中間存在 | ☆ 俺たちにはつきがある!☆彡

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  ~ The Moon is always with us ~

 
哲学の根本的な問題の一つに、
真理論というものがある。
正しい世界認識とは一体どういうことか。
何を持って真の客観的理解とするのか。
「どういうことをもって正しい知とするのか」
という問題である。

 

一般的に正しい世界認識、
客観理解とは認識と実在が完全に一致すること、
客観をまるまる把握することなわけですが、

 

 

<認識主体> → <認識対象>

 

 

それは不可能である。
認識する主体、というものが想定されている以上、
認識される対象は、認識主体の
感性やら悟性やら脳やらといったフィルターを
通しての限定された対象になる。
その認識が、実在と完全に一致していると
メタ的に確かに確認できる者はいない。
神でも無ければ。
(一致したならばそれは既に「認識対象そのもの」である)
(象、数、論理を用いた、いわゆる言語という
ツールにより保障される客観も、
それもまた人間による客観設定、客観の限定である、、と言ってみる)

 

 

(ニーチェに言わせれば、真理とか客観的実在とか、
そんなもの設定している時点で
既にアホなのだ、ということになりますが、
「解釈があるのみ」とするニーチェの考え
ではやはり物足りない。)

 

 

カントは「物自体についてはわかりましぇーん!」と言った。
ニーチェは「真理なんてあるかい。認識する各々の解釈があるだけだゴルァ!」
ウィトゲンシュタインは「哲学なんて最後に言ったモン勝ちでしょ」

 

 

我々は客観的真理に到達することは永遠に不可能なのだろうか?

 

 

 

ところで、英語の「Interest(興味を持つ)」の語源は
ラテン語の「Inter=esse」という言葉から来ているそうです。
このラテン語Inter=esseの意味は「中間」という意味なのだそう。

 

 

 

なぜInterest(興味を持つ)の語源が
「中間」を意味する言葉から来ているのか。
それは、我々はいつも理解(真理)と
無理解(無知)の中間にあって、
「だからこそ、世界に興味を持つことができるのだ」、
という意味を孕んでいるようです。
全くの無知であるならば知りたいと思うきっかけ、
興味すら持たないだろうと。

 

 

つまり、我々はいつも、

 

 

「分かる、と分からないの中間にある存在」

 

 

中間存在なのだ、と言うことがこの意味の中にはある。

 

 

我々は世界を認識するに最低限必要なものは、
一式持っているのかもしれない。
しかし、常に客観的理解には届かない。
我々はいつも、真理と無知とか、
完全と不完全とか、有限と無限といった
カオスとコスモスの間にあって、
そしてその統一を目的とすることで、
それを動機として、動いている、生きているのかもしれません。

 

 

2006年 8月12日(土)02時13分8秒 +加筆