哲学の根本的な問題の一つに、
真理論というものがある。
正しい世界認識とは一体どういうことか。
何を持って真の客観的理解とするのか。
「どういうことをもって正しい知とするのか」
という問題である。
正しい世界認識とは一体どういうことか。
何を持って真の客観的理解とするのか。
「どういうことをもって正しい知とするのか」
という問題である。
一般的に正しい世界認識、
客観理解とは認識と実在が完全に一致すること、
客観をまるまる把握することなわけですが、
客観をまるまる把握することなわけですが、
<認識主体> → <認識対象>
それは不可能である。
認識する主体、というものが想定されている以上、
認識する主体、というものが想定されている以上、
認識される対象は、認識主体の
感性やら悟性やら脳やらといったフィルターを
感性やら悟性やら脳やらといったフィルターを
通しての限定された対象になる。
その認識が、実在と完全に一致していると
その認識が、実在と完全に一致していると
メタ的に確かに確認できる者はいない。
神でも無ければ。
(一致したならばそれは既に「認識対象そのもの」である)
(象、数、論理を用いた、いわゆる言語という
神でも無ければ。
(一致したならばそれは既に「認識対象そのもの」である)
(象、数、論理を用いた、いわゆる言語という
ツールにより保障される客観も、
それもまた人間による客観設定、客観の限定である、、と言ってみる)
それもまた人間による客観設定、客観の限定である、、と言ってみる)
(ニーチェに言わせれば、真理とか客観的実在とか、
そんなもの設定している時点で
既にアホなのだ、ということになりますが、
既にアホなのだ、ということになりますが、
「解釈があるのみ」とするニーチェの考え
ではやはり物足りない。)
ではやはり物足りない。)
カントは「物自体についてはわかりましぇーん!」と言った。
ニーチェは「真理なんてあるかい。認識する各々の解釈があるだけだゴルァ!」
ウィトゲンシュタインは「哲学なんて最後に言ったモン勝ちでしょ」
ニーチェは「真理なんてあるかい。認識する各々の解釈があるだけだゴルァ!」
ウィトゲンシュタインは「哲学なんて最後に言ったモン勝ちでしょ」
我々は客観的真理に到達することは永遠に不可能なのだろうか?
ところで、英語の「Interest(興味を持つ)」の語源は
ラテン語の「Inter=esse」という言葉から来ているそうです。
このラテン語Inter=esseの意味は「中間」という意味なのだそう。
ラテン語の「Inter=esse」という言葉から来ているそうです。
このラテン語Inter=esseの意味は「中間」という意味なのだそう。
なぜInterest(興味を持つ)の語源が
「中間」を意味する言葉から来ているのか。
それは、我々はいつも理解(真理)と
それは、我々はいつも理解(真理)と
無理解(無知)の中間にあって、
「だからこそ、世界に興味を持つことができるのだ」、
「だからこそ、世界に興味を持つことができるのだ」、
という意味を孕んでいるようです。
全くの無知であるならば知りたいと思うきっかけ、
全くの無知であるならば知りたいと思うきっかけ、
興味すら持たないだろうと。
つまり、我々はいつも、
「分かる、と分からないの中間にある存在」
中間存在なのだ、と言うことがこの意味の中にはある。
我々は世界を認識するに最低限必要なものは、
一式持っているのかもしれない。
しかし、常に客観的理解には届かない。
我々はいつも、真理と無知とか、
しかし、常に客観的理解には届かない。
我々はいつも、真理と無知とか、
完全と不完全とか、有限と無限といった
カオスとコスモスの間にあって、
カオスとコスモスの間にあって、
そしてその統一を目的とすることで、
それを動機として、動いている、生きているのかもしれません。
それを動機として、動いている、生きているのかもしれません。
2006年 8月12日(土)02時13分8秒 +加筆
