今日は新月●。
今年はじめの新月●に、
自分の思想の発展を願って
このブログで文を書いて来て
月の1サイクルが経過した。
そして今日出来上がっ記事のタイトルは…、
「私は何者でもあるし、何者でもない」
これは驚くほどに上手く着地できたと思う。
何と、月のサイクルを待って上手くいった。
しかもこれはリフレクターにとって
特に重要な認識だと思う。
しかも「驚き」も伴った。
「私は何者でもあるし、何者でもない」
自我とは本来無我なのだから、
周囲との関係性の中で私はあるわけだ。
仏教的に言えば
<すべては縁あって起こっている>
となると、無我を知り、
「自我(小我)を相対化できていれば」、
各々、人生文脈から得た経験と知識は、
そのまま縁起世界(もしくは集合意識)の中での
一機能となり、他者と関わることで
生起される私が私になる。
私は何者でもあるし、何者でもない。
周囲との関係で起こりうる私の反応は、
「わたくしといふ現象」である。
リフレクターは自身の性質に明らかである
必要があるそうだが、本当にそうで、
そうでないと所属するコミュニティ
しだいで幸にも不幸にもなりえる、
「風に翻弄される葦」になりかねない。
あえて、厳しい環境を選び、思索の中で
生きてきたリフレクターなら、
汝自身を知り、
「風に乗って踊る葦」にならなければならない。
だから是非とも自らの本質に明らかになり、
我執(恐れ)から手を離し、
「わたくしといふ現象」を観察できる視座を
何とか手に入れよう。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
春と修羅 序 宮沢賢治
「私は何者でもあるし、何者でもない」
インドラ網(諸法無我)のつなぎ目で
いかにも確かに明滅(刹那滅)する私は
宇宙のエネルギーの通り道である。
それはわたくしといふ現象だ。
尊敬する賢治先生の言いたいことが
やっと少し分かった気がした。
って言うか書いている途中で賢治の
詩を思い出して、最後にタイトルを書き直した。