世のなか本当に必要な物って実はそう多くはないように思う。
現代では「スマホさえあれは充分」なんて思っている人も少なくないのではないだろうか。
(尤も、スマホを所有するのに必要になってくる事物があるから流石に「スマホだけ」って事はないように僕は思うけど…)
ミニマリストの「必要最低限の物しか所持しない」その姿勢も然ることながら
「必要最低限の物で自分を表現する」そうした生き様に僕は惹かれる。
生活に必要不可欠な物だけを所有し出来れば必要に応じてその手入れも欠かさない、そんな物だけに囲まれていたら部屋も綺麗だろうし心も豊かになれそうだなぁ…
「便利になる」という事は必ずしも良い面だけではなく一歩付き合い方を誤ると弊害をもたらす諸刃の剣だと僕は考えている。
例えば交通の移動速度は速くなったが結果寝台列車などが列島から姿を消し、旅行など「非日常な」体験を味わいたい場合には普段の目まぐるしい生活と同じ「スピード」は必ずしも必要でない事に今になって気付いたり(一部の豪華列車にはまだその特色が残されている)、デジタルツールの発達による「コミュニケーション能力」の低下も指摘されたりしている。
因みに僕はフィーチャーフォンで検索ブラウザの閲覧が出来なくなった頃にスマホへ乗り換えたが、未だに中途半端な感じが否めない。
まず主に使う長文の入力(ブログやメールなど)ならパソコンの方が画面も打ちやすさも断然優っていると思うし、肝心の「電話」にしても勝手にリダイヤルしていたり突然圏外になったりと嘗ての携帯電話では有り得なかった事の連続だ。確かに地図の閲覧はスワイプによって格段に利便性が向上したが、それでもやはり色々な便利機能を集約させようとして器用貧乏になっている感じがする。まるでビジネスを手広く展開しようとして社員の負担を増やしているだけの企業のようだ。
因みに先のブログでハッシュタグに「フランケンシュタイン」と入れたのは、「偏愛者によって生み出された怪物」という点が共通していると感じたから。しかしながら僕の敬愛するイギリスの詩人シェリーの妻、メアリー・シェリーによって書かれた(実は夫の方の作であるという見方もある)この小説を僕も読んだが、生みの親の異常性に反して怪物(「フランケンシュタイン」というのはそれを創造した科学者の姓)は善良な心を持っていたようだ。この部分に関しては先程の不正改造車輌の場合、作り手ないし乗り手の意思がそのまま表れてしまう点が異なる。
最近は音楽にせよ科学の発展にせよ、何だか音楽家や科学者のエゴというか実験的な作為を感じて止まない。
音楽には2000年代中ごろまで感じられた自然なハーモニーが聞かれなくなった様に思うし、昨今話題となっている「AI」(これは科学者というよりどちらかと言えばプログラマーによるものだが、良い例が思い浮かばなかった)の様に一歩間違うと社会が暴走しかねないコンテンツ(実際本当に必要なのか首を傾げてしまう機能も多い)がどんどんと開発され、併せて競争も過熱している。
何だか人間は自分で自分の首を絞めているような気がする。
急進的かもしれないがやがて人間は自らの手で滅びるのだろうという気さえする。
昨今では生産性(まぁ元来人を「生産性」という言葉で評価するものではないようにも思うが)を要求されるのを嫌い同性で、或いは異性同士であっても「子を持たない」という選択(勿論この中には社会的な事情で持ちたくても持てない人もいる訳だが)をする者もいる。
(繊細な話題なのでオフレコで、これは前々から気になっていたのだが、「LGBTQ+」の人たちって昔から同じくらいの数いたのだろうか?それがここ最近の表顕運動の活発化によってやたら目につく様になっただけ?
というのも例えば、あくまで仮に、喫煙など特定の条件下で奇形児が増えるという統計を耳にした事があるし、もし仮にそもそも病的な要素を含んでいるのだとしたら適切な治療によって治癒し、何も人権問題まで持ち出す必要は無いのでは?と思う。喩えは悪いが、奇形児が大半を占めるようになったからといってそれが社会の通説で「正常」と認められる事はないと思うし、この場合やはり問題視されるとしたらそうした状態で赤ん坊が産まれてくるようになった環境の変化といった背景だろう。ただ生まれながらに障がいを抱えていても懸命に生きている人々もいる訳で、彼らに「治療をしたら治るんじゃない?」という言葉を掛けるのは疎かその人権を認めないのはいくら僕でも時代錯誤であると理解している。況して近所にはハンセン病の資料館があるのだから…)
Σigma