、

貴方と同じ体験を皆がするとは限らない。

不可抗力だったとしても、

あなたが選んだ、ということには違いないのだ。

(認めたくないのもわかる。。)

 

↓参考記事

 

 

 

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「もし、君が今の自分の性質を全部捨てれるとしたら、
捨ててしまってもいいかい?」

 

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いつの間にかじゃない

自分で選んで歩いてきたこの迷路(人生)

(B'z ねがい)

 

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もう一つの考え方としては、

この世界にもともと意味なんてないんだから、

出来事自体に意味は無く、

「そういう体験をしたというだけ」だ、

と一歩引いた視点で自分を含めた世界を

見れるかどうかにある。

それは事がただ起こったに過ぎない、と。

もともと付属するイミやカチなどない。

だから「悲劇の主人公ごっこ」の意味付けはもう終わりだ。

 

↑しかしこれは難易度高いとも思います。

私も20年以上は考えに考えて、

ようやくわかってきたところです。

それと、そう「スカして見れたところ」で、

自分の中の辛い気持ちや、

やるせない想いはやっぱり残るんだよね。

冷めた振りしてみても。

 

だから、これは私のブログのテーマでもあるけど、

自分自身を愛するってのはすごく重要であると

思っています。

「一人よしよし」で自分を癒していくこと、

とてもとても大切です。

 

「しょうがないよね。大変だったよね。

 誰だってそうなりうるんだよ。」

 

ためらいなくそう自分に言えるようになりたい。

悟り澄ますよりもむしろ、

こっちの方が大事だと、私は思っている。

いくら冷めた振りして世界を見たところで、

つらかった情動の記憶をとかすのは、

最強の情動である、愛しかないとも思うのだ。

 

それと、すべては縁あって起こっているんだから、

すべて自分の責任だとか考えるのも

傲慢でしかない。ということ。

 

色んな縁があって君の生命はあるんだから、

そうあるべくしてあったとも言える。

君だけいろいろ抱え込むのは、勝手な見当違い

ってもんだぜ。

心を軽くして前に歩いていこう。

 

 

 

ありうる可能性の一つとして、

今の自分の可能世界がある、という事に過ぎない。


悲劇の主人公ごっこはもう終わりにしよう。

自分自身を愛して、これからは明るい未来に

焦点を当てて、歩いていくのだ。

 

Love yourself

 

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追記

 

どんな経験でもそれ自体に意味は無い、

という事は、無駄な経験もない、ともいえる。

起こりうる一つの可能性を体験した、という事。