般若心経
毎日読経していると
「いいこと」があるという。
意味が分かってなくても
かまわんという。
「ほんまかいな?」
そう思う。
しかし、読経できている時点で、
ボーディサッタ(菩提心を持つ者)として
「悟り」に気が向いていることになる。
一念三千
我々は気を抜くと三千世界、
どこにでも気が向いてしまう生き物である。
故に読経は、
人のこころの指針を、菩提心をつなぎとめる、
心のよすがになりうる。
それがお経に触れること自体の
一つの意味であろう。
親鸞が「本願誇り」を咎めなかったのも、
仏縁をいただけているだけ、頂きものと
考えたのだ。
まあ、とかくお経じゃなくて、神社仏閣に
参拝する、とかでもいい。
でも毎日できるのは、これとか
神棚とかに手を合わすのとかだね。
こういった「ルーティン」は
自分を助けるための、つなぎとめるための、
「必要なおつとめ」だと思って、
できるならやった方がいいね。
できないときはピンチだと思った方がいいかも。
お経の場合、さらに言えば、
理解が浅くとも、毎日触れていれば、
いつか腑に落ちることがあるかもしれない。
急に意味が分かることがあるかもしれない。
私はそういうことがたまにある。
例えば、般若心経の
依無所得故~のくだり。
依無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
遠離一切顛倒夢想 究境涅槃
そう、
この世界の存在物はお互いに拠っているから、
すべては「実在ではない」。
それは私という自我もしかり。
となると、実在しない、相対的な縁起物に
拘るのもどうかしている。
無智亦無得
「悟り」とか「無明」も人間がこさえた概念で、
そんなものもない。
般若心経自体が方便。
自然物はお経がなくとも、ただ存在しているわ。
となると。
実在しないものに拘るのをやめれば。
遠離一切顛倒夢想
自我から「ぱっ」と手を離した時、
実はこの縁起世界すべてが自分のよすがで、
小我を失い、大我を得るのである。
万法に証せらるる。
十方世界是全身。
依般若波羅蜜多
とはおそらくそんな境地なんだろうと思う。
三千世界、インドラ網でつながる縁起世界に
念いを馳せよう。
↑無所得故の天衣無縫
ニャンコはそれだけで素晴らしい。

