万物斉同という言葉がある。
荘子に出てくる言葉で、
言わば存在の各々一切合切が天地であり、個とは、
「すべて」の一側面を主観が単にフォーカスした
(主観が勝手に切り取った)
姿にすぎないという、、
神の視点から見たような世界観なのだが、
これはブーバーの言う、「我と汝」の関係の完全系というか、
その相手が人間だけでなく、
世界全体まで広がった感じなのかな、
というアナロジーが最近頭の中で起こった。
そう、私の感覚が宇宙全体まで広がった感じ。
境界のない世界で境界をつくっているのは私だ。
まあ、それが分かる(限定)ということなのだが。
仏教でいえば「一即多多即一」で、
言語道断の一なる世界を荘子は見ている。
その一なる世界に悠遊と身を任せ、道に遊ぶ。
荘子は「道」というダイナミックな波(神の息遣い?)に乗る、
大自然サーファーだ。
関連しているかどうかはわからないが、
これに気づくきっかけになったのが、最近学んだルター先生の
「信仰義認」というキーワード。
我々素人には信仰義認というよりは、「恩寵義認」と言った方が
わかりやすい。
「義認」というのは宗教用語で、「救い」を意味する。
だから信仰義認とは、信仰によって我々は救われている
(天国行きのチケットポケットIN!)という意味。
しかしルター先生が言うには、
その信仰さえも、自然とあなたに起こるように、
天からプレゼントされたものである、とのこと。
そして、この天からのプレゼントは、
信仰だけに限らず、謙虚に大自然を見れば、
数多に及ぶことに気づかないだろうか。
そう、我々はこれらの恵みによって自由を得ているのだ。と。
我々はすでにある数多の恩寵によって自由である。
あなたはその事実に気づいて、そこに目を向け、
その恵みを信頼すること。
それが信仰である。
それはつまり、我々は恩寵によって救われている、
とも言えるわけだから、
「恩寵義認」ともいえるわけだ。
(我ながらわかりにくいなー。)
ゆえにルターの神学は「恵みの神学」という。
こういう理解は、素直さとか、人格の力が求められている気がする。
小さな自我にとらわれていては、それを認められないし。
賢者がたどり着く最終的な境地は、もちろん知恵もいりそうだけど、
なんというか、心の素直さとか、透明さも必要な気がしてきた。
ルター先生に感謝。
2017/12/29